第8話 元女神さまの朝は早い
早朝5時、輝臣のスマートフォンのアラームが鳴る。
(もう朝か……)
輝臣はこの時間から起きて独自のトレーニングを行っていた。
これは幼少期からなにかと敵が多かった輝臣が自己防衛の一環として始めたものだ。
ちなみにその敵のひとりは巴なのだが、彼女は戦術ではなく戦略で制圧するタイプなのであまり効果はなかったりする。
今はもう必要ないのだけれど欠かすとどうも調子が狂うので輝臣の習慣となっていた。
「ん?」
昨日隣で寝ていたはずのシャノンの姿がなかった。
そこには気持ちよさそうに環だけ眠っている。
(あいつ、どこに――)
上体を起こしてみるとすぐに見つけることができた。
玄関横の台所と呼ぶのがはばかられる畳一畳もない小さなスペース、そこに彼女はいた。
膝立ちで両手を胸の前に組み、じっと動かない。
流し台の前の小窓から朝日が差し込み、まるでスポットライトのように彼女を照らす。
清涼な水面に映る光のようにまばゆいプラチナブロンドの長い髪も。
開花の時を待つつぼみのように閉じた瞳も。
触れたらたちまち解けて消えそうな白い肌も。
陽光に包まれた彼女はそのすべてが幻想的だった。
「………………」
その姿に輝臣は目を奪われ、しばらく声をかけることすら忘れてしまっていた。
「――あ。輝臣くん、おはようございます」
視線に気付いたからだろうか、シャノンが振り向き微笑む。
その笑顔で輝臣ははっと我に返った。
「あ、ああ」
「すみません。もしかして起こしちゃいましたか?」
「いや、俺はもともとこの時間に起きて身体を動かしてるから……」
先ほどの光景が頭から離れずどうにも歯切れが悪くなってしまう。
「そっちこそ早いじゃないか。いつから起きてたんだ」
「えーっと、一時間前くらいからですかね」
どうやら彼女は4時からもう起きていたらしい。
「お祈りをしていました」
「お祈り?」
輝臣が訝しげに尋ねる。
「はい。一日の初めに国民の皆さんのために祈りを捧げるのは『ロイヤル・レイ』の国事行為だったんです。もう神さまじゃないわたしがこれまで通りにお祈りするのも如何なものかと思ったんですが、習慣が抜けるとどうも落ち着かなくて。それにお祈りするだけなら誰にもご迷惑おかけしないしいいかなー、なんて……あ、やっぱり駄目ですかね」
身振り手振りを交えながら弁解してくるシャノン。
(国を逃れてきたって言ってたよな。それでも故郷のために祈らずにはいられない――。それって一体どんな気持ちなんだろうな……)
この真実は彼女の心の中だけにあるものだ。
それを推し量ることは輝臣には無粋なことだと思えた。
「輝臣くん? どうかしましたか」
「いや、何でもない。それよりまだ続けるのか?」
「はい。あと少しだけ」
「俺今からちょっと外走ってくるからさ。そのままで構わないから少し環を気にかけてもらってもいいか?」
「はいはい~。お安い御用です。不肖シャノン、務めさせていただきます」
輝臣はささっと準備をしてから靴を履き、玄関のドアノブを捻る。
また祈りを捧げているシャノンに横目をやるが、ここからではその小さな背中しか見えなかった。
「泣いているのか……?」
そう独り言ちる。
しかしその言葉は宙に溶け、答えもわからないままだった。
朝の習慣と言えば桐ケ谷家にもまだまだある。
そのひとつがこれである。
『みんな、あつまれ~~~~』
テレビ画面に映る、いかにもアイドル然としたフリフリの衣装に身を包む少女が大げさなジェスチャーで呼びかけてくる。
これは平日の朝にやっている子供向け情報発信番組でやっているオリジナル体操だ。
環はこの番組の大ファンで画面の向こう側にいる少女と一緒に体操を嗜むのが日課となっていた。
土日は録画していたものを見直す熱の入りようだ。
ちなみにこの体操はこのフリフリ少女が考案したものらしく、その面妖な動きとは裏腹に専門家も太鼓判を押す効果絶大だったりする。
「ほっ! ほっ! ほい!」
「おお~~~~」
環の体操、もといふしぎな踊りにシャノンが惜しみない拍手を送っている。
そんな中、輝臣は朝食の支度をすることにした。
……。
…………。
………………。
「そう言えば今後の予定はどうするんだ?」
朝食中に輝臣が尋ねる。
瞬間、先ほどまでマシンガントークで褒めちぎっていた朝食のトーストを頬張っていたシャノンが固まる。
「……っ……っ」
マグカップに入っていた牛乳で流し込み、大きく息を吐いてから輝臣へと向き直った。
「あの、も、ももも、もしかして今日のうちにでも出ていかなきゃいけない感じですか!? わたし、まだ行く当てが――」
「そうじゃない。それはまだいいって言っただろ。だけど俺は今日普通に学校だし環も保育園があるんだよ」
「“がっこう”に“ほいくえん”……?」
小首を傾げるシャノンに、輝臣は簡単に説明する。
「なるほどです。じゃあおふたりは夕方までお家を開けるってことなんですね」
そう言ったところで彼女は何かに気付いたように息を呑む。
「ではわたしはどうすれば?」
「だからそれを訊いてるんだろ」
話が振出しに戻ってしまう。
昨日は色々とあったので行き当たりばったりになってしまったが、シャノンの話によるとこちらに着いてからについては何も聞かされていなかったようだ。
「まあそこら辺については巴に後で確認してみるとして――。じゃあ今日のところは留守番してもらってていいか? 下手に出かけてトラブっても面倒くさいしな」
「は、はい。わたしとしてもそちらの方が助かります」
シャノンがほっと胸を撫で下ろしている。
彼女に提案したものの輝臣には大きな懸念事項があった。
そう、シャノンは昨日までテレビや洗濯機も知らなかったほど恐ろしく一般常識に欠けているのだ。
(果たしてひとりにしていいものなのか……? でも学校は単位が確かやばかったんだよなぁ)
頭を悩ませる輝臣。
そんな彼にシャノンが意気込んで見せた。
「だいじょうぶですよ、輝臣くんっ。これ以上ご迷惑をかけるわけにもいきませんし僭越ながらお留守番励ませていただきますっ。初めてのことで少々不安はありますがやってやれないことはなし! あとは野となれ山となれです!」
「なってたまるか」
(駄目だ、不安過ぎる。帰ったらアパートが焼け野原になってたりしたら全然笑えん)
そのとき、輝臣はふと思いつく。
「あ。そうだ。あいつに頼んでみるか」
朝食を終え、輝臣はシャノンと部屋を出た。向かった先は同じアパートのふたつとなりにある角部屋の103号室だ。
「輝臣くん。ここにも誰か住んでいるんですか?」
「まあな。出来ることならあんま頼りたくなかったんだけどなぁ。おーい、起きてるか?」
呼びかけつつも玄関ドアのわきにあるインターホンを鳴らす。
しかし、反応はない。
輝臣はもう一度鳴らしてみる。
「お留守のようですね」
「この時間に出かけてるなんてことはないはずなんだけどな。あー、あれで結構歳いってるからもしかして部屋の中でくたばっちまって――」
「誰がくたばってるって、このクソガキ!」
突然ドアが開かれ人影が飛び出す。
パカーン、と子気味の良い音とともに輝臣の後頭部に激痛が走った。
「……いるじゃねーか」
痛みからうずくまったまま、目の前の人物を見上げる。
そこには姿勢よく背筋が伸びた白髪の女性が立っていた。ほうれい線の深さから結構な歳を重ねているのは伺えるが、纏う雰囲気はそれを感じさせない。
手にはヒールの高いパンプスを片方だけ持っている。どうやらこれで輝臣の頭をはたいたようだ。
彼女の名前は江戸彼岸文子えどひがんふみこ、このアパートの住人だ。
「ふん。居留守しようと思ったのに思わず出てきちまったじゃないか」
そうぼやきつつタバコに火をつける。
文子がやってきたのは輝臣と環がこのアパートに移り住んだばかりの頃だ。
古くからの友人である祖父の義昭を訪ねてきたのだが、輝臣が先日亡くなったことを伝えると彼女はその足でアパートの一室を借りたいと申し出てきたのだ。
――「そうかい」
祖父の訃報にそう呟いただけだった、文子の複雑な表情を今でも輝臣は今でも覚えていた。
以来、彼女はこのアパートの一室を借りて暮らしている。
「言っとくけどね、今月分の家賃なんてありゃしないよ」
「そりゃ一回でも家賃払ったやつが言える台詞だけどな」
そう、文子はそれ以来アパートの一室に住み続けていた――家賃未払いで。
どう考えても立ち退き案件だ。しかし、祖父との古くからの知人であることや最初に見せたあの表情のこともあって、輝臣としては無下には出来ないでいた。
「まったく……みみっちくて嫌だね。だから若いのにハゲるんだよ」
「ハゲてねーよ! それは取り消せや、ババア!」
「誰がババアだい! あたしゃまだ69、まだギリギリおねえさんでいけるよ!」
「十分ババアだろ! マジで図々しいな!」
視線がバチバチと火花散る。
このふたりは顔を合わせるといつもこんな感じだったりする。
「おっとこんなことしてる場合じゃなかった。悪いんだけどさ、今日一日こいつのこと頼めるか?」
輝臣は肩越しに指さして見せる。
「は、初めまして。わたしシャノンと申します」
先ほどから落ち着かない様子でふたりのやりとりを見守っていたシャノンが緊張した面持ちで自己紹介した。
それを怪訝な顔して見ていた文子が輝臣へと視線を向ける。
「……? 何だい、その子は」
「あー、話せば長くなるんだけどな。てか、どこから話したらいいんだ」
輝臣は文子へと昨日の出来事を話した。
「……それにしてもあの人がねぇ」
独りごちるように言ってまたタバコに火をつける。
文子の言うあの人とはおそらく義昭のことだ。彼女が話をするときに祖父のことをそう呼ぶのを輝臣は知っていた。
「事情はわかったよ。日中この子のことを気に掛けておけばいいんだろ?」
「お。話が早いな。助かるわ」
「すみません。なるべくご迷惑おかけしないようにしますので」
「ふんっ。別に構いやしないよ。これで家賃がチャラになるなら安いもんさね」
「んなこと一言も言ってねーぞ、こら」
文子が悪魔のような笑みを浮かべる。
「あー、あたしゃババアだからね。最近耳が遠くて嫌になるね。それより早くお行きよ。環も送ってかなきゃいけないだろ」
「こいつ、普段は頑なに否定するくせに都合のいい時だけ年寄りになりやがって……。おい、この話は帰ってから改めて確認するからな」
たしかに登校までの時間も差し迫っていたのでここは切り上げるしかなかった。
「あ、輝臣くん。ちょっと待ってください。あの、それじゃあ失礼しますね」
ふたりが自分の部屋へと戻ろうとしたとき、背中から輝臣だけに聞こえるように声をかけてくる。
「ちょっとお待ち。そう言えばこのことは上の子は知っているんだろうね」
「上の子?」
文子の指先を追うようにして、輝臣はアパートの二階の部屋を見上げた。
(ああ、あいつか)
「いや、まだ知らせてないけど?」
「知らせてないってそりゃまずいだろうに……」
「は? 何でだよ」
「こういうところはあの人に似てるね、まったく。あたしゃ知らんからね」
文子がうんざりしながらため息をついていたが、輝臣にはその理由が全く見当つかなかった。
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