第7章 カルマの鎖

第7章 1

 華やかな設えに溢れた部屋の中、白い肌に着せつけられた紫のドレスは一際目を引いた。

 薄いレースを幾重にも重ねた袖口に、細く絞り上げた優美なウエストライン。そして上品なドレープを描く長い裾には、いずれも控えめだが手の込んだ刺繍がびっしりと施されている。華美ではないがしっとりと落ち着いたそのデザインは、一目で上質と分かる絹の魅力を十二分に引き出していた。

『……あまり、見ないでください』

 淡々と……しかし先程から一切ぶれぬ視線で此方を見つめるピジョン・ブラッドに、セレナは所在なさげに呟いた。

『着慣れぬ服を着た姿を見られるのは、その……少し、恥ずかしい心地がします』

『そうですよ』

 俯くセレナの足元で相槌を打ったのは、いささか憮然とした幼い声。

 部屋の片隅に突っ立ったまま首を傾げるルスランの様子を知ってか知らでか。長い裳裾を丁寧にかがりながら、ラチェクはつっけんどんに言の葉を継いだ。

『第一、不躾です。そろそろ、いい加減にしてください!』

『不躾……とは?』

 相も変わらず平明なテノールの響きに、私民服の少女はぶすくれた顔を上げた。

『女性の支度をじろじろ見るなんて、非常識っていうことです!だいたい、儀式まであと一日しかないんですよ!?髪型や化粧を決めて、靴を合わせて扇を選んで……。やることは、それこそ山ほどあるんです!この忙しい中、邪魔しないでください!!』

『………………』

 きっぱりとした科白に圧され、ルスランが再び沈黙する。

 その幼い順応性の賜物か、図書館での邂逅以来ほぼ毎日のようにセレナの元を訪れるようになったこのまろうどに、ラチェクはもはやすっかり慣れたようだった。怯えて寄りつきもしなかったはじめの態度は何処へやら、ずけずけと物申すその様子は、出来の悪い後輩を叱る上級生のようにも見える。

 もっとも……そこに親しみがあるかどうかは、また別の話ではあるが。

『……女の支度の事はよく分からぬ。だが、細工は見事だ。ヴァイナス家の礼装か』

 じっとりとしたラチェクの視線に気づいているのか、いないのか。遠慮など欠片も持たぬ眼差しに、セレナは思わず苦笑めいた微笑を浮かべた。

『儀式には、最礼装か儀礼軍装で罷り越すのがしきたりだそうですが、私は戦の経験はありませんから。父の実家より、ヒルズ様が取り寄せて下さいました。ヴァイナスの家に受け継がれてきた衣装だそうです』

 紫丁香花ライラックと百合の意匠を散りばめたスカートを見遣り、セレナはふと翠の双眸を細めた。

『……本当に素晴らしい細工で、此方が気後れしてしまいそう。まるで、私が着られているようです』

 花紋の際をそろりと撫でた白い指は、さながら細く張った緊張の糸を紡ぐ針のようで。

 その仕草をどう捉えたのか、軽く腕を組んだ姿勢を保ったまま、ルスランはふと静かに目を細めた。

『……貴女は、時に不思議な事を言うな』

 仮面のような無表情が零したのは、心底理解しかねると言わんばかりの声の響きだった。

『その衣装を着る資格があるのは、ヴァイナスの家系に連なる女……つまり貴女だけだ。気後れなどすることなく、堂々と袖を通せばよかろうに』

 重く無骨な漆黒の軍靴が、真っ白い大理石の床を音もなく蹴る。

 僅かな間を経てセレナの前に立った長身の男は、相も変わらず冷厳とした……しかしどこか穏やかな気配を纏っていた。

『第一、その装束が貴女以上に似合う者など他にいるまい。儀式に臨むルナン貴族の誰よりも、貴女は尊く美しい』

 柔らかな陽気に溢れた部屋の中、チェロの低音のように深い声は、響き過ぎる程良く響いたに違いない。

 一瞬呆けたように瞠目したセレナの頬が、瞬きする間に薔薇の色に染まる。

 傍目にも分かるその変化を静かに映したあかい瞳が、何とも訝しげに瞬きした。

『あ、わ、わ、わたし、お茶淹れてきます!!』

 唐突に……しかし訪れるべくして訪れた静寂を遮り、ラチェクががばりと身を起こす。頭布から覗く小さな耳まで真っ赤にしながら立ち上がった少女を横目に、セレナはただひたすらに面映ゆい沈黙を保つ他なかった。

『……何かまた、余計な事を言っただろうか』

 ぱたぱたと駆け去っていく足音を伴に、ルスランがつと首を傾げる。そのあまりにも大真面目な表情に、セレナは、思わずくすりと噴き出した。

 声を殺して笑うセレナを前に、不思議そうに顰められたルスランの眉がますます寄る。

 どうにも解せないといった表情のまま立ち尽くす男と、頬を染めたまま朗らかに微笑む乙女の姿を……窓から入る午後の陽だけが、いつもと変わらぬ麗らかさで見つめていた。

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