第51話 奇妙な空間と許されざる怪物

 鋼鉄蟹スティールクラブを撃破してから、俺達は階段を三つ下った。

 広がる森林のような階層では魔獣ザグナルと遭遇し、湿気た廃墟のような階層では彷徨う左手レフティハンドに襲われた。

 いずれも、俺達が……『クローバー』が冒険の途中で相対した魔物である。

 推測するに、レインの記憶を以て俺が迷宮ダンジョンにバイアスをかけたために起きた現象だと思われる。


 そして、現在地下四階層。

 この場所は、これまでとはどうも雰囲気が違っていた。


 周囲には円柱が立ち並び、真暗で先は見通せない。

 頭上には歪んだ星空が広がっており、張り詰めたように冷えた空気はどこか『透明な闇』の中にいるような感覚を覚えさせた。


 おそらく、もう目的地は近い。

 あと一つか、二つ……階段を降りれば、俺達は『深淵の扉アビスゲート』へたどり着けるだろうという、確信じみた予感がある。


「お兄ちゃん、気をつけて」


 そばを歩くニーベルンが、心配そうに俺を見上げる。

 彼女の渡り歩く者ウォーカーズとしての感覚は俺よりもずっと優れている。

 次元を渡る者としての経験は、彼女の方が深いから。


「ああ。この気配はよくないな」

「あの場所みたいには、安定していない。それに、別の世界が流れ込んでいるのも感じるの」

「……と、言う事だ。みんなこれまで以上に警戒を密にしてくれ」


 俺の言葉に、各々が頷く。


「しかし、遅いな……」

「そろそろ戻って来てもいいころなのですが。何かあったのでしょうか」


 緊張した様子で耳を小さく動かしながら、シルクが闇の奥に視線を向ける。

 その先には、先行警戒に出たネネがいるはずなのだ。

 少し前に出たまま彼女が戻ってこないという事実は、この空間の異様さも相まって不安さを増させる。


「〝存在証痕スティグマタ〟の力を使って、少し探ってみるよ」

「わかりました。無理はしないでくださいね?」

「ほどほどにするさ」


 シルクに頷いて、俺は『ペルセポネの祝福』を操るべく精神を集中させる。

 どうにもここは、不愉快な気配が強い。


「なんか、怖い。どうしよう、みんないるのに、離れてく感じがする……!」


 俺の探査が始まった直後。

 黒刀の柄に手を添えたまま、マリナが落ち着かなさげに周囲に首を巡らす。

 こういう時のマリナのセンスは侮れない。

存在証痕スティグマタ〟の有無にかかわらず、彼女自身の敏感な危機察知能力は本能的で──ひどく正確だ。


「……──あ」


 ニーベルンがそう声をあげた瞬間、

 そう表現するしかない感覚が俺達を襲い、あっという間に飲み込まれた。


「なっ……ッ」


 〝存在証痕スティグマタ〟のコントロールにかかりきりだった俺は、一気に虚を突かれる。

 まず浮遊感が一瞬あり、即座に落下するような感覚へと変化した。

 その後は、きりもみにされるような感覚が数秒続き、俺はなすすべなく地面に打ちつけられる。


「ぐぅ……みんな、無事か?」


 痛みをこらえて起き上がり周囲を見回すも、仲間たちの姿はない。

 まさか、転移罠テレポーターの類いだろうか。

 そうだとすれば、この分断はかなりまずい。


「……!」


 暗闇の向こうに何かの気配を感じて、俺は焦った思考を何とか落ち着かせる。

 仲間であればいいが、どうもそんな気配ではない。

 その足音は、ゆっくりとしているが深く踏みしめるような重低音で、鎧をつけたマリナであっても、そのような音を響かせない。


 無詠唱で以て周囲に〈灯りライト〉の魔法を放つ。

 ネネのように夜目が利くわけではないのだから、視界の確保は必須だ。


 だが、それは悪手だったかもしれない。

 〈灯りライト〉の青白い光が暗闇の中から浮かび上がらせたのは、何とも奇妙な生物だった。


 大きさはそれほどでもない。ボルグルほどだ。

 だが、その見た目は常軌を逸した気味悪さがあった。

 ざんばら髪な体毛が上部に生えた巨大な卵に似た体躯に、枯れ木のごとき細い手足が生えたような見た目の怪物がゆっくりとこちらに歩いてくる。

 中央に大きく裂けた口から漏れる粗い息遣いは白い吐息と共に不快な臭いを放ち、体にびっしりとある疣贅イボからは膿と血が滲んでいた。


「ゥクゥィッ!!!!」


 俺を知覚したらしい怪物が、ゆっくりとこっちへと向かってくる。

 距離を測っているのか、見た目よりも狡猾なのかは不明だが、俺はゆっくりと青い細剣レイピアを引き抜いて構えた。


「く、くるな……!」


 多くの魔物モンスターに相対してきたし、時には返り血を浴びることもあったが、この魔物モンスターから放たれる生理的嫌悪感は、俺を後退らせるに十分だった。

 不快なんてものではない。これがいる場所に転移させること自体が罠の本懐だったと思わせられるくらいに気持ちが悪い。


「ゥブォジァドナチスゥォヅクィ!!!!」


 突然強烈な叫び声をあげて向かってくる怪物。

 幸いなことにそう素早い動きではなく、俺は背後に飛び退って伸びる手を避けることができた。

 腐臭じみた息を鼻がかぎ取り、喉の奥から吐き気がのぼってくる。


「ゥクゥィッ!!!!」


 なおも怪物は俺を掴まんと距離を詰めてくる。

 あれにつかまれれば、あの大きな口の餌食だ。

 それ以前に、接触される不快感に耐えられる気がしない。


「一体何なんだ、こいつは……ッ!」


 俺という人間は知識というものが好きな人種だ。

 見たこともない魔物モンスターを見れば、普通は知的好奇心をある程度くすぐられるものだが、この怪物にはまるでそれが湧かない。

 嫌悪感と不快感、そして警戒心だけが俺の心をひどく刺激する。

 今すぐこれを始末しなくてはならないという気持ちが、強く存在するのだ。


「ォニァナラカヲャヅコブッ!!!!」


 動きを止めた魔物が再び金切り声を上げる。

 耳鳴りを起こすような高音に、耳の奥と頭が痛んで膝をつきそうになる。

 だが、動きを止めたならチャンスだ。


 さらに跳び退って距離を取り、俺はいくつかの魔法を無詠唱のうちに準備する。

 まずは行動阻害をかけて、こちらに有利な状況を作らなくては。

 得物を抜きはしたものの、正直アレに近寄ることはしたくない。


 そう考えた俺は、目の前の怪物に容赦なく悪疫たる弱体魔法を撃ち込んだ。

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