第9話 キスと風船

美咲さんとの待ち合わせ場所は、舞浜駅前のファストフード店にした。

オススメのレストランでの軽い食事という約束だったけど、僕はディズニーランドへ行こうと決めていた。

女性はおとぎの世界とか、日常の中の非日常が好きだと思い込んでいたし、実際僕もその世界観は嫌いではないから内心はワクワクしていた。

現実があまりにも辛すぎるから、すこしくらい夢を見たって構わないと思う。

今日は日曜日だというのに、僕は朝から得意先を回って急いで舞浜駅へ向かった。

サービス業に日曜なんて関係ないのだ。

ファストフードの窓越しに、美咲さんがちょこんと座っている姿が見える。

しばらくその光景を眺めながら思った。


『どうして美咲さんは、時折哀しそうな表情をするのだろう?』


今でもそうだ。

行き交う大勢の観光客を見つめるその瞳は何処となく儚い。

僕にも気付かないでいる。

オレンジ色の夕陽の周りは、雲の隙間から覗くエメラルドの光。

遠くの空はグレイ。

星の瞬きは真珠色。

こんなにも美しい景色が眼前に広がっているというのにー。


僕は深呼吸をして、店内へと入って行った。

今日は目一杯笑うんだ。

そう思っていた。


「すみません、遅くなってしまって。かなり待ちました?」


僕の問いかけに、美咲さんは笑顔で答えてくれた。

今来たばかりと言ってくれたけど、それは気遣いなんだというのが判る。

美咲さんは嘘が下手なようだ。

冷たくなった空のコーヒーカップが目の前に置かれてあるのが何よりの証拠だ。

僕は言った。


「いや、かなり待たせちゃいましたね。罪滅ぼしをします。さ。行きましょう!」


強引過ぎるとは思ったものの、僕は店を出ると美咲さんの手を掴んで走っていた。

心がそうさせていた。

後ろで動揺している美咲さんの声がする。


「ちょっと、どこに行くの?」


と。

僕の行き先は決まっていた。

おとぎの国で現実とさよならするのだ、

世間体や恋愛や、仕事や将来などのわだかまり、憤り、悩みや不安を捨ててしまおう。

美咲さんの手が、僕の手を力強く握り返してくれている。

僕らの気持ちはひとつになっていた。


ベアルックの老夫婦。

笑い合って写真を撮る女の子達。

僕らと同い年くらいのカップルも手を繋いで、お揃いの帽子を被って幸せそうだ。

空には星々が瞬いていて、遠くに見えるお城はライトアップされて美しかった。

パレード目当ての人々を横目に、僕は美咲さんの手を引いて目的の場所へ向かっていた。

無理やり過ぎるかなとは思ったけれど、美咲さんの「行き先は任せるね」の言葉に甘えてしまったのだ。だけど僕は嬉しかった。

にっこりと微笑んでくれたから。

その表情に嘘はないと感じた。

しかしひとつだけ、必死に演技をしている僕自身に後悔もしていた。


絶対に知られたくない事。


僕は絶叫マシンが大の苦手で、スペースマウンテンやビックサンダーマウンテンでさえも、乗ったら最後、吐き気や立ちくらみに襲われてしまうのだ。

かっこ悪い姿を美咲さんには見られたくなかったし、まだ着飾っている自分でいたかった。

それでも、なんとなく騙している気がした。

嘘だらけのネットの世界で知り合ったというのに。


『イッツアスモールワールド』


ボートに乗って穏やかに揺られながら、僕の左肩と美咲さんの右肩は触れている。

年甲斐もなく ー というよりも、興味を抱いた異性と過ごす時間の感情に、年齢なんか関係ないと思いながらもその気恥かしさは拭えなくて、僕は思春期の学生みたいに早口になっていた。

目の前を過ぎる光景はあそこの国だとか、国旗の色の由来がどうとか。とにかくドギマギしている自分を隠すので精一杯になっていた。

美咲さんは隠れミッキーを探していた。

僕も美咲さんの肩にそっと手をかけて一緒に探した。横顔が照明でかすんで見える。

ふと、別れた彼女との思い出が甦った。


一昨年訪れたこの場所のホテルで、僕らはひとつのベットで横になっていた。

遊び疲れと日常の疲れも重なっていたけど、僕は彼女とセックスがしたかった。

だけど彼女はそれを拒絶したように思う。

理由は判らないし、知りたくもないけど、僕はその現実がたまらなく淋しかった。

考えてみたら、あの頃から僕らは『セックスレス』に陥ってしまっていた。

僕だけのせいなのか、それ以来彼女に触れるのが恐ろしくなってしまった。


『ブルーバイユーレストラン』


ローストビーフと温かなパン。

そしてカリブの海賊を眺めながら、美咲さんと色んな話をしているうちに気がついた事がある。

僕はあまり若い子には興味が無くて、同い年か年上の女性に惹かれやすいということ。

そこには色恋じみた感情も存在するけど、女性が嫌がるシワだとか、シミやソバカスだって可愛く思えてしまう。

笑顔を見せてくれる度に、隠し切れない美咲さんの目尻のシワだって僕からしたらかなりチャーミングなのだ。

もっと触れていたい。

笑っていたい。

身近に感じていたくて、僕はスマホの猫の写真を美咲さんと眺めていた。

その声と息遣いを間近に感じる。

振り向くとすぐにキスが出来そうな距離感。

僕は話題を不自然な方向へ切り替えていた。

猫をダシに使って。


「こいつは暴れん坊で、抱かせてくれないんですよ。キスも嫌がるし、あ、でもそりゃそうですよね。僕は男だもん」


美咲さんは笑ってくれた。

だけど僕はドキドキしていた。

見透かされていそうで恐かった。

僕の言葉をどう捉えてくれたのだろう?

これまでの苦い恋愛経験と、欲望とがごちゃ混ぜになってしまった台詞。

セックスする勇気もなかったくせにと、僕を見つめるもう一人の冷静な自分いる。


『男って卑怯だよねー』


昔の彼女に言われたひとことが、頭の中をかすめて行った。


ディズニーランドを後にして、僕と美咲さんは新木場にあるバーで飲んだけど、その時間はあっと言う間に過ぎた。

正直、どんな会話をしたのかすらもあまり記憶にない。熱いシャワーを浴びながら、僕は自分の優柔不断な性格に幻滅していた。

何を今更。

男って卑怯だよねー。

ふたつの言葉が頭から離れないでいる。

僕は浴室から出ると、ベットにちょこんと座る美咲さんにビールを勧めた。

アルコールの力を借りたいと思った。

これが卑怯者の証拠だ。


僕の鼓動が破裂しそうに高鳴っている。

身体中があつい。

会話の途中、僕は美咲さんの横に座ったりベットに転がったりを繰り返していた。

それくらい緊張していた。

だけど、ふいに美咲さんから言われた言葉に救われた。


「あたし? うん。かなり酔っちゃったかな。暑いもん」


僕は確かめるように美咲さんの首筋に触れた。

そして髪の毛、うなじ、頬を優しく撫でた。

顔を近づける。

美咲さんは目を閉じた。

その華奢な両肩は震えている。

軽くキスをした。

美咲さんの閉じた瞼をそっと撫でて、またキスをする。それを繰り返しながら、僕らはベットに横たわっていた。

美咲さんの身体は強張っている。

僕は思う。

セックスは楽しいものなんだ。

本来なら、恋い焦がれた者同士が触れ合って、さらけ出して、感じて、確かめ合って、見つめ合う大切な時間なんだ。

だけど。

どうして現実はそうさせてくれないのだろう。


美咲さん唇の輪郭を僕の指がなぞる。

美咲さんはその指を噛んで笑った。

そう。

セックスは楽しいものなんだ。

美咲さんの唇の輪郭を僕の舌先が撫でる。

美咲さんの吐息が聞こえる。

僕はその唇を、自分の唇で塞いでふっと息を吹いた。美咲さんのほっぺたがハムスターみたいに膨らんだ。

美咲さんは驚いて僕を見る。

僕は言った。


「キス風船、やっちゃった」


僕の指先を噛んだ行為に対するお返しだった。

美咲さんは笑ってくれた。

ぎゅっと抱き締めたくなった。

着飾ったモノをお互いに剥ぎ取りながら、戯れの魔薬にとことん酔い痴れていった。

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