第40話 胎動
陽光が明るい。
竜骨大陸でも南部に位置するその港町には、多くの荷と人の動きがあった。
その港の桟橋で、どこか羨ましそうに人の流れを見ている青年がいる。
半袖の服に、薄い地のズボン。それでもこの辺りでは、厚着の内に入る。
腰に吊るした剣だけが、わずかに武張った印象を与えるが、総じて穏やかそうな印象を与える男である。
その彼に、近づく人影が一つ。
こちらは完全に衆目を集める、外套にフードという出で立ちの姿である。よく見ればその線の細さから、女だと分かるだろう。
「参りました」
声も完全に、若い女である。
「ああ、お疲れ様。こんな遠くまで悪かったね。こちらの仕事が佳境だったから……」
「いえ、陛下に呼ばれれば応えるのが、我々臣下としては当然のこと。むしろ陛下自らのお手をわずらわせてしまう、我らの力不足を痛感する――」
「いやいや、それは仕方ないから」
青年がぱたぱたと手を振る。
「出来る人が、出来ることをやるしかないんだ。本当なら君にも国にいてほしいんだけどね」
「もったいないお言葉……」
青年は苦笑する。かなり慣れたと思っていても、しばらく離れるとまた態度が大仰なものになってしまうのだ。この大切な臣下たちは。
「それで、来てもらったのは、ちょっと事実関係を調べてきてほしいんだ」
少しだけ、青年の雰囲気が真剣なものになる。
「どうも、オーガキングを倒した人間がいるらしい」
「オーガキングを!? まさか勇者では?」
「いやいや、彼はまだ帝都にいるはずだから、違う人間だよ。それに倒したと言っても、殺した訳じゃない。だからこそ、僕の魔法に引っかからなかったんだけどね」
勇者であれば、固定観念からオーガキングを殺してしまう可能性が高い。
それにオーガキングに施してあった魔法は、あくまでも彼の生死を知らせるものだった。こちらからの定期確認がなければ、いまだに分かっていなかったろう。
「それと、ラビリンスの迷宮を踏破したパーティーが出た」
その事実も、女を動揺させるには充分なものだった。
あの迷宮を踏破するのは、オーガキングでも一人では無理だろう。しかも、時期が時期だ。
千年紀も近い、この時期に。
「場所が近いですね。それは同じ人物では?」
「詳しくはよく分からない。だけどこの街まで伝わってくるんだから、もう一ヶ月は前の話だね」
迷宮都市は、青年にとって不可侵の領域の一つだ。だからこそ、人伝えに聞くしかなかった。
「踏破されたということは、ラビリンスの力も落ちているはずだ。今の内なら、君も踏破出来るだろう。それでラビリンスに会って、詳しい話を聞いてほしい。出来れば彼女から少しでも力を分け与えて貰えれば、今後の展開も楽になるだろうしね」
もっともあの気まぐれな転生者が、素直に力を分け与えてくれるとは思えないが。
「それで、オーガキングを倒した者と、踏破した者たちはどうすれば?」
その問いに、青年は首を振った。
「接触はしなくていい。ただ、どういう人間かは調べてくれ。人を使って、くれぐれも向こうに、こちらの素性が分からないようにしてほしい」
「今のうちに、始末するべきでは?」
物騒な臣下の物言いに、また青年は苦笑する。
「まず、始末出来るかどうかという問題がある。少なくともオーガキングより強い相手だ。正面から戦うのは危険すぎる。それに、オーガという種族を殺さなかった人……まあ、人じゃないのかもしれないけど、こちらに引き込めるかもしれないじゃないか」
人ではなく、亜人ではあるかもしれない。その可能性は考慮していた。
しかし女が気にしたのは、そこではない。
「我々の仲間に、ですか?」
「おかしいかな?」
普通は思いつかないだろう、と女は思った。だがそれを口にすることはない。
言葉にしたのは、全く逆のことだった。
「確かに、その可能性はあります」
言ってしまえば、その通りだろうと思える。何しろ彼女の敬愛する主君の言葉なのだ。
「それでは陛下、早速シャシミールへ向かいます」
「うん、頼むよ。それと――」
青年が、こつんと女の額を小突く。
「王宮の外では陛下じゃなく、名前で呼ぶように言っただろ?」
「す、すみません、アルス様!」
勢いよく頭を下げたその一瞬、浜風に吹かれてその顔が露になった。
銀髪。暗褐色の肌。そして長く伸びた笹穂耳。
ダークエルフ。魔族の中でも、最も魔法に長けた種族。
アルスが素早くフードを直したので、それに気付く人間はいなかった。
「気をつけてよ。ちゃんと変身の魔法も使って。君は時々おっちょこちょいだからなあ」
まるで子供扱いされるが、それが不快ではない。
何百年生きようと、子供時代を知っている主君には敵わないのだ。
「そ、それでは行って参ります」
その姿が消える。そして風に乗って、はるか大陸の北東へと向かっていく。
青年はそれを見送った後、少し憂鬱そうに溜め息をつき、桟橋を陸地のほうへ向かう。
この国での仕事は一段落した。陰でこっそりと動いたので、危険な敵対者たちに見つかることもなかった。
だが、次の仕事は違う。敵対者だけでなく、全ての大陸の強者が知るだろう。
それでもやり遂げなければいけない。千年紀。その結末を、悲劇を回避するために。
人通りの多い街中を、こっそりと裏道に入ると、彼は繊細なまでに注意して、転移の魔法を使った。
時空魔法。
もしサージが見たら、その構成の精密さに驚愕しただろう。
敵対者の目を恐れて、青年が向かった先は、この大陸の中心、帝都。
その目的を知るのは、まだ彼一人である。
目の前に、筋肉の塊があった。
長年に渡って、絶え間なく鍛えられた筋肉だった。
それは美しいとさえ感じさせるものだった。
その筋肉に向かってリアは――鍼を刺した。
「うお」
思わず洩れたバルガスの声は、不快なものではなかった。
バルガスの背筋に沿って、リアは鍼を刺していく。この鍼もまた、創世魔法で作り出したものだ。
鍼の頭を、ぐりぐりと回してツボを刺激する。う~むと声がバルガスの口から洩れた。
「ほ、本当に痛くないの?」
恐々とそれを見ていたシズナが尋ねる。同じように見ていたメンバーも、視線で同様の問いかけを行った。
「む、痛くはない。むしろ……圧されている感じがして気持ちいいな」
最初の探索を終えてから、三日目のことである。
暗黒迷宮の探索は、その装備の修復や疲労からの回復を考えて、10日前後の休息を経て成されるのが、これまでの雷鳴の牙のパターンだった。
だがそれに、リアが物言いをつけたのだ。
「装備はともかく、回復なら三日で済むだろう」
魔法により回復のことを言っているのだと、最初雷鳴の牙のメンバーは思った。
確かに魔法により、疲労を回復することは出来る。もちろん傷なども治癒する。
だがそれを短期間に繰り返していくと、疲労の回復度も、傷の治癒速度も低下していくのだ。
これは探索者にとっては当然の現象であったし、戦場行軍を繰り返しているカルロスなども知っていた。
リアは知らなかった。近隣の魔物撲滅は一日の仕事であったし、迷宮都市では被害をある程度無視できたからだが、何より彼女自身が、短期間に疲労も回復し、傷も治癒する体質だったからだ。
だが、10日前後という休息期間はいかにも長いと思った。これは、若いシズナも実は同じ意見だったのだ。
そこでリアが試そうとしたのが、前世での鍼治療である。
もちろん前世でリアは鍼治療を施したことはないし、免許も持っていなかった。
だが受ける立場としては、非常にお世話になったのだ。なにしろ武術家は怪我と切り離せない存在だ。
科学的な治療では二ヶ月かかるはずの捻挫が、わずか数日で治ってしまう。
そんな魔法のような腕を持つ鍼師、気功師、整体師に、前世では何度も通った。
そして鍼とまではいかないが、ツボを刺激して治癒を促進させることは、ある程度教えてもらった。
鍼治療は、その経験と勘を使用したものである。
もちろん最初、こんな聞いた事のない治療を、受けようとする者はいなかった。
そんな皆の前で、リアは自分の手足に細い細い治療用の針を平然と刺していったのだ。
……一度間違えて痛点を刺してしまったが、無表情でこらえた。
するとこういったことに興味のあるバルガスが、実験台に名乗りを上げてくれた。
そこでこうやって、もっとも痛点の少ない背中に、ツボを探りつつ鍼を刺していく。
(これは意外と、魔力操作の訓練になるんじゃないか?)
大地に竜脈があるように、人間には気脈がある。
この世界では、そこを流れているのが魔力なのだ。
特定の姿勢をとって瞑想することにより、魔力の回復が早まるという研究は、カサリアでもされていた。
針は背中から腰、肩、首と何十箇所にも及んだ。
「驚いたな。本当に体が軽い」
腕を振り回しながらバルガスがそう言ったので、おそるおそる戦士たちもリアに鍼を頼んでいく。
リアは快く、鍼を使い捨てにしながら治療をしていった。
男衆全員を終え、さあ次はお楽しみの女子にしてあげようかと思ったところだった。
リアの膝が崩れた。
「え?」
体が震える。髪の先からつま先まで、全身が。
「な、なんだこれ?」
訳が分からない。呟く声も震えている。
恐怖ではない。武者震いでもない。
マールとルルーが慌てて両脇からリアに寄り添う。だがしばらくの後、今度はマールとセルが異常を感じた。
「精霊が騒いでいる…」
精霊は全ての存在に内在するものだ。それが、まるで世界が震えているかのように騒いでいる。
やがて魔法使いも気が付いた。遥か遠く離れた場所で、とてつもない魔法が使われたことを。
「アナイアスの方……いえ、少し違うし……かなり遠い?」
ルルーが呟く。そんな遠隔地の魔法を、なぜ感じてしまうのか。どれだけの魔力が放たれたのか。
だがリアが感じているのは、そんなものではなかった。
何かが、失われた。
この世界にとって必要なパズルのピースが一つ、欠け落ちてしまった。
何が失われたのか分からない。だが何かが失われた。失われてはいけない何かが。
巨大な喪失感の中で、リアはただ震えるしかなかった。
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