7-2.

 手ぶらで歩くのがこんなに不安定だとは思ってもみなかった。

 いつもより軽い身体。歩くたびにふらふらと揺れて、とても頼りない。

 図書館に着くと、案内のガイノイドが扉を開けてくれた。

「スティーリア様、お待ちしておりました」

「待つことなんて何かあった?」

「定型文でございますよ」

 ガイノイドは入館証を持ってきて、首にかけてくれた。そいつをゲートに通すあいだに、数人の学生たちが入れ違いに出て行く。


「もうすぐ中間テストだってね」

「はい。来客が多いので、整理券を配布しております」

「私はいいわけだ?」

「何しろ私たちは『備品』でありますから」

 このガイノイドは古株らしく、なかなか柔軟に対応してくれる。

 隣を歩く彼女の、折り目のついた服を見て、スティーリアは自分の着衣と比べた。

 頑張って自分で補修してみたが、やはり破れたところが大きくてツギハギが目立つ。気に入ってたんだけどな、と呟いた。そろそろ古くなっていたから買い替え時かもしれない。

「お洋服のねだり方とか、いい本あったら教えてくれない?」

「あなたも懸想けそうなさるので?」

 ガイノイドはわざとらしく笑った。まだまだこういう表情は下手くそだ。

「……かもね」

「承りました。次のご来館までに探しておきます」

「うん、ありがと」

 奥の自習室まで来ると、彼女は会釈して帰った。


 シズ・キョウカは入室してすぐに見つかった。

 隅っこのカウンター席で、参考書に埋もれるようにしてペンを走らせていた。いつものように、周囲のことなどちっとも気にかけていない。

 スティーリアは隣に座った。

 どうやら現代文をやっているらしい。登場人物ごとにセリフを色分けしている。ちょっぴり懐かしくなった。読むのが苦手なシズは、実家で絵本を読むときもこうやって色分けしていたものだ。

 彼女の近くにいるとラベンダーの香りがした。これも昔よく付けていた香水だ。


 ――ねえ、君は何を考えてるの?


 スティーリアは声に出さずに問いかける。


 ――私はね、あなたがいないと何をしたら良いかも分からないんだ。


 人間は目的地が無くても歩ける。

 スティーリアは違う。すべての行動に意味を求めてしまう。心臓のひと打ち、ナトリウムポンプのひと縮みすら、何か理由が無ければエネルギーの無駄だと感じてしまう。


 君には何も無い、と言われた。

 そうかもしれない。誰かが望むから駆動する。望まれたいから頑張る。

 本当は自分で動かしているパーツなんて、ひとつも無いのかもしれない。

 今だって、望まれたらこの人を殺すことに躊躇はない。

 そういう風に、この身体は出来ている。そのことの是非すら分からない。


「キョウカって、私が付き添ってもぜんぜん眠ってくれなかったよね」

 まだペンの音は続いていた。今なら何を言っても彼女の耳には入らないだろう。


「ママの病気が見つかったときもそうだった。独りじゃ眠れないから、誰か付いてないとダメで。でも使用人のみんなじゃ無理だったから、結局ママに任せっきりになっちゃった」

 入院なら何度も勧めた。

 そのたびにシズの母からは「大丈夫」と言われた。

 しかし、彼女がまったく大丈夫じゃないことはみんな知っていた。

「私、たぶん無理やり入院させるべきだったの。でも、それってキョウカが眠れないってことでしょ」

 ――誰も傷つけるな。

 親子を引き離すことは、傷つけることだと思ってしまった。

 日に日に弱っていく母親を見ながら、スティーリアは家事を代わりにこなすことしか出来なかった。他の使用人に「強く言ってくれ」と頼まれたこともある。それも「考えます」と受け流してしまった。


「あなたが言ってください。私では無理です」

 と否定してあの使用人を傷つけられたら。

「入院してください。キョウカは、私たちが面倒を見ます」

 と嘘であの人を傷つけられたら。

「私はあなたたちの味方です」

 とありもしない事実で誤魔化せたら。


 非情になれなかったせいで、みんな死んだ。

 この弱さが殺したのだ。


「……ごめん」

 スティーリアは立ち上がろうとした。

 その手を、掴まれた。

 いつの間にかペンの音が止まっていた。

 シズの乱れた黒髪が揺れ、オレンジの双眸そうぼうが見つめてくる。

「そうやっていつも独り占めするの、やめて」

 身を引こうとしたら、さらに強く掴まれる。

「あなたのせいで私、みんな取られちゃったんだから」

 恐怖があった。それから、羞恥。スティーリアは下を向く。

「ごめん」

「ダメ。分かってないでしょ」

 無理やり座らせられる。シズはノートを閉じて、ため息をついた。


「あなたが全部自分のせいにするから、私だって『ああしておけば』って思いたいのに無駄になっちゃう。にぃにもママも、死んだ理由までスティーリアが持って行っちゃったの」

「でも」

「私にも、ちょっとは悲しませてよ」

 何も言えなかった。

 全部、自分が何とかすれば良かった。そのはずだった。

 だが、そう考えることがこの人を傷つけていた。

「……そっか」

 命令は、とうの昔に無視していたのだ。


 スティーリアは自分の胸を見た。

 あの男に命令解除されて、もうタスク処理には何も乗っていない。胸の中は空っぽのはずなのに、今は確かに詰まっているものを感じられた。それは銀色に光る作り物の心臓かもしれないし、何でもないただの幻想かもしれない。

「ありがと」

「私、怒ってるんだからね?」

 シズは笑いながら手を引いてきた。

 自習室の窓からは、ぷらぷらとほっつき歩くトツカが見える。シズも気が付いて慌てて教科書を仕舞い込んだ。

「行こう、つらら姫スティーリア

 人知れず消えるだけだと思っていたのに、この人はこんなにも自分を見てくれる。

 ありがとう、とまた呟いた。

 この人には救われっぱなしだ。

 あの童話の妖精みたいにはなれないけれど、この方がずっと良い。


 外に出ると、トツカもこちらに気が付いた。

「遅かったから来ちまったよ」

「ん、ごめん」

 前を歩きながら仲良く話すふたりを見るうちに、ふと尋ねたくなった。


 わざと田舎っぽく淹れてきたロイヤルミルクティー。この男は、喜んだだろうか。それとも皮肉として受け取っただろうか。もしかするとまた捨てられたかもしれない。

 単純な好奇心が、まだ自分にあるとは思ってなかった。

 でも、それに従うことは『良い』ことのように思った。


 とん、とトツカの肩を叩く。振り向かれる前に、スティーリアは彼の横に並んだ。

 シズが意外そうな顔をしている。

 初めての自発的な行動は、思ったより簡単にできた。

 これからは彼らの隣で、自分なりに歩き続けようと思った。ひとりのモノとして。

 スティーリアは笑って、言った。

「ねえ、師匠マスター


 彼らの行き先には明るい陽光が差していた。

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