第6章 10

 相も変わらずたどたどしいフィルナ語を繰りつつ、シネインが頭上の猛禽へゆっくりと手を遣る。

 小さな掌で鷲掴みにされた白梟が、黄色い嘴をくわりと開いた……次の瞬間。その毬めいた丸い輪郭は、まるで何かの冗談のようにぐにゃりと歪んでいた。

 空気が抜けた風船の如く萎んだ白は、瞬きする間にその形を変えてゆく。摩訶不思議な手品にも似た変容が過ぎ去った後、少女の手中には、一片の紙片だけが残されていた。

「カンタンな術で飛ばす、使い魔サヴァントネ。仲間との連絡は、いつもコレでやるノ」

 呆気にとられる青年達を映し、濃桃色の瞳がどこか得意げに瞬く。

 細い指でつまんだ紙片をハルの方へと差し出しながら、シネインはふとその声を低めた。

「……ワガ国ニ、ヒトリの貴人がご帰還された。銀と翠を纏った紫の姫は、帝の歓待を受け、ソノ宮ニご滞在の由。帝都の仲間カラの、緊急便ヨ」

「銀と翠……紫の姫――おい、そ、それって……!!」

 はっと詰まったアースの声を叩き落とした手が、小さな紙を引き千切る勢いで奪い取る。そこに書かれたごく短い走り書きを食い入るように見つめ始めたハルの貌を、奇妙なまでに冷静な濃桃色が射た。

「皇帝陛下の覚えメデタキお姫サマ。五日後の儀式デ、正式ニお披露目されるみたいよン。大方、対フィルナ戦の急先鋒ニでも祭り上げるツモリでしょうネ」

「…………!!」

 どこか恬淡たる科白に重なったのは、紙片がぐしゃりと握り潰される耳障りな音。炎のような目を剥き、唇を噛み締めたまま。ハルは、ただわなわなと身を震わせるほかなかった。

 ――いつか、エリアを繋いでほしい。フィルナもルナンも、その‘思い’は変わらないはずだから……。

 沸騰しかけた心の内で皮肉の如く木霊するのは、詠うように紡がれた柔らかな言の葉。やり場のない怒りに震える己が手を取り、大輪の花のように微笑んだ穏やかな顔。

 すぐ横で色を失くした従兄弟の顔を顧みる余裕もないまま、ハルはただきつく拳を握り締めた。

 一瞬色を失いかけたその手に、刹那、不意にしっとりとした温度が重なる。

 思いもよらぬ鮮やかさを以てハルの掌を解いたのは、セレナのものとは違う……小作りだがしっかりと節が浮いた少女の手だった。

「……狙うは、魔帝の首」

 青年が口を開くよりも早く、冷ややかな感触が手の内へと押し付けられる。薄杯に張られたボルドーを思わず見下ろした紅玉ルビーを、茶目っ気に溢れた濃桃色のウィンクが掬った。

「……そして、アナタ達のお姫サマ」

 勢いよく差し出されたもうひとつの杯を、困惑しつつもアースロックが受け取る。

 唐突な行動に戸惑いつつも沈黙を保った青年達を見遣った後、シネインは、最後に残った右手の酒杯をひょいと掲げた。

「そんなワケで……とりあえず、ヨロシク」

 真夏の太陽のような朗らかさで紡がれた口上を、冷気を含んだ葉擦れ音がさらう。四角四面の激よりもよほど迫力があるやもしれぬその言葉に、ハルは我知らず薄い笑みを浮かべていた。

 何も考えずにルナンまでやってきた自分たちも無茶だが、上には上がいるとはまさにこの事かもしれない。呆れを通り越した諦観のような念は、つい先刻脳裏を過った不穏な影を、きれいさっぱり払い飛ばしてしまっていた。

 転瞬。ふと頭を掠めたのは、いつでも余裕たっぷりに……そしてどこか悪戯めいた表情で笑っていた母と、そして妹の顔。

 彼女らと同じ磊落な輝きを、目の前の少女の中にふと見出した時……青年は、肩にかかった重さがすっかり抜けていることに気付いた。

 ――敵わねぇ、な。

 まだきょとんとしたままの従兄弟をよそに、ハルはくつくつと声を殺して口角を上げた。

 慣れない手つきで差し上げた杯は、それでも何とか様にはなったらしい。

 若干――否、相当にうろたえつつもそれに倣ったアースロックと、少し驚いたように瞠目したシネインを順繰りに一瞥しながら、ハルは幾分皮肉気な調子で言葉を紡いだ。

「……契約の証に」

『……乾杯ジェルダ!!』

 甲高く澄んだ響きを伴に、青年らと少女は一息に杯を呷る。

 反らした喉を滑るのは、芳醇な香りを纏った……しかし焼け付くように強烈な熱さ。

 痛みにも似たその感覚を、どこか晴れやかな気持ちで受け止めながら、ハルは毅然とした表情で顔を上げた。




次元の狭間より出でし光の槍エヴァライムズ闇夜の王クヴェラウスの御手より放たれ、猛り狂える原始の獣を打ち据えたり


その血潮は泉となりて、枯れ果てたるエリアを遍く富ませり


その断末魔は雷雨となりて、乾き果てたる虚空ヴァラルダを悉く潤したり


此れすなわち、麗しき我らが帝国ルナンの始原なり


~ルナン帝国建国神話集 『真月紀』より~

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