第46話 暗黒竜

 そこは広大な空間だった。

 洞窟と言うのは間違っているような広さがあった。

 おそらくアナイアスの街がそのまま幾つも入ってしまうであろう周囲の広さに、サイクロプスが全力ジャンプしても届かない天井の高さ。

 ほの暗い空間に、山があった。


 否、山のような大きさの竜だった。


 黒い塊から、首が伸びる。巨大すぎて全景が分からない。


 漆黒の鱗に、黄金の瞳。

 頭部だけでもサイクロプスに匹敵するような。

 生物として存在していていいのかと思うほどの、馬鹿馬鹿しいまでの巨体。


 暗黒竜バルス。


 視線だけで、一行は動きを止められた。

 心臓の動きが、肺の動きが止められる。死んでしまう。死ぬ。


「すまぬ」


 言葉が圧力となり、一行を地面にひれ伏させた。


「楽にするがよい」

 その言葉で、圧力がなくなった。体が動く。死から遠ざかる。

 しばらくは酸素を肉体に送るだけで時間が過ぎた。

 リアでさえ、金縛りにあったように動けなかったのだ。


「定命の者と相対するのは久しぶりなのでな。加減を忘れていた」

 普通に喋るだけでも、生あるものを殺してしまう。それだけの力を持っている。それが神竜。

 太古の神話の時代、天地を滅ぼそうとする神々の争いを終わらせた、絶対的な世界の守護者。

「しばし待て」

 抑えきれぬ力。そう言われれば待つしかない。

「人に合わせるのは、難しくてな」


 山が蠢いた。


 うねる。渦巻く。

 黒い塊が、徐々に小さくなっていく。




 いつの間にか腰の刀に伸ばしていた手を、リアは離した。

 本当に、いつの間に。自分でも気付かなかった。

 こんな化け物――否、神を相手に、自分は戦うつもりだったのだろうか。


 いつの間にか、山が消えていた。

 薄暗い空間の先から、足音が聞こえてくる。


 やがてリアの視界に入ったのは、美しい女だった。

 黒髪に、黄金の瞳。肌の色は白く、黒い布で、無造作に裸身を覆っていた。

 顔の造りは、リアに似ていた。

 いや、リアがあと数年すれば、このような顔になるだろうかという、造作だった。

「ようこそ、我が住処へ」

 人間の、女の声だった。先ほどまでの圧力はみじんもない。

「違った。我らが住処だな。人間の言葉は少しずつ変わるからな。……間違っておらんよな?」

 意外と腰が低い。

 偉ぶる必要がないほどの圧倒的な存在だからだろうか。

 バルスが振り返る。洞窟の壁面には、多くの窪みがあり ――。


 そこに無数の竜がいた。


 息を呑む。およそ体長は100メートルほどもあるだろうか。それが壁に穿たれた無数の壁の中で、眠っている。

 数百? 数千?

 それ以上?


「我々が本当に目覚めるのは、世界に破滅が迫った時のみ。千年紀程度では、本来動くはずもないのだが、リュクレイアーナとの約束でな。黒竜では我のみが特別に、人の味方をしている」

 もちろんこのリュクレイアーナとは、武帝のことであろう。 

 バルスが手を振る。そこに人数分の椅子が、床から生み出された。

「座るがいい。我にも、人の力を借りねばならぬことが出来たのでな」

 そう言って自分も座る。円周状に椅子は作られているのだが、リアが正面に座ってから、ようやく他の者も座っていく。


「さて、何から話すか。まずはクラリスの件からか」

 バルスの眉根に皺が寄せられる。感情表現の仕方は、人間と同じようだ。

「ついこの間、人が ―― いや今は我々もだが、クラリスと呼ぶ神竜が消滅した」

 一ヶ月以上前を、ついこの間と言う。どうもタイムスパンが人間とは違うらしい。

「原因は分からん。いや、分かるのだが、お前たちに説明する言葉を持たない。人の言葉では、その概念が無いのだ。とにかく、強力な魔王と勇者、その両方が協力すれば、それも可能だろう」

 ありえないことをバルスは言った。

 魔王と勇者が協力する?

「おかげで世界は歪み始めている。幸いこの状況をある程度予知していたので、その対策は取ってあった。我とクラリスの間に、新たな神竜が生まれた。だが、その者はまだ幼い」

 バルスが指差したのは、門番の幼竜であった。

「その者を育てねばならない。そのためには、我らが住処より出さねばならない。幼子を守り育てるのが、お前の役目だ」

 次に指したのは、リアであった。

「竜の血脈を持つ者よ。異界の神々の祝福を受けし者よ。神々を殺す者よ」

 リアだけを見つめている。最初から、他の人間のことなど眼中にない。

「お前が世界に選ばれたのは、まず一つはそのためだ」


「わ ―― たしは!」

 声が出た。出せた。

「自分で祝福を選んだ。世界に選ばれたのなんて知らない!」

 頭を振る。

 これは支配の力だ。

 暗黒竜の言葉が、そのまま力となってリアを縛っている。そうに決まっている。

「使う言葉を間違えたのかもしれんな。とにかくおまえは『宇宙の因果律』に従ってこの世界に来た」

 ぴくりとサージが体を震わせた。

 暗黒竜の使った言葉の中に、日本語が含まれていたからだ。

 ラビリンスがそうであったように、暗黒竜も転生者だというのか?

 違うと確信する。根拠は何も無いが、違うと思う。


「次の話だ。竜殺しが生まれた」

 バルスの話題が変わった。こちらの混乱を、分かっているのだろうか?

「人の身には過ぎた力だ。我々はどうということもないが、お前たちには重要なことだろう」

 さほど気にもしていないという態度をバルスは取っていた。

「竜殺しは竜以上の力を持つ者。勇者や魔王に匹敵する者。扱いを間違えれば、千年紀の秩序は失われ、大崩壊へとつながる」

 バルスは記憶を辿る。かつて生まれた竜殺し、リュクレイアーナの記憶を。

 神をも殺す力を持ちながら、それを捨てて人としての生を終えた、敬すべき人間を。

「自らの身を守るために、全力を尽くせ」

 目の前の人間たちは、果たしてどのような結論を出すのだろうか。


「三つ目だが。これも世界の秩序に関してだ」

 ここでバルスは、疲れたような溜め息をついた。

「我が魂は、間もなく摩滅する」

 それは人にとっての死を意味する。

「その後の、この世界を守護する役割を、お前に求める」

 バルスが見ているのは、リアだけだ。他の誰にも求めていない。

「それが、お前が世界に選ばれた二つ目の理由だ」

 勝手な話だ。

 しかもそれは、既に終わってしまった話として語られている。




 誰も何も喋らなかった。

 ここは人の居るべき場所ではない。命知らずの探索者のいるべき場所ではない。

 本来人が生きる場所ではないと、矮小な人間たちは分かっていた。

「さて、我ばかりが喋ってしまった。お前たちの話を聞こう」

 圧倒された人間は、話すことさえ忘れたかのように、ただ生きるのに必死だった。

 一人を除いて。

「訊きたい事が一つと、お願いしたいことが一つある」


 リアだけは、この場の圧力に抗することが出来た。

「あなたたち竜は子供を作るとき、片方が男になるという。その方法を教えて欲しい」

「自然のままに」

 即答だった。

 リアが必死で、決死の思いで発した問いに、答えは完全な形で返ってきた。

「季節が満ちたとき、お互いが心から愛し合えば、繁殖は可能だ。人間と変わらない」

 その時のリアは、ひどく変な顔をしていただろう。

 竜というのは、愛という感情を知っているのか。

 そもそも愛とはなんだ?

「お前は、誰かを心から愛したことがないのか?」


 無い。

 強いて言えばマールであるが、これはアガペーであろう。

 愛でなく、情愛である。空や海や大地を愛するように、マールのことは愛している。

 もちろんマツカゼのことも愛している。ルドルフのことも愛している。

 だがそういうことではないのだろう。

「人間は愛情なしでも繁殖する生物だぞ……」

 力なくリアは応えた。どうしようもない脱力感でいっぱいだった。

 自分の全てを否定されたような気がしていた。もちろん被害妄想だが。

「だが我とアナイアは、心から愛し合っていたぞ」

「ああ、そうですか……」

 泣きそうだったが、涙は見せない。だって心は男の子だから! ……多分。

 後でサージに相談しよう。そう決めた。


 決めたからには、もう後は振り向かない。どうしようもないことだ。

 質問は終えた。次は、願いを口にする。

「私は、あなたの力を貸して欲しい」

「我の力を何に使う?」

「この地に住む人々の力を併せて、千年紀を乗り切るため」

 そう、元々はそのために来たのだ。

 だがバルスの話を聞いた後だと、その望みがなんと矮小と思えることか。


 いや、それは違う。

 リアは違うと言える。

 人がひたすらに生きようとすることは、小さいことではあっても、卑しいことではない。

「よかろう。だが我が人の世のつながりに干渉することは出来ぬ。それは竜の牙をもって、蟻一匹を潰すことに等しい」

 バルスが立ち上がった。リアに歩み寄る。

「我が牙を与えよう」

 空間に出現した、リアよりも巨大な黒い牙が、床に突き刺さる。

「お前の力ならば、お前の望むカタナに鍛えられるだろう」

 その牙は確かに鉱物の色をしていた。

「それと、お前の力を解放しよう」

 その優美な手を、リアの額に伸ばす。

 避けようと思えば避けられた。だが避けたら負けのような気がした。

 危機感知が働かなかったこともある。確かにバルスに悪意は無かった。


 指先が触れ、電撃が走った。

 麻痺耐性を持っているはずのリアが、全く動けず倒れ伏した。

 あまりにも呆気なく、リアは意識を手放していた。

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