死人の夕(しびとのゆう)

林海

第1話 死人の夕


 私は、身体が丈夫なほうではなかった。数ヵ月に一度は四十度近い熱が出て職場を休んだ。自分の身体が歯がゆくて仕方がなかった。ただ……、だんだん発熱の間隔が短くなり、その度合が酷くなるのが心配だった。


 病院に行かなかった訳ではない。むしろ、不安から、また妻が勤めていることから、よく行ったといっていい。医者は、「風邪ですね」と、ただ言ったのみで私の不安を打ち消した。

 その顔には、心配する私を神経質だと笑う蔑みがあった。

 ただ、発熱のみで咳や喉の痛みが全くない、という症状が続きすぎることについての説明なぞ、全くしてはくれなかったのだ。


 その日も、私は発熱をしていた。身体が重く、だるい。

 健康なときには軽く動く身体が、ギシギシときしむ出来損ないの木人形、否、鉛か何かでできたもののようだった。

 普段の発熱より一層酷く、目の前のものがぐらぐらと揺れる。足も身体を支え切れず、気を抜くと膝で立っているといった状態だった。


 それでも、その日は休めなかった。田舎の三流会社で、田んぼの真ん中にあるような会社でも、年に何回かはお得意様との外せないイベントがある。情報交換を主とした会議と、その後の会食。経費節減を言われている折で、会食なぞ滅多にないことだが、それだけ相手が重要だということであった。


 私は、解熱剤を飲み込むと、重い頭を枕から持ち上げた。看護師の妻はすでに仕事に出ていた。妻の方が職場が遠いからだ。妻も、私の発熱に慣れてしまっていた。

 おぼつかない手で何とかネクタイを締め、車を転がす。10分ほどでようよう会社の駐車場に着いた。


 今年は暑く、夏の熱い空気は、私の吐き出す息よりもすでに熱かった。

 まだ穂の出ていない田に面したところに車を停め、50メートル程歩いて社屋に入る。

 すでに会議の準備は整っていた。奥まった席にやっとの思いで身体を滑りこませ、座り込んだときには安堵のため息が出た。

 様子を見かねたか、同じ課のOLがお茶を入れてくれた。普段なら自分で入れるのだが、とてもその体力、気力がない。


 そのお茶をすすっていると、会議の相手がやってきた。

 こちらからは、私以外にもう1名、専務が出た。

 少し禿げているものの、なかなかの男前といってよく、ジェイソン・ステイ○ムの風がある。仕事ができ、人望もある。この会社が持っているのは、この人の力によるところが多い。

 私も、会社のなかでは、マシの方だと自負していたものの、ここ数年の体調のせいで、自信がない。


 会議の相手は、4社。1社1名で4人来ている。仕入先が2社、お得意様が2社である。

 我が社は、コンピュータのシステムを構築して売るベンチャー企業だ。ただし、プログラミングの方より、それと一緒に売るコンピュータの方に重点を置いていた。しかし、パソコンの安売り戦争のあおりを食って、経営は厳しい。

 秋葉原にあった大手のように潰れずに済んだのは、システムを売るという建て前があったお陰だった。そちらの方で何とか採算を合わせることができたのだ。

 さらに言えば、地方で経費が掛からないということもあろう。ソフトは、回線さえあけば、どんなところでも商売ができる。

 また、早めにスマホへの対応を進めていたのも効いている。


 情報交換は熱心に行なわれた。この業界の移り変わりの速さは、尋常ではないからだ。

 私も白熱した議論に、一時発熱と身体の重さを忘れた。あっという間に時間は過ぎ、時計の針は両方とも真上を指した。


 わざわざ隣の市の料亭から取り寄せた、豪華な会席弁当が運ばれた。OLがお茶を置いて行く。


 その時だった。

 「どうしたんですか、その手は」

 向かいに座っていた仕入先の男が聞いた。私は言われて始めて自分の手の平のテーブルに接している部分が赤黒くなっているのに気がついた。良く見ようと手を持ち上げると、汗ばんだ手に書類が付いてきてしまった。私は、笑いながら左手でそれを剥がした。


 ぎょっとした。

 手のみならず、上腕まで、テーブルに接していた面が痣のようになっている。それどころか、私は自分の肌の色が臘のように青白くなっていることに気が付いた。

 「どうしたんでしょうね、まあ、大したことじゃない、それより、お食べ下さい」

 私は愛想笑いをしながら、そう言った。横の専務も、注意をそらすように弁当の大きな蓋をあけた。一万円近くしただけあって、さすがに美しく盛り付けられた会席弁当に、皆の注意が引き付けられる。


 「いや、旨そうですな」

 取引先の声を皮きりに、食事が始まった。私も不安を打ち消そうと、笑いながら弁当の蓋をあけた。熱が下がったのだろうか。身体は重いものの、火照りは失せていた。冷房に当たっていたせいか、冷えてきた気すらする。

 割箸を割り、海老を口に運ぶ。

 味はしなかった。それどころか、喉から顎にかけて変な強張りがあって、飲み込むことができない。海老を噛み続けながら、どうしたものかと私は迷った。他の人は、すでに半分近くを食べている。


 ふと、箸を持った手に視線が行き、私は声をあげるところだった。痣の位置が変わっているのである。先ほどの手のひらにあった痣は嘘のように消え、手の小指側、いや、箸を持っているときに下側になっている部分に移動している。私は、廻りからそれが見えないように気を使わねばならなかった。


 妙に、ゲップが出る。

 口を抑え、なんとか食事をしようとする。

 さらに、その時……、横の専務が食べるのをやめた。上を向いている。その時……、私は気がついた。臭っているのだ。わたし自身が。

 テーブルの向かいに座っている相手も、臭いに気が付いた。私は立ち上がった。


 「失礼します」

 私は早口にそう言うと、足早にその場を離れた。会釈するOL達を無視して私は社屋を離れた。

 私は、事の異常さに気がついていた。私の身体から臭っていたのは、紛れもなく不快な酸っぱいにおい、……腐敗臭だったのだ。


 私は、社屋を離れた。

 口の中に残っていた海老を吐き出し、駐車場に向かって歩く。

 私は蛇が嫌いだ。だから、普段は田に接した歩道を避け、車道を歩く。車など通らないから構わないのだ。しかし、身体が動かない。あちこちに強張りがある。蛇がでないように祈りながら、一歩でも歩く距離を縮めようと歩道を歩いた。


 自分の車が見えた。その時私は呆気なく転んだ。足も思うように動かないのだ。じりじりと夏の太陽に照らされ、私は焦った。すでに駐車場のなかである。車のあいだに倒れた私は、会社からは見えない。このまま退社時刻まで倒れていなければならないのか。


 それ以上に私を怯えさせたのは……。さらに腐ってしまうということだった。痣といい、腐敗臭といい……、身体の強張りといい……、死斑、死後硬直、屍臭そんな言葉が頭をぐるぐる回る。。

 私の身体はすでに死んでしまっており、私は、この身体に閉じ込められているのではないか?

 一般的に死後硬直は、喉や顎から始まる。気温が高いほど進行は早い。手足の末端は一番後になる。死後硬直の後に残るのは、腐敗だけである。

 そんなことが頭の中を駆け巡った。


 しかし、倒れ続けていなければならないという、私の心配だけは杞憂に終わった。いつも田を見回っているお婆さんが、私が倒れるのを見ていたのだ。

 私は、彼女に必死で取り繕いながら、車に乗せて貰うことができた。農作業をしているだけあって、力があって私の体重を苦にせずに運んでくれたのだ。


 私は強張る舌で礼を言い、車のエンジンをかけた。

 カー・クーラーの冷たい風が顔に当たると、ほっとした。

 強張りは、すでに全身に達していた。手と足先はかろうじて動いた。私は、車を出した。


 自宅には、誰もいないことがはっきりしていたので、私は実家に向かった。母がいるはずだった。距離も近い。

 5分と掛からず、着くことができた。私は、最大の努力で車を降りた。回らぬ舌で、母を呼ぶ。


 母は一目で私の異常に気がついたようだった。

 「お母さん、もうだめだ。俺は、俺の身体は死んじゃった」

 私は、強張る舌で必死でそう言った。もう、たどたどしくしか話せないのだ。

 「医者に行っても駄目だ。死んじゃったんだ」

 母もそれは判ったらしい。

 夏の暑さのためか、すでに、腐敗臭というより死臭が濃く、死斑は全身に現われ始めていた。


 母は妻の職場へ電話をかけた。しかし、手術室に入っているということで、連絡がとれなかった。できたのは、終わったら連絡をくれと頼むことだけだった。


 「なにか、欲しいものはあるかい」

 母が聞いた。母は、取り乱さないように、必死の努力をしていた。母の思いが、痛いほどに私には判った。

 「松本へ連れて行って欲しい。もう一度だけでいい、日本アルプスが見たい」

 私は、思いきり甘えた。私以上に病弱な母に、半日近くものドライブをさせるのは酷なことだった。しかし、私は頼んだ。


 母は頷くと、服を何重にも着た。そして、私を車の助手席に乗せた。非力な母のどこに、こんな力があったのかと思うほどの力だった。

 カー・クーラーを全開にし、近くのコンビニでありったけの氷を買い、私を覆う。母が服を着た訳が、私にはその時になってやっと判った。


 すでに時計の針は、2時半を回っていた。コンビニの駐車場で妻の職場にもう一度電話をかけたが、手術は終わっていなかった。

 妻が重病人の手術補助をしている以上、これ以上の連絡は諦めざるを得なかった。夕べ、妻の買う新車の話をしたのが、最後の会話になってしまった。


 車は、国道を走りだした。

 「お母さん、もし、このままの状態が続くようなら、埋めちゃってくれ。意識のあるまま解剖されたり、ゾンビみたいに生き続けるのは嫌だ。埋められれば、土に帰ると思う」

 母は無言で頷いた。

 母は不思議なほどに、なにも言わなかった。


 横川で、方向指示器を出す母を止めた。

 母は、免許をとってこのかた、一度も高速道路を運転したことがない。

 母を事故死させるわけにはいかない。

 私が数時間、耐えればいいだけの話だ。このまま、国道を走るように頼む。


 車にゆられている私を、眠気が襲った。猛烈な眠気だった。私は耐えた。きっと、これで眠ったら、人並みの死が訪れてくれるのだろうと思った。しかし、必死の顔つきで車の運転をしている母の横顔を見ると、寝る訳にはいかなかった。

 寝たら、松本に着く前に私が死んでしまったら、母はより辛いはずだった。



 腹の上の氷が溶け切る頃、車は三才山峠を越え、松本盆地に入った。

 「お母さん。市内に降りないで、美鈴湖の方に行って」

 私は頼んだ。美鈴湖の手前に、日本アルプスが一番良く見ることができるポイントがあるのだ。

 美ヶ原に登るのは、時間が掛かりすぎた。すでに太陽は傾き、山の際との距離もそうない。


 山道を登り続けて、10分後。

 程良い空き地が見つかった。一面に短い草が生え、夕日が日本アルプスに沈もうとしていた。

 母は、私を車から引きずり降ろした。

 私は足を投げ出して草原に座った。母は私の左隣りで膝を着いていた。不意に私の目から涙がこぼれた。

 ただただ、日本アルプスは美しかった。


 昔、父の言っていたことを思い出した。人が死んでも、一日は髭が伸び続けるのだという。身体の全ての細胞が死ぬまでには、そのくらい掛かるらしい。

 私の涙腺も、まだ死んではいなかったようだった。

 もう、なにも考えることができなくなった。


 夕日が沈み切った。

 母が私の頭を抱いた。

 母の涙が頭に落ちるのを感じた。

 涼しい風がアルプスから松本盆地を渡って吹き寄せてきた。このまま眠りに落ちたら死ねるのだと、私は理由もなくそう信じていた。

 様と形が揃えば、そこに落ち着くものだ。



 それは、たぶん声にもならなかったろう。

 でも、私はそれを母のために、最後の呼気に乗せた。

 「おやすみなさ……い……」

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死人の夕(しびとのゆう) 林海 @komirin

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