第7話 キスと風船
教授との待ち合わせ場所は、舞浜駅前のファストフードで、あたしはひとりでカフェラテを飲んでいた。ウィンドウ越しに家族連れや外国人観光客が楽しげに行き交っている姿が見える。
目の前がディズニーランドだから仕方ないけれど、そんな光景を眺めながら、大学時代の思い出に浸れる心の余裕は今のあたしには皆無に等しかった。
今なら引き返せる。
此の期に及んでの後ろめたさが高ぶる感情を殺している。
やはりあたしも人の子なのだ。
『浮気』を本気で楽しめるわけがない。
舞浜駅が待ち合わせ場所になったのは、教授の仕事の関係上都合が良かったからで、話題のフレンチレストランで食事をするだけの約束だった。
あたしは車で向かおうか、電車を利用しようか悩んだけれど、思い切って後者を選んでしまった。
きっとお酒も入るだろうし、車だとどんなに時間が遅くなろうが帰宅出来てしまうから。
結婚指輪はバックの中にしまい込んである。この前もそうしていたように。
あたしに芽生え始めた後悔の念は、勇気がないだけの事かも知れない。
一線を越えてしまう不安。
そして自己嫌悪。
山吹色に染まるおとぎの世界の片隅で、急に現実的になる自分がイヤになった。
その時、背後で教授の声がした。
「すみません、遅くなって。かなり待ちました?」
あたしは振り返り、笑顔で答えた。
「今来たばかりだから大丈夫」
教授は、あたしの注文した空になったカップを見て言った。
「いや、かなり待たせちゃいましたね。罪滅ぼしをします。さ、行きましょう!」
あたしは立ち上がって、教授の後を追った。
ファストフードを出て舞浜駅へ向かうものと思っていたあたしの手を、教授は半ば強引に掴んで走り出した。
あたしは驚いて。
「ちょっと、どこに行くの?」
と言ったけど、その向かう先はおとぎの国なのだと確信した。
教授は。
「早く早く」
と言いながら笑っている。
あたしは気恥ずかしさと非日常的な空間にためらいながらも、教授の手をギュッと握り返していた。
日曜日の夕刻だけあって、ディズニーランド館内は大混雑していた。
パレード目当てのゲスト達はお目当ての場所を陣取って、写真を撮ったり撮って貰ったり。普段の日常ではまずあり得ない他人との距離感を会話で楽しんでいる。
あたし達はそんな風景をよそに、というよりも、あたしは教授に手を引かれ歩いているだけなのだけど、おとぎの世界に埋没しそうになっていた。
考えみたら、結婚後に夫とディズニーランドへ来た事もあった。
だけど仕事疲れが溜まった夫は、ミッキーマウスやドナルドが近づいてくれても苦笑いをするだけで、アトラクションにはあまり乗りたがらなかった。
何でも行列がキライらしく、帰りの車の運転はいつもあたし。
だったら無理して来なければ良かったと、いつも思っていた。
あたしは教授に問いかけた。
「ねえ、パレードは見ないの?」
教授は言った。
「美咲さん見たいですか?」
あたしは迷いながら何故かはにかんでしまった。
教授は続けた。
「僕は、美咲さんと乗りたいアトラクションがあるんだけどなあ」
あたしはその子供みたいに輝く瞳に降参した。
「任せるね」
そう言うと、自然と笑顔になっていた。
『イッツアスモールワールド』
あたしと教授はボートにゆらゆら揺られながら、流れて行く世界を旅していた。
教授は人形や風景を見ながら。
「あっ、ぜったいポリネシアだ!」とか 「ペルーかな、アルゼンチン?」 等とはしゃいでいた。
あたしが隠れミッキーをドンキホーテの近くで指差すと、教授はあたしの肩に手をかけて身を乗り出した。
彼の体臭をすんなりと受け入れられた自分に驚いてしまった。
『ブルーバイユーレストラン』
パレードは始まっているけど、あたしはおとぎの世界に酔い痴れていた。
カリブの海賊を眺めながら、教授とふたりで同じ時間を共有している。
ネットの世界は嘘まみれでも、この時間はホンモノなのだ。あたしの今の心に嘘はない。
嬉しくて楽しくて、ちょっとだけ遠くから、自分を客観視しようとしているあたしもいる。
ローストビーフを食べて、温かいパンを頬張りながらスマホの写真を見せてくる教授の顔は幼い。
実家の猫の写真を自慢げに披露しながら教授は言った。
「こいつは暴れん坊で、抱かせてくれないんですよ。キスも嫌がるし、あ、でもそりゃそうですよね。僕は男だもん」
あたしは笑って。
「やだあーって言ってるんじゃない? 気持ち悪い~とか」
と言うと、教授はあたしを見ながら言った。
「さすがにこいつはキス風船攻撃させてくれないし、引っ掻いてくるし」
その摩訶不思議なワードが気になって、あたしは教授に問いかけた。
「なに? キス風船って」
「ええっ、美咲さん知らないんですかキス風船? 猫好きには有名ですよ」
「意味わかんない。キス風船?」
「今度動画を送りますよ」
「見たい見たい。早くね、気になるもん」
現実世界を完全に隔離した日曜日、ゆったりと時が流れいった。
ディズニーランドを出て、新木場にあるバーで軽く飲む事になった。
教授は終電を気にかけてはくれたけど、あたしは成り行きに任せるつもりでいた。
過去の恋愛話や好みの異性の話。
テレビの話題やドラマの話もした。
かなり久しぶりの甘いお酒はジュースみたいで、あたしはかなりハイペースで飲んでいた。
気が付けば、終電の時間はなくなっていた。
バーの近辺に、真新しいビジネスホテルがあった。
地下フロアには温泉施設があって、普段なら利用したい所だけど流石に今日はやめておいた。
部屋に入ると、あたしの心臓は爆発しそうなくらいに激しく高鳴った。
先にシャワーを浴びて、ベッドにちょこんと座る。
喉がカラカラに乾いているのとほろ酔いと、ドキドキ脈打つ身体が熱い。
そんなあたしを見透かしてか、シャワーあがりの教授は冷蔵庫からビールを取り出してくれた。
再び乾杯をしてそれを一気に飲み干す。
格別に美味しかった。
教授は。
「疲れたでしょう? 散々付き合わせちゃったかな?」
と言って頭を軽く下げる仕草をした。
「全然。めちゃめちゃ楽しかったよ、ありがとう」
とあたしが言うと、教授は嬉しそうに笑ってビールを飲み干した。
大きめのベッドに教授はゴロンと転がって。
「こうして野菜みたいに転がると、すぐに寝ちゃいそうですね」
と呟いた。
あたしはその顔を見た。
教授の頬も僅かに赤らんでいる。
「顔が赤いよ」とあたしが言うと、教授は起き上がってあたしの隣にちょこんと座った。
「美咲さんは酔ってないの?」
「あたし? うん。かなり酔っちゃったかな。暑いもん」
教授の手が、あたしの首筋に触れた、
ひんやりとして気持ちが良かった。
「ホントだ、美咲さんポカポカしてる」
そう言いながら、教授の両手はあたしの首筋から顎先に触れて、髪の毛、うなじ、頬を優しく撫でてくれた。
ゆっくりと顔が近づいてくる。
あたしは身体を強張らせた。
目を閉じる。
教授のやわらかな、まるでマシュマロみたいな唇があたしの唇に触れた。
冷たい鼻頭同士も、くすぐったいくらいに触れ合う。あたしは思わず声を漏らしてしまった。だけど身体はまだ強張っている。
ベッドにキスをしながらふたりで転がる。
まるで野菜みたいに。
部屋は暗くなっている。
教授がさりげなくそうしてくれた。
あたしに覆い被さる教授の髪の毛が耳に触れる。
教授の息遣いがかすかに聞こえる。
その声は美しかった。
あたしの唇の輪郭だけを、そっと教授の舌先が撫でてくれている。あたしは自然に唇を開いていた。
教授はあたしの唇を自分の唇で塞いで、ふっと息を吹いた。
すると、あたしのほっぺたが風船みたいに膨らんだ。
あたしは驚いて教授を見る。
教授は笑っている。
「キス風船。やっちゃった」
教授はにっこり笑っていた。
あたしもなんだか可笑しくなって笑った。
「あたしは猫じゃないよ」
「ハムスターみたいになってました」
「バカ、もうっ」
あたしの強張ったカラダとココロが溶けていく。
教授は服を脱いで、あたしの服も脱がせてくれた。
火照る身体を重ね合わせながら、ふと感じた瞬間があった。
『あたし、淋しかったのかな』
と。
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