105 君の名は…。
前近代の戦争において、指揮官が個人的武勇に優れていた例は少なくない。
日本においては織田信長が、尾張統一において最前線で槍働きをしたことがある。そして敵の指揮官を討ち取っている。
西洋のアレクサンダー大王は騎兵の先頭を走ったというし、東洋の項羽は一人で800人の敵を倒したとも言われている。
君主としての力量を持っていたとして、さらに武勇に優れていたという人間は、少なくなかった。
ネアースにおいては神竜レイアナがその最たる例であろう。彼女はコルドバ戦役において最高指揮官でありながら、騎兵の先頭を切って戦い、常勝の存在であった。
……その分全体の指揮は副官に任せたというのも事実ではあるのだが。
「我が名はリュウ・ウェンシュウ。武神帝と呼ばれる、この領域の采配者である。地球において東の島国の言葉で言うなら、リュウ・ブンシュクと言うのだが、後に知られた名前の方が有名だろう」
武神帝は中華圏の文明の人間だ。それは分かる。だがリュウ・ブンシュクという名前にセリナは心当たりがない。この存在感からいって、歴史上の偉人であることは間違いないと思うのだが。
まああの国は本名と字が違うので、けっこうな有名人でも知られていなかったりするのだが。
たとえば項羽の本当の名前は項籍であったりする。とりあえずこの人物の正体が劉備でないことは分かったが。
「我こそは光武帝。中華の皇帝にして、根幹世界において多くの神王、神将を束ねるものだ!」
びしっとポーズを決める必要はなかったと思うセリナであった。
だがこれで、セリナの疑問のかなりの部分が氷解した。
光武帝。前漢が王莽の簒奪によって滅びた後、後漢を興した名君であり、同時に名将であった。個人としての武勇も抜群であったと知られている。
100万と号された大軍に8000の兵で突撃し、完勝したという無茶な伝説もある。
その性格は慎重で温和であり、他人の失敗や欠点をあげつらうこともなく、寛容に溢れた、皇帝としては最も聖人に近い人物と言ってもいい。
だが彼には決定的というか、明らかな悪ノリの癖があった。
「我はここに、我が皇帝であることを肯定する!」
……歴史に残るほど、くだらない駄洒落が好きな人物であったという。
静寂な空間が戻っていた。
光武帝劉秀の言葉は兵士たちの隅々にまで届き、その戦意を激しく打ち砕いていた。
法正は諦めたように嘆息し、黄忠は真顔で鎧に付いた埃を叩き落とす。劉備の部下であった彼らなら、さらにその先祖である劉秀に仕えるのも、まあ納得出来るというものだ。
「さて、それでは事情を聞かせてもらおうか」
武神帝劉文叔はドヤ顔で事態を沈静化させてしまっていた。
劉秀。字は文叔。
廟号は世祖。諡号の光武帝というのは、この人物以外においていない。
単に武力をもって偉業をなした皇帝であれば、多くは武帝と後に呼ばれるが、その業績と徳が武帝と呼ぶにははるかに巨大なものであったため、光という字が頭についたのだ。
幼馴染の美女と結婚し、豪族の出身であり、兄たちを戦いの中で失いながらも天下を統一した。究極のリア充でもあった。
即位後に功臣を粛清しなかったという点で稀有な人物であり、中華の歴史の中でも屈指、あるいは最高の皇帝であったと言えよう。
まさかそんな人物が転生していようとは……。
彼の存在一つで、状況は変化していた。
具体的には殺伐とした雰囲気が雲散霧消してしまったのだ。
その中で最初に口を開いたのは法正あった。
「そもそもはこの者たちの世界が、根幹世界に接続したことが始まりだったのです……」
その言葉の内容は、セリナたちにとっても客観的なものであった。
ネアース世界に対して無茶な攻撃を行ってきた賊どもは、やはり半独立した黄忠に帰属する軍閥であったらしい。
そこで「話せば分かる」などという生っちろいことを言わないのが、この世界の特徴である。この世界の、この周辺の特徴であるとも言えるか。
神帝や神王といった個人的な武力が突出した存在があるがゆえに、平穏な状況を作り出すのは難しいらしい。
「では話を始めようか。話すのは、なしとかは言うなよ?」
お前がもう何も言うな、というツコッミが入りそうな駄洒落であったが、セリナたちはただ疲れただけであった。
場所は黄忠たちが用意した役所の中の一室である。黄忠が治めるこの都市は、宮殿の中に役所が存在するのだ。
そこでセリナたちは全員が集まっていた。劉秀には全くと言っていいほど敵意がなく、こちらを安心させる雰囲気があった。
事実歴史上において彼は卑怯な手を使わず、そして敵に対しても寛容であった。転生してもその本質は変わっていないようである。
劉秀は邪神帝ジンについては知らなかった。
広大な根幹世界は、地球やネアースレベルで考えると間違える。少なくとも土地の面積において、太陽の表面積と同じぐらいは軽くあるのだ。
その面積をほぼ掌握し、同じ神帝でさえも数人影響下においている劉秀にさえ、まだまだこの世界の神秘は計り知れないものだという。
「強大な力を持つ神帝だと、竜神帝、魔神帝、闘神帝あたりがこの辺りでは有名だな。この三人は、私とほぼ互角に戦える」
あとから聞いてみたところ、セリナとシズを同時に相手した時の武神帝は全力の一割ほどしか使っていなかったという。
「神帝というはほぼ全員が、領地を持ち人々を支配する存在だ。領地を拡張するためには戦争も辞さない困ったちゃんなのよね」
シリアスな情報提供の末尾で、ふざけた言い方をするのは本当にやめてほしい。
やはりアルスに似ているとセリナは思ったが、こちらの方が懐の深さでは上だとも思う。
「陛下はその中でも、徳によって群雄を帰依させる、まさに王者の如き方でおられる」
同席していた黄忠はほぼ絶賛である。まあ強いという一点だけでも、武人である彼にとっては尊敬の対象なのだろうが。
セリナたちの事情は説明した。そして劉秀からこの一帯の情報も聞いた。その上でナルサスが劉秀との関係を決める。
正直なところ、彼の保護下に入れば、ネアースの安全はかなり確保される。問題は保護下に入ったと言っても、すぐには援軍を出してくれるわけではないということだ。
劉秀の影響下にある土地はあまりにも広大で、侵略を受けた場合しばらくは各自で防衛をしなければいけない。
彼単体でほとんどの敵を壊滅させることも出来るのであるが、毎回それをやっていては、さすがの光武帝も疲れると思うのだ。
「いや、我は人々を守り戦うことに、全く疲れなどは感じないのだがね」
なにこの完璧超人。台詞までイケメンである。
まあそう本人は言っても、最高権力者がひょこひょこ歩き回るのは問題だろう。
前世において光武帝は、降伏したばかりの賊軍の中に少数で乗り込むことで、あえてその心を捕えたという逸話もある。
このあたりもアルスに似ている。ひょっとしたらアルスが、光武帝という存在を頭の中に入れて行動していたのかもしれない。
とりあえず全権大使であるナルサスは、武神帝劉秀の支配下に収まることを決めた。
もっとも劉秀の統治体制からいって、ネアースが自治を取り上げられるということではない。
黄忠の近隣の領主がネアースに攻めてきたことを考えても、ほとんど独立した権力を持っているのだ。
ネアースからも竜という戦力を提供することが出来る。
サージの時空魔法のレベルは劉秀ですら驚くほどだったらしく、これで兵の運用は新たな局面を迎えると喜んでいた。
そして交渉がほとんど終わった最後に、劉秀は言った。
「どうせなら少し、お互いの手の内を見せ合おうか」
武神帝劉秀と、ネアース選抜メンバーの戦いが始まるのであった。
神帝にも格の差があるのは、既に述べられた通りであった。
しかしそれにしても、武神帝劉秀の実力は隔絶していた。
呪神帝相手にアルスは相打ちとなったが、おそらく劉秀相手であれば、最後の切り札を使う前に敗北していたであろう。
それほどまでに劉秀は強く、技巧に富んだ戦いをしてきた。
まず、ミラが凍らされた。
ダンピールであるミラは、簡単には死なない存在であり、中途半端な攻撃で、継戦能力を奪うのも難しい相手である。
その特性を見抜いた劉秀は、氷の魔法で彼女を動けない状態にしたのだ。
セリナとシズ、そしてナルサスが前衛として戦うが、劉秀はそれを一人で捌きながらも、後衛の魔法使いたちに対して干渉し、魔法を発動させなかった。
役に立ったのはクリスが使った最初の付与魔法ぐらいである。
セラは治癒や回復といった重要な役割を与えられていたはずであったが、それすらも魔力を散らされて使えなかった。
前衛において無敵。敵の魔法は完全に無効化。これだけでもチートと言っても言い過ぎではない。
しかし一つだけ劉秀にも通用したものがある。
ライザの精霊術だ。
魔法とはまた異なった体系の攻撃に、劉秀はまたすぐに対応する。
ライザも対応されたのに対応して、劉秀の意識を引きつけるべく、精霊でその五感を惑わす。
「合格だ」
数十合も打ち合い、セリナやシズが疲労を感じてきたころに、そう言って劉秀は戦闘を打ち切った。
「素晴らしい力だ。神帝を退けたというのも頷ける」
絶賛してくれてはいるが、劉秀は影響下の神王や神将を率いて戦いに来れば、おそらくネアースは簡単に敗北していたであろう。
このような絶大な戦力と権力を持つ人物が、人格的にも温和であるということは、根幹世界にとっても幸福なことであったろう。
戦闘でぼこぼこになった大地から、一行は劉秀の宮殿へと戻った。
本人の人柄を反映しているのか、絢爛豪華といった代物の建物ではないが、柱の一本一本にも勇壮さを感じさせる。
広大であり巨大でもあり、清潔ではあっても無駄に贅沢ではない。
絶大な権力者の住居としては、むしろ質素と言っていいほどであった。
正直、この時点でセリナたちの役目は終わっていた。
根幹世界に同化したネアースは、理想的な守護者を手に入れたのだ。
神竜たちのシステムは残り、ネアースの世界は維持される。
ネアース内部ではこの後も戦乱が起こるかもしれないが、少なくともそれはネアースの問題だ。
邪神帝ジンと連絡が取れれば、さらに根幹世界での安全は増すであろう。あとは適度な感覚で外交を繰り返せばいい。
「今ある仕事を片付けたら、我もそちらに行こうと思う」
「……それは何故?」
ナルサスの探るような言葉にも、劉秀は闊達に答えた。
「観光であるよ、観光。皇帝の席を暖めずとも、配下が大概のことはしてくれるからな」
この人の部下であるなら、喜んで仕事はするだろう。
もっとも側近は心穏やかなるものではないかもしれないが。
「分かりました。それではこちらも、万全の準備を整えてお待ちしております」
「いや、そう固くなるな。庶民に紛れて楽しみたいのだ。国を挙げてとかなれば、むしろ肩が凝るのでな」
なんという心遣い。だがそれは庶民の暮らしを、実体験していみたいということでもあろう。
光武帝。武神帝劉秀。
根幹世界における大勢力との接触は、成功のうちに終わった。
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