中編 ~変わらぬ彼女の慈愛と母性~
目の前を何本もの列車が通り過ぎた。夏鈴ちゃんの瞳からはメイクの落ちた跡が川の流れの如く残っており、人前では見せられないような姿になっていた。しかしそれでも愛おしく映ってしまうのは彼女の群を抜いた可憐さからなのか、それとも恋焦がれていた相手だからなのか……。
俺達はベンチに並んで座っていた。予定ではもう家に帰って爆睡している頃だろうけど、そんな些細な事はどうでもいい。眠気もすっかり吹っ飛んだし、何より今は
「…………いい天気ですね」
彼女はわざとらしく低い声で挨拶する。段々と昔を思い出させる陽気さが戻ってきたが、ついさっき俺がしでかした失言を再現するのはやめてくれ。恥ずかしいから。
「あれは寝ぼけて言っただけだからな? もう忘れてくれ……」
「ふふ、でも私を止める為に考えてくれたんでしょ?」
「まあな……」
意図は完全に理解してくれていたようだが、笑顔で答える夏鈴ちゃんが妙に儚げに見えて……。またしても抱き締めたい衝動に駆られた。
「ありがと、ほんとに。みっくんは昔から優しくて正義のヒーローだよね」
「ん、ヒーローごっこの話をしてるのか? あれは夏鈴ちゃんが敵役ばかりやりたがるから俺は仕方なくだな……」
「えへへ、そうだっけ? でもよく遊んだよね。こんな感じで……」
ていやぁ、と両手で俺の肩をつついてくる。待って凄く可愛いんだけど……。スーツ姿で子供みたいなスキンシップをとられるとギャップで可愛さも増している気がするな。
「じゃあ俺も……。こら、悪さをするのはそこまでだ」
「うぎぎぃ……!」
眼下にある頭を鷲掴みすると、敵役の夏鈴ちゃんはダメージを受ける演技で答えた。
ああ懐かしい。楽しかった思い出がどんどん蘇ってくる。心が段々と若返っていくようだ。
「みっくんの手……大きいね。しかもがっしりしてて……なんか大人って感じ」
「まあ、もう二十二歳だからな」
「だね。……でもさ。みっくんは全然変わらないなって思ったよ。一目見てすぐに気付いたし」
それは……俺が小学生から何も成長していないということなのだろうか。身長も平均ぐらいには伸びたし顔立ちもかなり変わったと思うけど……。
「逆に俺は夏鈴ちゃんだって全然気付かなかったよ。すっごい可愛いOLさんだな、とかそんな事思ってた」
「そ、そんな可愛いなんて……」
「いやほんと可愛い。もちろんあの頃も可愛かったけど、今は別次元というか、変わりまくってて驚いたよ」
「もうみっくんてば……。照れるじゃん」
ぶっきらぼうに言って視線を逸らす夏鈴ちゃん。めっちゃ照れてる。可愛い。
「彼氏さんが羨ましいよなぁ。彼女が夏鈴ちゃんだったら絶対毎日楽しいし」
「え…………」
夏鈴ちゃんのような超美人可憐OLなら彼氏の一人や二人いてもおかしくない、寧ろ居ない方がおかしいだろう。ああ、
ところが、夏鈴ちゃんの反応は予想と違っていた。遠目になりながら、どこか寂しい表情をしていた。
「……そんな事を言ってくれるのはみっくんだけだよ。彼氏なんている訳ないし、なんなら私に味方なんて誰も――」
そうだった。夏鈴ちゃんはついさっきまで自らの身を投げ捨てようとしていたじゃないか。そこまで追い込まれていたにも関わらず、彼氏がいるだとか身の程知らずな発言をして……。馬鹿かよ俺は。
「ごめん。無神経だったな」
「大丈夫。謝らなくていいよ。それに、私にもし彼氏がいたら浮気になっちゃうじゃん」
「浮気……どうして?」
「だってさ……。私達まだ別れてないでしょ。「付き合うのやめるっ!」なんて言った覚えないし」
記憶を遡って思い出してみる。夏鈴ちゃんが転校したのは突然で、かつ恋人としては最高潮のラブラブしまくっていた時だった。確かに別れようとは言ってないはずだし、「離れてもずっと恋人だよ」ぐらいのノリだったと思うが、流石に十年以上経てば時効になる……よな?
「そうかもしれないけど……」
「ふふ、冗談だよ冗談。…………半分だけ」
ニヤリと意味ありげな笑みを浮かべた夏鈴ちゃんは上目遣いでこちらを見つめる。なんだこの小悪魔チックな応対は。勘違いしそうになるじゃないか……。
「でも……。私の事は気にしないで平気だから。みっくん絶対モテるし、じゃんじゃん彼女を作りたまえよ」
「……そんな楽に彼女ができたら俺も苦労しないけどなあ」
「またまたぁ。みっくんのそういう優しい所は好きだけど、別に隠さなくてもいいんだよ?」
いや本当にモテないんだけどね。こんな事を言ってくれるのは夏鈴ちゃんだけだよ……。
「……ブラック企業に勤める低賃金社畜なんて誰も好きにならないだろ」
吐き捨てるように呟く。
どうしてこうなってしまったのか。子供の頃に思い描いていた大人のビジョンは
コツコツとお金を貯めて休日は恋人とデート……なんて出来るはずが無く、一日のほぼ全ては仕事。休日なんてゼロに等しい。そんな遊ぶ余裕さえ無い野郎を好きになる人なんて余程の物好きしかいないはずだ。
「みっくん…………大丈夫?」
「あぁ、ごめん……。気を悪くしちゃったよな」
つい自虐的になってしまったが、今の夏鈴ちゃんの前で言うべき内容じゃなかったよな。俺の辛さなんて彼女と比べればミジンコ以下だろう。
「そんなことないよ。ねぇ……。みっくん、お仕事辛いの?」
「うっ……。ま、まあな……」
しかし、夏鈴ちゃんは心の底から心配するかのように眉を下げて俺の顔を覗き込んだ。なんだこの溢れる母性は……。ヤバい、ちょっと泣きそう。辛いのは夏鈴ちゃんの方なのに……。
「私で良ければ何でも話してみて? 愚痴は溜めずに吐いた方が楽になるよ」
「いや、俺は全然平気だから。まだ大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ! 今も疲れてるんだよね? 顔見ればすぐに分かるよ……」
流石に何日も寝ていないと見た目ですぐにバレるか……。しかし夏鈴ちゃんは俺よりも自分の心配をしてほしい。人に尽くすタイプなのは知ってるけど、無理して自分を壊したら元も子も無いからな。
「今俺が話しても夏鈴ちゃんが悲しむだけだよ」
「違う、むしろ逆だよ……。みっくんが辛いと私も辛いの」
「でもな……」
「嫌なら話さなくても良いよ。だけど……。今のみっくんの事、私全然知らないし、それって凄く……寂しいなって思うんだよね」
夏鈴ちゃんの表情を見ると……決して建前なんかじゃなくて本音で俺に問い掛けているのが分かった。この子はいつもどんな時でも自分を後回しにするんだよな。昔から変わらない……俺の大好きな夏鈴ちゃんのままだ。
「……分かった。言うよ、今までの事。大したことじゃないけど……」
本来なら俺が彼女をリードするべきなのだろうけど……。残念ながら俺の社畜ぶりを見透かされてしまったので、夏鈴ちゃんの気持ちに応える為にも重い口を開くことにする。
「うん、話して……」
彼女の少々潤んだ瞳はこちらを強くしっかりと捕らえていた。
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