第72話 唇

「あ~、おかえり~」

 書類に埋もれたギネヴィアが、執務室でリアを迎えた。

 疲労が表情にも出ているが、目だけはギラギラと輝いている。彼女が徹夜でゴーレムをいじくっていたことを、リアは既に女官から聞いていた。

「大変そうだな」

「そうでもないわよ。自分の好きなことをしていると、疲れなんて忘れられるものよ」

 なるほど、確かにそれはそうかもしれない。

 前世では血反吐を吐きながら剣術の訓練をしたものだ。そして法律の整備などという面倒くさいことは、精神的に疲れるものなのだ。

「少し話がしたいんだが……」

「そうね、私も少し休憩が取りたかったし……一緒にお風呂入る?」

「ああ、そうだな」

 この二人は外見もそうだが、趣味思考も似ている部分が多い。風呂好きというのもその一つだ。



 たっぷりと湯をたたえた広大な浴槽に、二人は入った。

 あえて女官を下げ、完全な二人きりの空間を作っている。

 これがシズナなら身の危険を感じるのだろうが、ギネヴィアは自分がリアの好みではないことを知っている。

 ギネヴィアは髪を布でまとめていたが、リアはそのまま湯船に流していた。

「で、話って?」

「カーラのことだ」

 リアはマラダス要塞でのカーラの様子を話した。

「なるほど、あの子らしいわね」

 それはギネヴィアにとっては不思議なことではなかったらしい。

 大きな胸をぷかぷかと湯に浮かべながら、彼女が言ったのは、強烈な一言だった。



「あの子が欲しい?」

 息を飲む。

 思っていたことを、そのまま言い当てられてしまった。自分はそんなに、物欲しそうな顔をしていたのだろうか。

「もしも本気なら、正面から気持ちを伝えないと駄目よ。下手な駆け引きは無駄。でもあなたが真剣に向き合うなら――」

 女王はその指で、リアの髪を一筋すくった。

「あの子はあなたに応えてくれるわ」



「私は女だぞ」

 今更なことを、リアは言った。それに対して、女王は笑う。

「だから何?」

「あなたも女王なら分かっているはずだ。ただでさえ女同士などというのは不毛な上に、彼女は貴族だ」

 無言で促す女王に対して、リアはやるせない思いと共に吐き出す。

「血を残す義務があるだろう。違うか?」

 妻などと言っても、相手さえいれば手放さなければいけない。リアはいつも、その覚悟でいる。

「違うわ。違わないけど、違う」

 まるで謎解きのように女王は微笑む。この、自分が一番カーラのことを知っているという態度が気に食わない。

「何が違うんだ!」

 思わずリアは声を荒げていた。

 そう、認めてしまえ。

 自分はこの女に嫉妬している。

 カーラのことを、自分より良く知っているこの女に。



「そんなに怒るほど、あの子のことが好きなのね……」

 リアの威圧をひょいと肩をすくめただけで受け流す。全くいいタマだ。

 だがその後に浮かべた笑みが優しいもので、それでいてどこか寂しそうで、リアは続く言葉を失う。

「教えてあげる。あの子の秘密」

 女王の金の瞳がリアを射抜く。強い視線だ。目を反らせたら、きっと軽蔑されるだろう。

「あの子は、子供が産めないの」







 その後の記憶が、リアは定かではない。

 気が付いたら、バスローブ姿でほとんど髪も拭かず、部屋のベッドに座っていた。

 自分以外の人間のことで、これほどのショックを受けるのは初めてだった。

「月のものがないのよ。医者が言うには、生来のものだろうですって」

 そんなことを言っていたが、もうどうでもよかった。

 リアが男になれないように。

 カーラも子供が産めない。

 辛い。

 なぜ辛いのだろう。自分が子供を産めないというのは、当然のように受け入れていた。それが、どうしてカーラの場合は。



 子供がいなくても、人は生きていける。自分はその覚悟でいた。前世だってそうだった。

 だが、カーラの場合は違ったらしい。

 彼女は、自分が子孫を残せないと知ってから、自分以外の者のために生きようと決めたのだ。

 その決意を、ギネヴィアだけが知っていた。

 親友の彼女だけが、それを聞かされたのだという。自分は聞いていないのに。

 話すようなことでもないのかもしれないが。

 もし子供が産めないのなら、カーラが一生リアの傍にいても、それは不自然ではないだろう。

 竜の血脈を持つ自分たちが、はたしてどれだけの悠久の時を生きるのか、それは分からないが…。



「リア?」

 ノックの音はしていた。誰がドアの外にいるのかも知っていた。

 だから返事をしなかった。

「私を呼んでいると聞きましたが…」

 自然と部屋に入ってきたカーラは、手にしていた書類を机に置くと、バスローブ姿のままのリアに歩み寄ってきた。

「髪が濡れたままですね」

 カーラは取り出したハンカチでリアの髪を拭こうとして、逆にその腕を取られた。

 立ち上がったリアは、カーラの両手を拘束すると、体を反転させベッドに押し倒す。

「リア?」

 こんな状況でも、カーラの瞳に揺らぎはない。

 全てを受け入れてしまうような、そんな強さ ―― あるいは投げやりさがある。



「ギネヴィアから聞いた。……子供が産めないそうだな」

 ひどく冷えた声を発しているのだと、自分でも分かった。

「はい。ですので、結婚もしませんでした」

 なるほどこれは、永遠の処女だ。

 ひどく歪な、男にとっての理想の女神だ。

 美しいまま、老いることなく、その愛は無限に溢れ、公平に施される。



 リアの髪からこぼれた水の雫が、組み敷かれたカーラの顔を濡らしていく。

「お前は、私の妻だ」

 今度こそ、遠慮なく。

 リアはカーラに口付けていた。

 一度、二度、そして三度目に、舌先が唇を割った。

 柔らかい舌を、味わうようになぞっていく。その甘さに、背筋がしびれたようになる。

 体の下で、カーラがびくりと震えた。



 たっぷりと余韻をもって、リアはカーラから唇を離した。

 唾液の糸がつ、と二人の間をつないだ。

「いつか必ず……」

 リアは呻く。宣言するかのように。

「いつか必ず、お前の身も心も私のものにしてみせる。私なしでは生きていけないようにしてやる。私のことばかり考えているようにしてやる」

 呪いのように言って、リアは手を離す。

 しばらくカーラはベッドに横たわったままだったが、やがて起き上がると、わずかに乱れた髪を整えた。

 そしてまだベッドに座り、バスローブを乱したリアの服装を直していく。

 その指先が、つとわずかに、リアの肌に触れもした。

 もちろんそれは偶然なのだろうが、リアは微妙な快感に身を震わせた。

「私は、国のために、人々のために生きています」

 カーラが告げた。

「そして今は、それを率いていくあなたのために」

 期待していたものではないが、それはカーラにとっては告白だった。

「いつか必ず、私に夢中にさせてやるからな」

 捨て台詞のように言い放つリアに一礼し、カーラは部屋から立ち去った。



 リアは知らない。

 カーラが己の体の下で、どれだけ激しく心臓を脈打たせていたかを。

 リアは知らない。

 カーラが己の唇に触れ、リアの唇の甘さを反芻していたことを。

 リアは知らない。

 既にカーラが、どれだけリアのことを愛しているかを。

 ……リアは知らない。







 それから数日後のことである。

 コルドバ南端に設置した、橋頭堡としての要塞が、コルドバ軍の大軍の襲撃を受けているとの連絡がなされた。

 リアは手元にあるオーガ軍とカサリア軍だけを旗下に、救援のための軍を発した。

 その背後には、もちろんカーラがいる。

「敵の兵力はおよそ5個軍団。速度を重視したため、攻城兵器や補給部隊は最低限のようです」

 フィオの報告は、コルドバ領内の獣人たちからもたらされたものだ。

 ただでさえ10年ほど前はコルドバ領ではなかった上に、完全に人間の下の種族として扱われていた彼らは、すぐさまオーガスへの全面的な協力を申し出た。

 リアもこれにこたえ、各部族の長を正式な貴族として認めた。部族内でどのような相続が行われるかまでは、リアの感知するところではない。



 コルドバ軍はこちらの軍勢が向こうを上回ると知ると、すぐに退却して行った。

 誰が司令官かは知らないが、賢明な判断だ。なにしろこちらは、約2倍の兵数がいるのだから。それも、オーガが3万。

 正面から戦って勝てないのは、これまでの戦いから分かっているはずだった。

「これから少し厄介になるな」

 リアは呟いたが、意外なところからフィオが助け舟を出してくれた。

「でもリア様、コルドバの軍規によると、敵と会敵した場合、よほどの場合がない限り、一戦もせずに退却したら罰せられるはずですよ」

「なんと」

 思わずその書類を確認して、リアは笑った。嘲笑だった。

「コルドバは制度疲労を起こしているな」

「制度疲労? ですか?」

 フィオにはよく意味が分からないようだったが、リアにははっきりと感じ取れた。

 思えば、コルドバ軍の動きも、規律は取れているが、軍隊に相応しい勢いというものに欠けていた。

 戦争は、血で血を争う文字通りの戦いなのだ。そこに人間の理性と秩序を完全に求めるのが間違っている。



 これは、案外早くこの戦争は終わるかもしれない。リアはそう思った。

 戦争が人類にとっての例外なき罪だというのなら、せめてそれを早く終わらせることが、為政者の採るせめてもの道だろう。

「獣人に加えて、人間の偵察部隊も増やし、また人間の住む街にも、出来るだけ噂を流すようにしろ」

 コルドバは急激にその領土を増やしてきた国家だけに、新しい領土の民心を完全に掌握しているとは言えない。

 圧制を敷かれていることもあって、かつての領主が軍を任されて帰還すれば、反乱が起こる可能性は高いと考えられる。

 リアはこの時、コルドバとの戦いを早く終わらせることを決めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る