93 波紋
アルス・ガーハルトの死は驚くほどの速度で、ネアース世界に衆知された。
そしてそのほとんどが、それを信じなかった。あるいは意味を認めなかった。
アルス・ガーハルトという存在は、それほどの絶対的なものであり、同時に伝説的で日常とは関わらないものだったのだ。
それを素直に受け止めた者もいた。
「死んだか……」
カーラからそれを聞いたレイアナは、顔色こそ変えなかったものの、信じたが故にその場に座り込んだ。
あるいは神竜より不滅に近い存在であろう男が、死んだのだ。
敵としては最も厄介で、味方としては最も必要になる男であった。
強靭な精神を誇るレイアナでさえ、しばらくはただ呆然とするしかなかった。
信じなかったが動いた者もいた。
大魔王フェルナーサである。
アルス・ガーハルトは公的には先代の大魔王であり、特に権力を持っているわけではなかった。
しかしその権威は絶対的であり、各大陸の魔王は、フェルナよりもむしろアルスに忠誠を誓っていた。
フェルナは表面上冷静な顔で、各魔王の忠誠を求め、それは多少の戸惑いと共に捧げられた。
信じて笑った者がいた。
ジークフェッドはしばらく腹を抱えて大笑いし、そして仲間たちの深刻な顔に気づき、自らもアルスの死の意味を悟り、顔を青くした。
神竜たちでさえ、その意味をおぼろげに理解していた。
アルス・ガーハルト。人種最強の戦士にして、最も偉大である者。
その死がどういった影響を世界に及ぼすか、人とは違う精神構造を持つ彼女たちでさえ、未来に不安を抱いた。
「死んだ? マジで?」
その知らせを聞いたとき、思わずセリナは聞き返した。
強張った顔のミュズからの知らせでその一報を受けた一行は、例外なく固まった。ライザやセラでさえもそうで、ミラはその場に崩れ落ちた。
「う……そ、でしょう?」
「確認はまだ取れていない」
画面の向こうでミュズが蒼白な顔色で喋っている。
神竜オーマとイリーナ、それに竜殺しの聖女カーラ。
前者二柱はともかく、後者はそんな性質の悪い情報を流す人間ではない。
よってそれは事実のはずなのだが――それでも信じることは難しかった。
死んだふりをして身を隠した。あるいは死に近い状態でそれを隠している。
そう考える者が多かったし、実際その方がまだしも納得出来るものだった。
死体を捏造することは出来るし、本気で隠れたら探すことは難しい。だからそう信じたがる者は多かったのだ。
「遺体を持ってきても、それが本物かは分からないからな。だが、確実に死んだ」
その場にいたゲルマンが、セリナにその戦闘の一部始終を伝えに来た。
相手が神帝であり、アルスはそれと相討ちになった。格上であるはずの相手を相討ちで仕留めたのだから、そこはさすがアルスと言うべきだろう。
だがいくら相手を倒しても、アルスという存在がいなくなってしまえば終わりなのだ。
ネアースは滅びる。
「何か手はなかったの? 神竜の力で蘇生させるとか、致命傷からすぐ回復させるとか!」
父の死に、ミラは絶叫する。己の力の及ばないところで、肉親が、その中でも最も近しい者が死んだ。それは耐えられないことであった。
「世界と世界が接触する時は、蘇生の魔法が使えなくなる。それでもアルスさんなら何か……」
セリナの視線はセラに向けられた。神竜以外では最も簡単に蘇生を使うであろう悪しき神は、顔を歪めながら知識を与えてくれる。
「それが普通の死なら、その直前に肉体を完全に修復できる。実際にアルスはそう保険をかけていたみたいですが……」
相手が悪かった、と言うべきだろうか。
死神帝バミラの呪いは、発動させるはずの蘇生魔法を破壊していた。アルスの魂は輪廻の輪に還り、どこか異なる世界か、ネアースに生まれても記憶を失っているだろう。
詰んだ。多くの人種だけでなく、竜たちでさえそう思った。
だが諦めていない者もいた。
アルス・ガーハルトの影響力をあまり感じない人間である。無知であるがゆえに、その者たちは現実を見つめた。
「軍配を握る者は誰になるのかの?」
シズの出した具体的な問いに、セリナの頭が働きだす。
「それはやはりガーハルトの大魔王、フェルナーサ女帝になると思いますが……」
フェルナとアルスでは、重みが違う。他の二大帝国や、ニホン帝国などを率いることが出来るのか。
いや、とセリナは思い直す。
オーガス帝国の皇帝は、レイアナの指示に従うことは間違いない。そしてレイアナは、フェルナを支持するだろう。
王国となったレムドリアの最高権力者はナルサスで、セリナの筋から協力――一時的な従属関係でさえも結ぶことは出来るかもしれない。
神竜の支持は集められるだろうし、魔族に敵対していた竜牙大陸は制圧され、竜爪大陸の昆虫人や悪魔もほぼ壊滅している。
指揮系統だけを見れば、フェルナに一本化することは可能だ。あとはフェルナとアルスの個人的な能力の差であるが、幸いなことにアルスは多数のブレーンを残してくれている。戦力としてはともかく、総司令官の地位は揺らがない。揺らがせない。
(勝てるか? ……いや、勝つしかない)
そう気合を込めたセリナに対して、さらにゲルマンは悪い情報を告げる。
大賢者であるサージが計った、ほぼ確実な未来。
それは、ネアースと根幹世界が、いつごろ本格的に接触するかということであった。
「一年だそうだ」
たったの一年。長命種であるプルやミラは眉をしかめる。だが。
「……一年あったら、なんとかなるんでないかの?」
そのシズの言葉に、セリナとゲルマンは頷いた。
ネアースの人種や神竜は、当然ながらこの世界の常識に慣れすぎている。
修行というのは何年も何十年もかけてやるもので、それでレベルを上げ、新たに技能を獲得し、強化していく。
だが地球の常識であれば、訓練の内容と本人の才能にもよるが、ネアースのシステムを使えば劇的に戦闘力を上げるのは難しくない。
……劇的に上げてもなお、無力である可能性はあるが。
「個人の戦闘力を高めるのは、それでいいでしょう。あとは戦時体制をどうやって構築し、運用していくか……」
セリナが目を向けたのは、画面の先のマートンである。
いつも冷静と言うか激しい感情を見せない彼も、頭をぼさぼさと掻いた。
ネアースの戦力にとって最も不足しているのは、突出した戦士でもなく、機能的に運用される軍でもなく、それを支える国力でも技術力でもない。
敵の情報だ。
ジンからの話では、マートンの必要とする情報が足りなかった。そもそもジン自身でさえ、その全てを把握していた訳ではないのだ。
「あと一回接触してくる機会がある。その時に出来るだけ情報をもらう必要があるな」
ナルサスは眉間に皺を刻みながらも、やるべきことを忘れない。
マートンは悩んでいた。情報が少なすぎるというのもあるが、どういう情報が必要なのかも分からないのだ。
彼は優秀な参謀であり、独自の戦闘ドクトリンを構築するほどの戦略家であり、そのために基礎的な国力が充実していないといけないことも承知している。
だが相手の強さは少し聞いただけでも常識の範疇にないし、ジンが伝えてくれたのは神帝という存在が神竜より強いということが主だ。
ネアースを征服するのか、占領して領有するのか、それとも皆殺しにするのか、敵のビジョンさえはっきりとしない。
邪神帝、呪神帝、死神帝とこれらは別の派閥か勢力であり、味方に出来る勢力があるかも分からない。
せっかくジンと接触したことがあるのに、そういった情報を仕入れていないアルスに対して、マートンの評価はあまり高くない。
勇者で大魔王で最強の戦士で、さらには政務を執る事務官のような功績があっても、軍人としては失格なのだ。
とにかく、やることをやる。
その場の誰もが頷くが、やるべきこととは何なのか。
まず一番重要なことは、目的を明確にすべきであると、マートンが告げた。
「ネアースを守ること」
円卓に集まった、年齢も性別も種族も地位も職責もバラバラな一同に対して、まずフェルナが告げた。
「仮に相手が侵攻を仕掛けてきた場合――いや、今までの例からして、その確率が高いと思いますが」
マートンは最悪を想定する。根幹世界の神帝たちが、かなりの数でもってネアースに攻めて来るというのが、まず最悪だ。
「その目的はなんでしょう?」
その問いに対して答えるのは、まず政治家であり野心家でもあるナルサス。
「領土と領民の獲得、というのが普通なら一番だろうな。だが聞く限り神帝という存在は、王や皇帝といった支配者であり為政者とは少し違うようだ」
上に立つ者というのは、義務と責任が発生する。それを果たすことによって、利益を得るのだ。
だが神帝は違う。
邪神帝ジンなどは、ほとんど部下を持たず、また君主として君臨しているわけではない。だが彼を支持し崇める者はいて、それらを適当に守っているそうな。
死神帝などは存在自体が他者を殺めるものだった。あれが普通に為政者として存在するのは難しかっただろう。
呪神帝はどうだったろうか。あれは呪いの力により、人を支配するのには長けていただろう。
神帝というのは君臨するものであるが、同時に気ままな神のような存在であると言えよう。
その在り様はネアースの神々や神竜とも違う、性格的には地球のギリシャ神話の神々に近い。
意思を持った気ままな力。迷惑なものだ。
領土や領民を必要とするだろうか。戯れに皆殺しにしたとしても、それはまさに神の所業に等しい。
「聖書の神様に近いような……」
唯一神であるにも関わらず、まるで人のように人を試す神を思い出し、セリナは呟く。
「ああ、キリスト教というか、旧約聖書の神だな。全知全能でないという点を除いては、それに近いな」
ナルサスが失笑する。
「まああの宗教の神は、理論上全知でも全能でもないけど」
話は多少ぶれつつも、ある方向性をもって目的を定めていった。
富国強兵。簡単に言ってしまえばそれだが、どの方向に対して力を入れるのか、それが問題となる。
「次回の邪神帝との接触までに、必要なことをまとめておかないとな」
ナルサスは言葉にして、マートンに視線をやる。
必要な情報の選択は彼の管轄でなされる。自分が必要だと思ったら彼にそれを伝えるよう、会議では決定された。
会議のその場が急に用意されたこともあって、全ての者が自分の役割を果たすために必要な情報を悟っているわけではない。
しかし魔法使いにとって必ず取得しておいてほしいことを、彼女は述べた。
「魔法使いの中でも、相当高位の者でなければいけませんが……」
カーラはその美貌を曇らせながらも、絶対に必要なそれを口にした。
「アルスが最後に使った魔法を、全員が使えるようにしておいてほしいのです」
それは『我が命と引き換えに』という魔法であった。
自らの命を代償とする魔法。魂が輪廻の輪に乗らず、磨耗していく竜には使えない魔法だ。
自爆の魔法に対して、その場にいた魔法使いたちは表情を強張らせる。
「アルスが最後に残した、我々への最後の武器として」
「特攻隊みたいだ」
セリナは乾いた笑みを浮かべてそう言ったが、その有効性はアルスが己自身でもって示してくれた。
ならば、あの偉大な男の死を無駄にしないためにも、それを習得するのは義務であろう。
政治家たちが国力の方向性を合わせ、軍人たちが力を有効に使うべく頭を悩ませる。
そして戦士たちは、相討ちになろうとも敵を倒すという覚悟を決める。
このネアースを守る。
その想いを胸に、戦士たちは頷いた。
神帝降臨編 了
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