5-3.

 カビ臭い手ぬぐいで顔の汗を拭きつつ、脱いだ小手に載せた面を見る。

 積年の汗が乾いてできた塩で、面布団は白くなっている。小手も似たようなありさまで、素手からは雑巾じみた悪臭がした。

 授業でも防具を着けるときは、どいつも嫌な顔をする。

 どんなスポーツも続ければ少なからず汚れるものだが、剣道ほど臭いものはないだろう、とトツカは思う。


 先ほどの竹刀はまだ使えそうだったが、処分するつもりでいた。

 どうせ消耗品なのだから、こんなところで惜しんでも仕方がない。それに、ささくれが立てば相手を傷つけることもある。そうなれば責任はこちらに回ってくる。

 脇に置いた竹刀を取ろうとしたら、柄が滑った。

「……ちくしょう」

 手を目の前に持ってくると、わなわなと小指と薬指が痙攣していた。

 骨まで痺れるほど握ってしまった。我を忘れるほど打ち込むとは、まだまだ二流か。


「お疲れさま」

 スティーリアが前に立った。普段着に替えているが、小手をはめた手首に色が移って青くなっていた。

 じっと、トツカは目を上げる。

 面を脱ぐと、驚くほど細い女だった。肩も狭くて、肉が付かない骨格をしている。これが人並み以上の剣の腕を持っていると思う人間はいないだろう。

「誰から習ったんだ」

 トツカは目を落として、胴を外した。

「なんで?」

「背が高いやつが教えただろ。構えが低くて、鍔迫り合いで負けてる」

「強いんだね」

「理詰めの剣を叩き込まれたんだ。だからその……悪かったよ」

 どんな顔をすれば分からず、苦笑ぎみになってしまった。

 あそこまでたかぶるとは思ってなかった。棄械スロウンの力を知るだけのつもりが、つい熱くなりすぎた。


「私、楽しかったよ。強い人は好きだから」

 スティーリアは微笑んだ。

 これも本心に違いない。トツカは遊ばれていた。地の力量に埋められない差がある。

 きっとカゲキも同じだったのだろう。この恐ろしい能力を目の当たりにするうちに、家族を守るために始めた実験が、好奇心を満たすものに変わってしまったのだ。

 人間の形をしていながら、あらゆる面で上回る化け物――だから彼は17ミリ弾が貫通した瞬間、実験をやめた。底が見えて飽きたのかもしれない。それか、もっと興味をひくものを見つけたか。

「魔性の女って言われねえか?」

「うん。たまにね」

 こういうとき、スティーリアは本当に嬉しそうな顔をする。


 更衣室でトツカが着替えているときも、スティーリアは付き従ってきた。

 脱ぎ捨てた袴をつまむと、ドアが開いて彼女が入ってきた。

「汗、大変でしょ」

「おい」

 半裸のトツカに臆した様子もなく、タオルを寄越してくる。しぶしぶトツカが受け取っても、彼女は部屋を出なかった。トツカが拭き終えたタオルを渡しても、まだ突っ立っている。

「またバグってんのか?」

「ね、青いのが取れないから拭いてくれない?」

 いきなり彼女は袖をまくって見せてきた。ずいぶんこすったようで、ほとんど色は落ちているように見えた。それでも微妙に指先に残っていたので、トツカは手を取ってやる。

「これじゃ、どっちがロボットか分かんね――」

 彼女の指を握った瞬間、息が止まった。

 肌の色が透けて、銀色の繊維が現れる。スティーリアが指を曲げるのに合わせて、グネグネと繊維が動いた。トツカが手を引こうとすると、彼女はもう片手で止めてきた。


「ちゃんと触って」

 銀色の指が動き、ほのかに熱を持つ。この感触にはトツカも覚えがある。

「……ORBSか」

 グリーンウェアのケーブルだ。棄械スロウンを再利用していたとは。


 稽古が終わったことを報告しに職員室に行くと、ハバキ教官と例の体育教師がいた。

「あら?」

 トツカが部屋に入るなり、ハバキが腕組みを解く。眉間にしわが寄っていた。

「邪魔でしたかね……武道場の方、終わったんで」

「ああそうですか。スティーリアさんは?」

「私が相手をしていました」

 ハバキは目を丸くした。隣で体育教師風の男が苦笑する。

「俺が許可を出した。問題はないだろう」

「コイグチさん!?」

「中尉どのは生徒を信用なさっておられんようだ」

 トツカの顔を見て、コイグチ教官はにんまりと笑みを大きくした。


「面白いだろ、

「オレ、遊ぶつもりはなかったんですがね」

棄械スロウンは呑み込みが早い。応用じゃ人間に一歩劣るが、それ以上に目と頭が良いからすぐに追い越してきやがる。一戦目は勝てるが、二戦目はもうキツい。そういう連中だ」

「だからORBSに使ったんですか?」

 ハバキが一歩出た。

 彼女がぱくぱくと口を動かして何か言おうとするのを、コイグチは横目で冷ややかに見た。


「……スティーリアが言ったのか?」

「うん」

 スティーリアがうなずいて、腕を銀色に光らせた。ハバキが周囲を見渡して誰もいないのを確かめる。

「そうか」

 コイグチが事務椅子に沈む。

 前と同じように、彼の机には写真立てが置いてあった。写真にはポーズを取る男女が見える。

 特機小隊。シズ・カゲキは撮影役らしく、困った顔のコイグチがハバキたちに挟まれていた。

 コイグチは手を組んで、くるくると親指を回した。


「『カリバーン』は凍結処理することになった」

「事故のせいですか」

外装コーテックスだけなら高級品だが、中身グリーンウェアは安物もいいところなんだ。指揮官クラスの棄械スロウンを加工していた『グラム』と違って、あれはそこらに転がっている残骸を直している」

 と、指を止めてうなだれる。

「このあいだも、近くに指揮官クラスが居たんだろう。まるごと制御を奪われた」

「なんでそんな……」

「焦る御仁がいらっしゃるのですよ」

 ハバキも大きく息をつく。

「兵士全員に纏わせるには、『グラム』では数が足りないのです。ヨーロッパが突破されたら、ここを大砲と戦車で守るわけには行きませんでしょう?」

「暴走すると分かってる兵器よりはマシだろ!」

「わたくしに怒られても困ります。上は上、下々しもじもは下々の事情でやりくりするしかないのです」

「そういうことだな?」

 コイグチが武道場の施錠に向かう。ハバキも「お帰りなさいまし」と言って追い出しにかかる。


 校舎を出ると、湿った空気で息が詰まった。

 この時期は夜になると中央からの電力供給が止まって、自家発電機を置いている家以外は真っ暗になる。トツカがムラクモ学校から一歩出ると、外は完全な暗闇だった。

「夜目も利くのか?」

 トツカは後ろに尋ねた。ざりざりと砂利を踏む音が止まる。

「その気になればね」

「オレは見えねえ。案内してくれ」

 スティーリアが前に出たのが分かった。

 彼女が歩く音を頼りに進むうちに、寮の灯が見えてきた。建物の外ではナゴシがバイオエタノールを発電機に注ぎ足しているところだった。

「遅くなりました」

「おやおや、デートかな」

「笑えないんですが。それで門限ですが……」

「二十分オーバーだね」

 彼女は汗まみれの眼鏡をかけ直して言った。

「いいよ。私は、必要なルール違反には寛容なつもりだから」

「ありがとうございます」


 部屋に上がると二度ほど照明が切れて、また点いた。

 まだ電気が通っているうちにトツカはシャワーを浴びに向かう。さっきシズの部屋の前を通ったが、彼女はすっかり熟睡している様子だった。話し合うのは明日になりそうだ。

 シャワーから戻ってくると、スティーリアがベッドに腰かけていた。

「あ……」

 立ち上がった彼女に、トツカは冷蔵庫からコッペパンを取り出してほうった。

 綺麗にキャッチしたそれを、スティーリアは不思議そうに見つめる。

「日記で読んだ。おまえらも食うんだろ?」

 トツカはベッドに腰を下ろす。ぎい、とマットレスが軋んだ。

「気を遣ってくれなくても良いんだけど」

「マスターが給料くれてやってんだ。遠慮するんじゃねえよ」

「あのねえ……」

 スティーリアは眉根を寄せてコッペパンの包装を破る。

 白い指がパンの切れ端をちぎり取って、口に持っていく。ピンクの舌が唇から覗いた。

 含んだ切れ端を彼女が何度か噛むと、細い咽喉のどがゴクリと動いた。


「……菓子パンって、こんなに甘かったんだ。びっくり」

「その上品な食い方も、シズ・カゲキか?」

「かもね。ごちそうさま」

 ほい、と食べかけのパンが差し出された。トツカも受け取って食べてみると、確かにどぎつい甘さに感じた。苦心して飲み込みながら、ひどく金を無駄にした気がした。

「オレもダメだ。舌が肥えちまった」

「向こうのお料理、美味しかったでしょ?」

「ああ。今度作ってくれ」

「前は紅茶も飲んでくれなかったくせに」

 スティーリアは微笑んで、照明を落としに向かった。

 暗くなった部屋の隅で、待機モードに移った彼女をベッドから見ていると、妙な気分だった。こいつはガイノイドなのに食事もできるし、会話もシズの家にいたエイスより自然だ。


「おまえたちの目的って、なんだ?」

 スティーリアは目を開けない。あるいはシズなら知っているのだろうか。

 そこまで考えて、トツカは一人で笑ってしまった。

 シズの兄と同じで新聞を見たのに、あの殺人機械どもと、目の前のガイノイドは別物だと思っている。こんなに割り切れる人間のつもりはなかったのに。

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