5-2.

 ホームルームで借りたノートを写しているうちに、くうと腹が鳴った。

 一度身に着いた贅沢癖はなかなか捨てられない、と聞いたことがある。

 昔は、夜食でポテトチップスを食う連中を理解できなかった。ああいう手合いは夕飯の適量も知らないのだと思っていたが、どうも最近は、あれもストレス発散の一種らしいと分かってきた。


 無理してシャーペンを動かして、どうにか戦史の授業ノートまで写し終えた。

 適当にページをめくりなおすと、クラスメイトが描いた下手くそなクラウゼヴィッツの似顔絵が、トツカをにらみつけてきた。

 人類史の多くが失われたからといって、全部が消えたわけじゃない。このひたいの広い冴えないおっさんも、戦争は政治ゲームのひとつだと言ってのけたらしい。


 帰りに売店が開いているのを見つけて、九十円のコッペパンを買った。

 軽くなった財布を振りながら、トツカはシズの家を思い出した。とりあえず、あの柔らかいベッドは夏になると苦労しそうだった。貧乏人のこの身に、贅沢なんて夜食のコッペパンで充分だ。


「おかえり」

 寮の入り口でスティーリアが待っていた。

 いつもの微笑みを浮かべて、ドアにもたれかかっている。靴が汚れているので、誰かと会っていたらしい。ナゴシかハバキか知らないが、あまりいい話ではなかったようだった。

「ただいま」

 自室に上がって冷蔵庫にコッペパンを放り込み、ノートの続きに取り掛かる。

 トツカがシャーペンを走らせるあいだ、スティーリアは部屋の隅に立っていた。命令を出さなければ、ああして彼女はいつまでも待っているのだろう。

 本当に、殺すのだろうか。このガイノイドが、自分の意志で。

 トツカは自分の右手を見た。

 前は、棄械スロウンを殺せた。もし襲われたとして、もう一度やれるかは分からない。


「『誰も傷つけるな』って言われたらしいな」

 応えは無かったが、視線を感じた。

「だから、射撃の的にされても何もしなかったのか?」

「指令権は、彼が持ってた」

 スティーリアがため息をつく。

「命令されなかったらどうするつもりだったんだ」

 トツカはノートを閉じて振り向く。スティーリアもじっと見つめ返してきた。

「……おまえ、本当は何がしたいんだ?」

 瞳がわずかに揺れる。

 すぐに彼女は表情を繕って、うなずいた。

「命令はまだ生きてる。私はあなたたちの味方なんだから、それで良いでしょ?」

 疲れた声に、葛藤の跡を感じた。

 シズ・カゲキはこのガイノイドを傷つけて、戦場に旅立った。当時は彼が対棄械スロウン戦闘の第一人者だ。退くという選択肢はなかっただろう。


 ――あの機械は人を殺します。

 エイスの言葉は、死地に向かわせたことを言ったのではないか。

 それが殺意から来る行動だとしたら、トツカも知らず知らずのうちに死に近付いているかもしれない。手を下さずに殺す方法なんていくらでもあるのだから。


「今から時間、あるか」

 トツカは立ち上がった。近寄って手を引こうとすると、スティーリアは一歩下がった。

「……なに?」

「いや。ちょっと試したい」

 すっかり警戒されたもんだ。

 トツカは髪を引っかいて、自分が汗をかいていることに、初めて気が付いた。

 こちらも緊張しているらしい。良くない兆候だが、先延ばしにするのはもっと悪い。

「あんた、剣道はできるか?」


―――★


 教官に連絡を入れたら、さっさと準備してくれた。

「時間外だから、特例だぞ」

「ありがとうございます」

 スティーリアに合う道着はすぐに見つかった。竹刀も三尺八寸を選んで握らせた。

 彼女は防具の結い方も、手ぬぐいのかぶり方も知っていた。

 白い胴衣に紺のはかまを合わせたスティーリアが、試合場の向かいに立つ。小柄な身体が、佩刀はいとうした瞬間、すっと背筋を伸ばした。

 この姿勢、間違いなく心得がある。

 トツカも相対しながら、緊張を感じた。

「お願いします」

 す、と互いに足を運んで蹲踞そんきょする。

 ふたたび立ち上がって剣先を合わせた瞬間、トツカは一瞬だけ躊躇ちゅうちょした。


 ――この女、強い。


 スティーリアが晴眼に構えた剣は、ほとんど先端しか見えなかった。

 間合いを悟らせないつもりだ。

 それでも半歩入って三合ほどり合わせるうちに、わずかにスティーリアの体勢に乱れが起こった。

エエエェ――――ッ」

 トツカは踏み込んで面を狙った。

 一歩、引かれた。だが浅いのは分かっている。すかさず返しの刀を入れる。

 互いの竹刀が打ち合わさり、二合目はつばり合いとなった。

 目と鼻の先で、面の物見ものみの奥に、青い瞳が爛々らんらんと光った。彼女の口元はうかがえないが、笑みはすでに消えているように感じる。


 体格の差で、姿勢はこちらが有利だった。叩きつけるように鍔をはじき、引き小手を差し込む。

 これもわずかに逸らされた。

 パシ、と鋭い音がして剣をめくられる。

 鍔迫り合いで相手の体幹をまったく崩せていない――取られる、と思った。

 しかし、スティーリアはその場で竹刀を下ろす。トツカも中段に構えながら、困惑した。

 絶好の機会だったはずだ。

 実際に、彼女はり上げて面を打つ姿勢までやっていた。あとは踏み込んで振り下ろすだけで、子供でも一本を取れる状況だった。


 ふつふつと心の底で湧き上がるものがあった。

 手加減されたことへの怒りだったかもしれない。しかし不思議と不快ではない。

 ふたたび一刀一足の間合いに入る。

 気勢が高まり、周囲の空気が泡立つような感覚があった。

 相手の剣先が持ち上がったのを、はじき飛ばして胴につなげる。その前に彼女の方から踏み込んできた。相手は痩身だというのにたやすく姿勢を崩される。


 ――ああ。


 また何かが湧き上がった。今度は、すんなりと正体を理解できた。


 ――この『生き物』の、本気が見たい。


 見たことがない速さだった。反応も判断も早い。剣は柔らかく、それでいて技は鋼のように硬い。

 改めて相対すると、彼女の矮躯わいくはひどく大きなものに見えた。

 未だ打突ひとつ繰り出していないにも関わらず、こいつは気勢でトツカにまさっている。もしかすると姉弟子の全盛期よりも強いかもしれない。


 トツカは上ずった声で吼えた。

 今度は間髪入れずに飛び込む。吹き飛ばすように小手を打ち込み、胴につなげて機先を握らせない。

 打て。本当のおまえを見たい。打て。そのちっぽけな姿をかなぐり捨てて、正体を見せろ。

 気が付いたら叫んでいた。打て。打ってくれ。

 こっちは本気だ。打たなければ、このまま殺してしまう。

 とうとうスティーリアが姿勢を崩す。棒のようになった足がふらつき、面が下がる。


「ガアアアァ―――――」

 震える喉から、獣のような声が上がった。

 叩きつけんばかりに竹刀が振り下ろされる。風切り音が高く響き、柔らかな後頭部に刀身が迫る。

 もはや止められなかった。

 そして手応えが来た。拳がびりびりと震え、竹刀が割れる音がした。


「あ……」

 トツカは目を瞬く。

 竹の隙間に、スティーリアの竹刀が刺さっていた。今の打ち込みを、見ずに受けたのだ。彼女が刀を返すと、膨らんだ竹がトツカの手からすっぽ抜け、からからと道場の床を転がっていった。

「もう、いいでしょ」

 スティーリアがささやく。彼女も息が上がっていた。

 トツカはその場にへたり込んだ。目からみる何かが流れたが、涙か汗か、もはや区別がつかなかった。

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