第7章 2

 一方、その頃。ハラーレ=ラィルことハルは、かつてない程の集中状態に在った。

 血走った深紅の瞳の中、腹に響く振動音に合わせて瞬くのは、壁に埋められた仄白い石の群。

 燐水晶りんずいしょうと呼ばれるそれは火領土グラウダでしか産出されず、フィルナは言わずもがな、ここルナンにおいても途方もない高級品であるという。その優雅な光の下、銀の卓に半ば覆い被さるようにして座り込んだまま、ハルは血走った双眸をぎらと絞った。

 不安定にぐらつく身体を全神経で制御しながら、右手に握る銀の匙を慎重に移動させる。白い粉末が盛られたそれが目指すのは、何やら複雑に組まれた硝子器具の山。その中心に置かれた円筒管へと注ぎ込まれた純白は、瞬刻の後、おどろおどろしく泡立ちながら、蒼い火花を散らして溶けた。

『……気を付けた方がよいぞ』

 張り詰めに張り詰めた空気を縫って響いたのは、鈴を転がすような忍び笑いだった。

幻氷石ヴェイルは扱いが難しい。匙加減を誤れば、瞬きする間に天国よ。身も心もの』

 水色の羽根扇が示したのは、硝子器具が並ぶ卓の下に敷かれた柔らかなラグ。その上では、毛並みの良い白猫が腹を見せてころりと転がっている。薄桃色の目を半開きにしてぽっかりと口を開けたその姿は……阿片アヘン窟で微睡まどろむ中毒者に、大層よく似ていた。

『特に、呪力ちからある者にはより強い効果をもたらしよる。そなたなら、なかなか良い夢を見られようぞ』

『……あんまり脅かさないで下さいヨー。ビビって失敗したらどうするんですか?』

 口を尖らせつつそう零したのは、猫の横にちんまりと座り込んだシネイン。ところどころ毛羽立ちよれた薄茶の絹布――どうやら、彼女の実家の儀礼装束らしい――をあくせくとかがっている少女の顔は、かすかどころか明らかに強張っている。

 その様子を知ってか知らでか。ひらひらと揺れる羽根は、優雅にふたりと一匹を仰いだ。

『なに、大したことはない。ほんの少々、記憶が飛ぶくらいよ。まぁ……裸で道端に転がされるくらい、覚悟しておけばよかろうて』

『どんな覚悟だ!!』

 詠うように紡がれた言葉に、ハルは思わずそう絶叫した。

『そんな危ねぇ薬、人に調合させるな!アンタが自分で混ぜればいいだろうが!!』

『爪が傷む故、嫌じゃ。その粉に触れると、皮膚も骨もぼろぼろに剥がれる故の』

『は、剥がれ……!?』

『いつまでもしつこく泣き言を言うでないわ、情けない』

 扇がぴしゃりと閉じられる音に続いたのは、蝿を追うかの如き素気無い科白だった。

『今のそなたは、掛人かかりびとぞ。働かざる者食うべからず――己が立場をわきまえ、黙って手を動かすがよい。のう……ヴァイナス家の御曹司よ』

 思わず顔を引きつらせたハルとシネインが、揃ってびくりと身を竦める。

 その様子を傲然たる微笑とともに見つめていたのは、薄水色ペールブルーの装束に身を包んだ、美しい少女だった。

 見た所は、シネインと同じくらいの年頃か。綺麗な二重瞼に縁取られたやや下がり気味の瞳は、ハルに勝るとも劣らぬ程深い紅色。顎のラインでばっさりと切られた黒檀の髪は、可憐と言うより臈長けた美貌を一層鮮やかに引き立てている。その姿は、壁中に燐水晶を散りばめ、大小様々なタペストリー――いずれも金糸銀糸を多用した、相当に手の込んだ一級品――が懸けられた豪奢な部屋に在っても、全く見劣りしないほどの威厳を示していた。

 ヴァナを出て、ひたすら火領土を東上し続けはや三日。

 昨晩ようやく辿りついた帝都の片隅でハル達を出迎えたのが、この少女――マリアン・リーズと名乗る貴族だった。

 水領土イアリンに本拠を置くというその出自は相当によいらしく、ことシネインによれば、現在ランス中心部の上空を飛んでいるこの浮遊船をはじめ、多くの財や領土を有する実力者という。

 実際、革張りの椅子に腰かけてハルを見つめる姿は、彼が目にしてきたフィルナ西王国の高官達よりもはるかに貴人然としている。その迫力に何も言えず……また何を言い返す余裕もないまま、青年はひたすら手を動かし続けるほかなかった。

 再び沈黙が満ちた空気の中、青年少女が座り込んだラグの後ろで、小さなドアがぎいと軋む。その隙間から部屋の中へと滑り込んできたのは、銀髪を射干玉ぬばたまの黒に染めたアースロックだった。

『……シツレイ、シマす』

 どこか恐々たる調子で紡がれたのは、どこか調子の外れたルナンの言。

 盟約するなりすっぱりとフィルナ語の使用を止めたシネインのしごきの賜物か、はたまた生来の生真面目さが為せるわざか。片言ながらも意思の疎通が出来るようになったこの青年の素性を、マリアンは決して聞こうとはしなかった。

 しかし……己が船に出入りを許す程度に、思う所はあるらしい。ひどく緊張した面持ちのアースに艶やかな一瞥を投げつつ、マリアンはゆっくりと首肯した。

『棚のオク、アッタ。探しモノ、コレ?』

 おどおどと進み出た青年の手に握られていたのは、ごくシンプルな形の玻璃瓶だった。内に込められた無色透明の液体はとろみがあり、まるでまろやかな水飴のよう。形のよい長い爪でそれを取り上げ、少女貴族は低く喉を鳴らして嗤った。

『……水領土はヴァルフレーン湖の、真冷水オーヴィーザ。間違いない。大儀であった』

 妖美漂う艶を含んだその視線に、アースの顔があっという間に真っ赤に染まる。どぎまぎしながら俯いたその様子を横目に、マリアンは再びついとハルを見遣った。

『これで、材は揃うたの』

『……っうわっ!?』

 僅かな風切り音に重なったのは、柄にもなく大仰な絶叫。突如投擲された小瓶をどうにかこうにか手中に収め、ハルは引きつった顔をがばりと上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る