95 待つ日々

「ああ……」

 溜め息とも吐息とも言えぬ息を吐きながら、サージはその時が来たのを悟った。

 時空が歪む。世界を、宇宙を律していた法則が飲み込まれていく。

 幻想世界の崩壊がやってきた。

 彼は静かに、それを知るべき者たちに知らせた。



 最初に気付いたのは、誰だったのか。案外普通の一般人が、偶然空を見上げたのかもしれない。

 空は青い。もしくは黄色く、赤く、黒い。ところがその空は、暗い緑色をしていた。

 何かが起こった、と世界中の人々が、頭上を見て考えた。

 そう、球体の形をしているはずのネアースで、全ての場所からそれが見えたのだ。



 世界が変わったのだ。

 ジンの情報から、ネアースが根幹世界に統合されることは分かっていた。

 今、各地で神竜たちが、ネアース惑星を崩壊させないように、根幹世界に接触させようと動いている。

 しかしその影響は大きく、地震が長く大きく続く。震度にして7を軽く超えるその激震で、多くの建築物が破壊されていく。

 予測をはるかに超える被害だ。これでは戦略の意図が根底から崩れてしまう。

(頼むよ~。神竜さん、頼むよ~)

 サージの願いがかなえられるのは、3分ほどの時間が必要だった。



 世界中の通信ネットワークがつながり、まず軍事基地内の被害がないことが確認される。

 そして工業地帯と、都心の政府中枢部が機能する程度に無事であることも確認される。

 農業地帯には被害が出ているが、全滅するほどの被害が出ているわけではなく、想定の範囲内。

 そして神竜の力によって、大地の鳴動が止み、世界が固定化された。







「なんじゃこりゃー!」

 ガーハルトの帝都にて、亜麻色の髪の吸血鬼が叫んだ。

 アスカ・アウグトリア。先代の竜牙大陸の魔王にして、アルス・ガーハルトの側室の一人であった。

 いや、正確には愛人というか妹的存在だったのだが、ネアースの常識に重ねて考えれば、側室というのが最も人間世界では理解しやすい。

 言うまでもなくミラの母である。

 竜牙大陸の霊廟で眠っていた彼女であるが、この世界の危機において、惰眠を貪るなど許されない。

 解凍された彼女はガーハルトにおいてフェルナの右腕となり、主に筋肉担当の仕事をしていた。



 ネアース世界の観測衛星からの情報が途絶え、おそらくは破壊されたのだと考えられたが、以降も周辺の観察は続いている。

「これは……おそらく、天動説です」

「は? 何それ」

「いえ、そう見えるというだけで、確かなこととは言えないのですが」

 フェルナの言葉は弱い。立場で言えばアルスの後継者であるフェルナは正室、アスカは側室なのだが、アスカはアルスが大魔王として君臨する前からの部下である。

 好き好きオーラを出しまくってアルスに迫っていたのに、アルスはちょっと立ち寄った人間の国で子作りをしてしまったり、何よりかつての大崩壊で、戦力となるフェルナを妊娠させて戦線に立てなくしたというチョンボがある。

 自制心のあるレイが生きていた頃は二人の間の緩衝材となっていてくれたが、彼女の死後はフェルナとアスカの関係は急速に悪化した。

 大魔王と魔王のの間に軋轢があるとまずいと思って、アスカが眠りに入ったのも、彼女なりの配慮ではあったのだ。

 もっとも後継者人事がしっかりとしていなかったので、ミュズとミラには大変な負担となったのだが。

 特にミュズの性癖が極めて歪んだものとなったのは、人格形成期に母親から適切な教育を受ける暇がなかったことも関係しているのかもしれない。



 とりあえず天動説の話を聞いたアスカは、一言で断定した。

「太陽が惑星の周りを回るなんて、あるはずないじゃない」

「ええ。ただそう見えるのは確かです。……地平線が見えません」

 フェルナの指の先には、天空に伸びていく広大な大地があった。

 後ろを振り向くと、太陽らしきものが地平線の彼方へ没していく。

「……これ、植物の植生とかどうなるんでしょうか……」

「……考えるのは、もっと違うことだと思う」

 そして脳筋吸血鬼は、考えるのをやめた。







 球体であったはずの、ネアースという世界の名前も意味する惑星は、平面状になって根幹世界に張り付いていた。

 太陽はどこから出るのか、星はどこへ行ったのか、海から水はこぼれないのか。

 大災害に至るそれらの物理的な原則を、神竜たちが適合させていく。

 しかし、これは難しい。

 力のある無しではなく、ただ調整の必要があるからだ。



 地震から環境の調整に至るまで、必要としたのはわずかに一時間だった。

 ラナが中心となって行った作業に、テルーは関わっていない。

 彼女は彼女で、風に乗せてネアースであった部分の外、根幹世界の様子を探っていたのだ。

 結果、ネアース世界とされていた部分から、ネアース惑星三個分の距離には、荒野が広がっているということが分かった。

 その情報に各国の首脳部は吐息をついた。それだけ距離に余裕があるなら、すぐさま敵性の軍や生物が襲ってくるとはないと考えたのである。



 だが、一人視点の違うものがいた。

 ただ頭脳が明晰で論理的というだけでなく、想像力まで備えた知将が、ネアースの世界にいたのは幸いであった。

 マートンがテルーに対して、たった一つのお願いをした。

「この世界の生命体、特に知的生命体がいる場所まで、捜索範囲を広げてもらえませんか」

 現地人との交流、それによる情報収集、大概の者は、マートンの依頼をそのためのものだと考えた。

 しかし、マートンの頭を占めるのは、巨大な危機感である。



 もし根幹世界の軍が、ネアース世界三個分を数時間で移動するほどの機動力があったら。

 もし根幹世界の軍が、超長距離を軍単位で転移することが出来たら。

 この二例だけでも、ネアース世界の軍が根幹世界の軍に全く対応出来ないことを示している。

 また、根幹世界の住人や生物が、ネアースとの結合を感知しているのか。

 それも相手の動きに現れるだろう。敵性の存在ではなく、交流するだけの存在であっても、それはそれで貴重な情報だ。



 マートンの考えを聞いた時、各国の首脳部とネアース軍は頷くこともなく戦慄した。

 この男がいてくれて、本当に良かったと。



 マートンは軍人であり、現行の戦力でもってどのような戦略を立てるか、きわめて現実的な男である。

 だが同時に、敵の兵器がこちらの想像内であるという、軍人に陥りがちな心理的な罠を回避していた。

 テルーたち神竜でさえ、それは考えつかないことであった。

 なぜなら神竜はそもそも、ネアースを基準にして考えるものだからだ。

 ネアースという惑星と、その月の間の距離でさえ、ネアースの地上で扱われる距離とは次元が違うのだから。







 マートンの示唆により、それに気付いた者は多かった。

 ネアースの世界の科学レベルは、地球からの難民もあり、魔法との融合で地球よりも優れた部分が多かったが、概念的な基礎知識では劣る部分もある。

 たとえば『光速』というものだ。

 秒速20万キロという速度を考えれば、ネアース世界三個分などという距離が、ゼロに等しいなどとはすぐに気が付く。

 根幹世界の住人たちの認識を知らなければ、対処することも出来ない。

 セリナの半型400キロの探査地図というのは、地上レベルで見れば凄まじいものだが、宇宙的な規模で見ればたいしたことはない。

 その考えに最も最初に至ったのは、やはり地球的な考えを持つナルサスであった。



 彼はフェルナに対して簡単な説明をし、全ての軍隊を臨戦態勢とし、全ての国家に非常事態宣言を出させた。

 工業地帯や農業地帯を別として、人種の活動が低下していく。

 これが、全世界規模で行われた。

 一部のはねっかえり――具体的に言えばジークフェッドなのだが、彼はネアースであった土地から出て、根幹世界に至ろうとしたらしい。

 しかしその案は結局葬られた。単純に距離が遠すぎたという理由である。



 そしてテルーはマートンの依頼通りに、根幹世界の探索を行った。

 はるか遠く、100万キロほどの距離に、ちょっとした都市とその周辺に集落があった。おそらく集落は都市に所属し、都市は集落に食料を依存しているという、ネアースでもよくわるパターンなのだろう。

 そしてテルーの見る限りにおいては、ネアースの科学や魔法を超えるほどの文明レベルではない。

 これを聞いてフェルナたち為政者は、非常事態宣言のランクを一段階下げ、臨戦態勢を解除した。

 もし根幹世界の大国がナルサスの予想通りであれば、全ての準備も無駄になると考えたことも大きい。



 そしてこの情報はセリナたちにも伝えられ、一番地球の常識に詳しいセリナは、首を傾げざるをえなかった。

「物理法則とかが違ってるような……。太陽と大地の形状が、明らかにおかしい」

 そもそも魔法の存在自体が物理法則に反しているのだが、それはそれ。これはこれである。

 一つの惑星だった大地が、他の大地に張り付いている。さらに巨大な惑星の表面に定着したのかとも考えたが、この地面が球体でないことは観測できたし、魔法のような地球でもファンタジーとして認識されていたものとは規模が違う。

 何よりこの世界は、広大すぎる。

 セリナは最初斥候としてこの世界を偵察しようとしたが、すぐに却下された。

 彼女は広範囲の探知能力と、機動力を持ってはいたが、それが有効なのはネアース世界でのこと。

 このあまりにも広大な、惑星という以外の形を持っている世界は、果てが見えない。

 一周すれば元に戻るネアースとは違うのだ。







 神竜にとってさえ、その距離感は異常らしい。地球から太陽までの距離が、少なくともこの世界にはあるのだとか。

「世界の端からは海の水が流れていってるのかな」

 セリナはそんな荒唐無稽のことを考えたが、それが完全には否定出来ないことが怖い。

 しばらくは神竜による周辺の把握に時間がかかることとなり、セリナたちも待機となった。

 毎日鈍らない程度に訓練は続けているが、何が何時起こるか分からないというのは、心理的に圧力をかけてくる。



 そんな日々が一月近く続いた。

 そしてその終わりは、あまり良くない形で終わる。

 テルーからもたらされた情報。

 それは巨大な飛行船が無数の小型船を伴ってネアース大地に向かってくるというものだった。

 敵対するとは限らない。あちらがこちらを認識したなら、とりあえず武装した軍が動くのも無理からなることである。

 武器を抜くこともなく、ただいつでも戦える気構えで、かつてネアースだった大地の端で待った。

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