後編 ~また二人で始めよう~
入社してからの散々な日々を話した。
研修期間なんてゼロに等しく、ぶっつけ本番で実務を任せられ、どう見ても定時までに終わらない膨大な仕事を振られ、終電間際まで働いていたら「お前の作業効率は悪い」と怒鳴られ、休日出勤しても手当は当然だが貰えず、やがて家に帰る時間も無くなって会社で生活するようになり、同僚はバタバタ倒れ、稼働する人数が減ればその分仕事が増えて寝る時間さえ無くなり、思考が回らずミスが増えて上司に怒鳴られて……。
思えば本当に散々な日々だったな。一時期は「これくらい普通だろう」と思ってた事もあったが、いやいや普通ではない。労働基準法が全く仕事してない。なんなら基本的人権さえ機能していない。社畜という名の奴隷だよ。
「……っとまあこんな感じだ。それで今日は珍しく三時間も休憩を貰えたから家に帰ろうと思ってね」
「そんな……。みっくん、そこまで……」
夏鈴ちゃんの目に溜まっていた涙はとうとう崩れてしまった。俺の為に……どこにでもいる社畜の俺なんかの為に彼女は泣いてくれている。それが嬉しくて俺も涙腺が崩壊しそうになったが、泣いてばかりでは男が廃ると思い、なんとか留まった。
「ほんと、どうしてこんな風になったんだろうなあ。学生の頃に戻りたいよ……」
「そうだね……。私も戻れるなら戻りたいな。あの頃に……」
夏鈴ちゃんは正面を向き、懐かしむように空を見上げた。俺も後に続いて視線を青空へ移す。
架線に小鳥が止まり、すぐに慌ただしく飛び去った後、猛スピードで列車が通過する。
しばらく沈黙が続いたが、やがて夏鈴ちゃんが口を開いた。
「私ね……。今の人間関係に疲れちゃったの。怒られてばっかだし理不尽な文句も言われるし……。最初は仕方無いと思って我慢したけどさ、段々我慢もできなくなって、誰も私を見てくれなくて……逃げ出したくなった」
視線は空に向けたまま、自嘲気味に笑う夏鈴ちゃん。俺はかける言葉が見つからず、ただ彼女を見つめていた。
「厳しい人ばかりでね、「お前は仕事ができない。こんなの初めてだ」なんて言われ続けたら凹むでしょ? でも中には優しい人もいたの。最初は嬉しいなって思ったけど……。私の体目的で近付いてきたと知ってからはもう気持ち悪くなって誰も信じられなくなった。……もう嫌になるよね。生きる意味が無いっていうか」
彼女の苦しい告白に俺は憤る。……なんだよそれ、最低な職場じゃねぇか。右も左も分からない新人をストレスの捌け口みたいに利用するなんて……。もっと社員を大切にしろよ。俺の会社もだけど。
「とりあえず……夏鈴ちゃんを騙した奴は許せないな。俺がぶっ飛ばしてやる」
「いやいや大丈夫だよ! もう終わったことだからさ」
「駄目だ。こういうのはキチンと蹴りをつけないと……」
「気持ちは嬉しいけど本当に平気だから。……もうあの会社には戻らないし」
こちらに視線を戻した夏鈴ちゃんは少しだけ晴れた表情をしていた。全てを投げ出して身が軽くなったような……。そんな様子に思えた。
「会社、辞めたのか」
「うーん……。辞めてはいないんだけど、どうせ死ぬからと思って今日は無断欠勤したの。えへへ、私ったら悪い子だね」
悪戯げに笑う夏鈴ちゃんだが……。「どうせ死ぬ」という言葉が俺の心には強く刺さった。
こんなにも優しくて、頑張り屋さんで、俺の大好きな初恋の子をここまで陥れた奴らは本当に許せない。地獄の苦しみを一人づつ丁寧に味わせたい気分だ。
「じゃあ……。これからどうするんだ? 会社は辞めた方が良いと思うけど」
「うん。待っててもどうせクビになるだけだし、私の人生は既にリセットされてるんだよね。あーあ。もう全部投げ捨ててやり直したいなぁ……」
「やり直し、か……」
俺にもやり直しはできるのだろうか。窮屈な社畜生活を抜け出して、良くも悪くも何も持たない自分に戻ってまた振り出しからやり直す……。
うん、悪くは無いな。
「なあ、夏鈴ちゃん。もし……もし良かったらなんだけどさ……」
「うん……?」
「その……やり直すなら
「みっくん……!」
言ってて恥ずかしくなる。ただ、俺は夏鈴ちゃんともう一度やり直したかった。やり直しというより、続けたいの方が適切だろうか。まあどちらでもいいけど、とにかく俺は夏鈴ちゃんの彼氏としてそばに居たかった。
「どうかな? 嫌なら無理強いはしないけど――」
「嫌な訳ないじゃん! やり直そう、あの頃から。また一緒にいよう……?」
夏鈴ちゃんはこちらに詰め寄り、あざといくらいの上目遣いで頼み込んでくる。
俺はすぐさま抱き締めたい衝動に駆られたが、まだ話は続けたいと思った。落ち着け俺の理性。ゆっくりでいいんだ。夏鈴ちゃんはきっとどこにも逃げないから……。
「ありがとう。じゃあ……早速だけど今からデートしないか? 二人の人生リセット記念ってことで」
「うん、行こうデートしよう! あ、でも……。みっくんは大丈夫なの? 凄く疲れてるんじゃ……」
「いやいや、今の夏鈴ちゃんを置いて休む訳にはいかないって。それに疲れもすっかり吹っ飛んだし」
実際、今の俺に疲れは感じていなかった。とにかく夏鈴ちゃんのそばに居たい。遊びたいという欲求が己の最優先事項として動いているのだろう。今なら三日でも四日でも徹夜できる気がした。
「じゃあお言葉に甘えて……。でもどこに行こっか」
「そうだな……。夏鈴ちゃんは行きたい所ある?」
「私はみっくんと一緒ならどこでもいいよ!」
「おう……」
嬉しい返事を即答する夏鈴ちゃんが愛おしいが……どこでもいいと言われても困るなぁ。デートっぽい場所といえば……。
「じゃあ……映画館とか?」
「いいね! 最近の恋愛映画って何が人気なのかな……」
「……水族館は?」
「いいと思う! カワウソとか見てみたいなぁ」
「プラネタリウムとか」
「素敵! 暗い中、手を繋ぎながら……ふふ」
「………………ホテル」
「だ、大胆!? でもみっくんが言うなら……私は大丈夫だよ……?」
やべぇ、全然決まる気がしねぇ。何言っても全肯定してくれるじゃないか。もうこうなったらマジでホテル直行しちゃうぞ。
「夏鈴ちゃんと遊ぶなら俺もどこでもいいんだけど……良い場所ないかなぁ」
「そうだねえ……。じゃあ…………こういうのはどう?」
言いながら、夏鈴ちゃんはピースサインを向けてくる。
……そういえば彼女は妙なアイデアが浮かんだ時、昔からこんな仕草をしてたっけ。何故ピースをするのか分からないが、きっと癖なのだろう。懐かしいなあ……。
「今までみっくんとしてきたデートを再現する……とか! なんか面白そうじゃない?」
「再現か……。といってもあの頃は確か……」
「駄菓子屋行ったり、公園でヒーローごっこしたり……」
「タコ糸に虫を吊るして釣りなんかもしたよな」
「えへへ、みっくんは全然釣れてなかったけどね」
茶目っ気溢れる笑顔の夏鈴ちゃんが可愛らしい。……それにしても彼女と話すとどんどん記憶が蘇ってくる。
一緒に遊んでいる時はいつでも楽しかった。
お互い笑いあって、時には驚いたり、小学生らしい無茶をして怪我をしたりした事もあったけれど、隣に夏鈴ちゃんがいるだけで俺は幸せだった。俺の初恋の相手が彼女で本当に良かったと思う。
そして社会人になった今、彼女と再びあの恋の続きができるのだ。大人に成長したけれど、恋は小学生止まり。ならば十年の時を跨いだデートは子供らしくても良いのかもしれない。
「……やってみるか。ガキっぽいデート」
「うんっ! 私水あめ食べたいなー。あれ好きだったんだよね」
足をパタパタ動かして無邪気に笑う夏鈴ちゃんは当時を思い出させる幼さがあり、着ているスーツが良い意味で似合っていない。
「ってか駄菓子屋って東京にあるのか? 今から田舎まで行くと結構時間がかかるけど……」
「うーん、でも意外と都会にもあるって聞くけどね。まあ調べながらゆっくり行こうよ」
「だな。じゃあ取り敢えず駅から出て……」
ベンチから立ち上がろうとすると夏鈴ちゃんに「待って」と呼び止められた。そして何故か彼女は恥ずかしそうに微笑んでいる。まだここで話していたいとか、そんな可愛い事を言ってくれるのだろうか。
「ちょっと顔借りるね……」
突然どうしたのだろうか、と不思議に思う俺をよそに夏鈴ちゃんの小さな顔が一段と近付き――
「っ……!?」
唇が重なった。暖かくて優しい感触……。あまりの不意討ちに俺の脈打つ鼓動は慌ただしく踊り出した。
「えへへ……。久しぶりのキスはドキドキ……するね」
うわああああ俺の彼女可愛すぎだろおおおお。今すぐホテルに連れ込んでやろうかああああ!!!!
せっかく人が理性を抑え込んでいるというのに、この子はそれをぶち壊そうとしてきて……。
だけどそれでも憎めない。むしろウェルカム!
「む、昔と違うんだぞ……。いきなりそんな事したら俺は……」
「分かってますよーだ。でもみっくんは冷静に判断できる子だし、公衆の面前で破廉恥な事をする度胸もないでしょ?」
「……夏鈴ちゃんは手強いな。全部お見通しって訳か」
「もちろん。何年みっくんの彼女をやってたと思ってるの!」
なんだこの長年連れ添った本妻感は。嬉しいけど実際に付き合ったのは一年足らずだったんだぞ。
でも……夏鈴ちゃんは本当に身内と呼べる程に俺の思考性格を熟知してるよな。昔から変わらない俺も俺だが、いつまでも行動を読まれるのは癪だ。
たまには俺だって……。
「夏鈴ちゃん、俺も大人だ。少しくらい変わった所もあるさ」
「え……?」
相手から仕掛けられたらし返すのが定石ってものだろう。かつてのヒーローごっこのように、
「夏鈴ちゃん……君の事が大好きだ。ずっと俺のそばにいてほしい」
顔を近づけて、最後に彼女の潤んだ唇に自分のそれをそっと重ねた。
「……み、みみみみみみみみっ!?」
夏鈴ちゃんは心配になるくらい顔を赤くさせながら口を震わせていた。さっきは自分から仕掛けた癖に俺からキスしただけでこんなに照れるなんて……純情過ぎるだろ可愛すぎかよ。
「あ、あれぇ……? 私やっぱり死んじゃったのかな? 天国でもなければこんなの有り得ないよ……」
「だから俺まで殺すなって。ここは現実だ。なんなら……もう一度やって確かめるか?」
「い、いやいやいや大丈夫です間に合ってます。これ以上されたら……本当に死んじゃいそう……」
若干焦りの表情も見せる夏鈴ちゃん。反応が可愛くてつい調子に乗ってしまったが、そろそろ控えておくか。彼女に言われた通り冷静な判断をしないと。
「それで…………返事を聞かせてくれないか?」
「あ、うん。ずっとそばにって事は……プ、プロポーズと受け取ってもいいのかな!?」
「……任せる。まあ、その時が来たら改めてするけど」
「ほほう。じゃあ……」
夏鈴ちゃんは目を瞑って自身に言い聞かせるように小さく頷く。
――その先に続く言葉は分かりきっている。予定調和って奴だ。だがそれでも俺は緊張して背筋を伸ばしてしまう。
今から……十年の時を超えて再会した初恋の女の子と共に人生を
そう、今から……。
「私もみっくんの事が大好き……世界で一番愛してる。ずっと会えなかったけど、これからはずっとずーっと……貴方のそばにいます」
嬉しくて目に涙を溜めて答える俺の彼女。
もう「死にたい」だなんて思わせない。辛い思いなんてさせない。俺が夏鈴ちゃんを守る。
そして……二人で一緒に幸せを掴むんだ!
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