第15話 終わりゆく奸雄
15―1 李克用の陣営
朱全忠は、昭宣帝即位の天祐元年(九〇四年)、自軍を滄州攻撃に向けている。滄州節度使は、劉守文という男であった。守文の父は、盧龍軍節度使の劉任恭といい、李克用によって引き立てられた男であった。しかし、朱全忠と、朱全忠に対抗して晋王を名乗った李克用の間の対立を巧みに利用し、なかなか、李克用の言いなりにはならない男であった。
朱全忠の滄州攻撃の際、劉任恭は李克用に救援を求めたものの、ご都合主義とも言える劉任恭の言動に立腹した李克用は、要請を断ろうとした。それを諌めたのが、息子の李存勗である。
確かに、劉任恭の態度はご都合主義ではある。しかし、今、我が晋が劉任恭と組めば、朱全忠に対抗しやすくなる。ここは、小事を捨て、大事に付くべし、と主張したのである。
この言葉を聞いた李克用は、思い直し、劉任恭への支援をなした他、戦が進むにつれて、要地・潞州の争奪を重視し、宦官・張承業を遣わして、陝西の李茂貞への支援も依頼した。
宦官の多くは、先の朱全忠の宦官誅滅の際に殆どが殺されていたものの、地方にいた宦官などには生きながらえていた者もいた。張承業もそうした一人であり、李克用の側近として、重く用いられていたのである。
しかし、張承業が派遣先から戻ってみると、李克用は病に伏していた。李存勗を後継者に指名した後、張承業に後を託して世を去った。既に、唐朝が滅亡した後梁開平二年(九〇八年)のことである。こうして、独眼竜の猛将は世を去った。
他方、朱の軍に攻略された劉仁恭であったが、朱晃の武将・李思案によって、拠点にしていた幽州も攻められそうになった。戦略もなく、今にも幽州が陥落しそうになった時、救援に駆けつけたのが、もうひとりの息子・劉守光であった。
劉守光は父子喧嘩から、父の任恭に勘当されていたのであるが、この時、劉守光が駆けつけ、幽州の防戦に努めたおかげで、幽州陥落は避けることができたのであった。この後、劉守光は、幽州節度使を自称し、父の任恭を幽州城の一隅に幽閉した。
それを知った兄の劉守文は軍を動員して、守光を討たんとしたものの、戦の決着がつかぬうちに捕虜となり、殺された。滄州城は陥落し、守光は、父・仁恭から引き継いだ盧龍軍節度使の地位と合わせて、滄州義昌軍節度使の立場も兼ねることになった。後梁開平四年(九一〇年)のことである。盧龍、滄州義昌の二つの節度使を兼ねた劉守光は、後梁建国後、朱晃から燕王の地位を与えられた。
ここに、劉守光の野心は頭をもたげ、天下を狙い始めた守光は、大燕皇帝を自称し、それを諌めた部下・孫鶴を斬殺した。
無論、周囲が大燕皇帝を承認するはずもなかった。新たに晋王となった李存勗は、部下の李承勲を遣わし、礼をとったものの、「大燕」皇帝を承認しなかったことは無論である。
「大燕」の劉守光は、自身は皇帝なのだから、臣下の礼をとれ、と強いたが、李承勲は
「私に臣下の礼をとらせたければ、大燕が晋王を臣下とすれば、それもできましょう」
と嫌味を言い、挑発したのである。劉守光は激怒したものの、その時点での実力では、晋を討伐するのは容易ならざることであった。しかし、易定という地を攻略すれば、それも可能かも知れぬと考え、後梁乾化元年(九一一年)一一月、易定攻略に乗り出した。この時、文官の部下・馮道がそれを諌めたものの、劉守光は馮道を獄につないでしまった。馮道は、劉任恭に仕え、盧龍の藩鎮の幕僚となっていた男だった。寧二同様、文筆の才を認められての仕官だったと言われている。
燕軍は晋軍相手に苦戦すると、今度は梁に援軍を求めるという節操のなさであった。この動きについて、寧二は梁の幕僚の一員として、開封でその知らせを耳にした。寧二は節操のなさを思いつつも、それを非難する気にはあまりなれなかった。
誰もが生き残りに必死な今の世なのである。黄巣の反乱軍に参加しようとした際、道中で人々を脅して食を得ようとしたこと、小隊時代、蘇の屋敷に火をかけ、食料を奪ったこと、更には、私怨があるとは言え、呉倫を死に追いやったこと等、寧二とて、ある種の悪業に手を染めたのである。そして、それは生き残りたければ、避けて通れない必要悪だったのであり、それらによって、世の気風の荒廃は当然になっていた。
結果として、全権を張承業に委任した李存勗は、幽州で劉仁恭とその妻、妾を捕らえ、更に、「大燕」皇帝を自称しつつも、幽州から逃亡していた守光をも捕らえた。その後、本拠地の晋陽に凱旋し、李克用の墓前で、劉仁恭、守光父子を斬刑に処した。尚、獄に繋がれていた馮道は、戦の混乱の中で救出され、張承業の評価を受けて、重要書類の起草等を任されるようになった。
李存勗は晋王継承後、梁軍を大敗させる等、梁にとっての大きな軍事的敵対者となった。
15―2 謀議
朱晃は、梁軍が晋軍に押されていることを嘆いた。そして、李克用の息子に比べれば、自分の子弟はまるで、犬か豚のようだと罵った。しかし、梁軍の弱さは、朱晃自身の責任でもあった。朱晃は、古参の武将を些細な失敗で厳罰に処し、処刑していた。朱晃は元々がゴロツキ上がりだった。その自己中心的で他罰的な言動と性格は益々酷くなっていったようであった。かつて、寧二と宴席を共にした曹も今では粛清されていた。
かような状況の中で、梁軍では内部に不満が溜まっていた。それは寧二も同様である。寧二も広州時代以来の明光鎧を着込んだ甲冑姿で、晋軍との戦いに臨んではいたものの、作戦上の失敗等があれば、やがては朱晃に処分されることになるやもしれない。
寧二は思った。
「若い頃、自分も黄巣等の反乱に身を投じ、三国志の世界に憧れたところもあった。しかし、今まで生きて来て、というより、自分を必死に守っている間に、既に五〇歳を超えてしまった。朱晃が朱温という名の頃から、必死に生きては来たものの、このまま、朱晃の下で、生きていけるのだろうか。戦乱の世なら、どこへ行っても同じことかもしれないが。とは言うものの、梁軍は晋軍に負けるだろうし、朱晃のゴロツキぶりはひどくなるし、これ以上はついて行けぬだろう」
寧二は、自分の率いる軍勢を使って、反乱を起こそうか、とも思った。この状況なら、ついてくる者も多いかも知れない。しかし、梁の国を乗っ取った後、自分に国を率いることができるのか。さらなる混乱を招いた挙句、周囲から、使い道がないと判断されれば、かつての唐朝皇帝のように、殺されるかもしれなかった。
しかし、今のままでは、未来がないのも明らかであった。
そんなある日のことである。
寧二は、前線の軍議の席で、朱晃の実子・朱友珪に会う機会があった。朱友珪は朱晃の命で地方の刺史に任官する途中、同じ朱晃の命で各地の自軍の視察と激励に回っているらしい。朱晃は仮子・朱友文を後継者にせん、としていたが、無論、朱友珪はそれに不満である。朱友珪は寧二に言った。
「私は父の晃に遠ざけられている。父は反逆した者の殆どを殺してしまった。私は自身の身が危ないと思っている」
寧二は答えた。
「いかにも、おっしゃるとおりでございます。我々、将にとっても、皇帝陛下は少々、厳しいものがございますな」
朱友珪は言った。
「いかがすべきか」
寧二は続けた。
「友珪様、近衛軍としての左龍虎軍を率いて、権力を握られてはいかがでしょう。友珪様は、陛下のご実子ですので、左龍虎軍を率いて王宮を移動されても、然程、周囲からは不審には思われますまい」
さらに寧二は言った。
「助かりたくば、お父君をお殺しなさい。あなたは実子でありながら、父に疎まれ、相当辛くしていらっしゃるはず。しかも、このまま、機先を制せねば、他の将のように、お命を奪わるるやもしれませぬ。兵にも、陛下への不満を抱く者は少なくありませぬ。あなたが率先して立たれれば、皆、ついて行くでしょう。私達、配下部将は、晋軍との戦いもあり、前線を離れられませんが、前線のことは我々に任せて、あなたには中核部でご活躍いただきたいのです」
そして、寧二は強調するように言った。
「今、あなたが立たねば、我が梁国は滅びてしまいますでしょう」
梁の国がなくなれば、朱友珪とて、行き場はなくなる。或は、戦乱の中で誰かに殺されてしまうかもしれない。決心した朱友珪は開封に向かった。
15―3 朱温の最後
朱温という名の時から女好きだった朱晃は、荒淫がたたったのか、最近、病気がちであった。世話役の女性たちに身の回りの世話をさせつつ、自らは寝台の上で臥せっていることが多くなった。そこへ激しい足音、女性の悲鳴のようなものが聞こえてきた。
朱晃は言った。
「何事だ。左龍虎軍はどうした。怪しきものなら捕えよ」
と言った途端、部屋の扉が開き、左龍虎軍の兵達が雪崩込んできた。朱晃は何が起きたのか、事情がつかめない。朱晃は、兵の中に朱友珪の姿を認めた。
朱晃は驚き、言った。
「貴様、地方の刺史を命じていたのに」
朱友珪は言った。
「はい、父上。しかし、勝手ながら戻って参りました。父の横暴勝手には最早、我慢なりませぬ。ここにいる左龍虎軍の者どもも同じです」
「何?わしをどうする気か」
「お命、頂戴いたします」
言うやいなや、朱友珪は父を剣で刺した。血しぶきが飛び散った。
朱晃は呻いた。
「こんなことならば、お前を早く、消してしまうべきだった」
自分の粛清が、今の事態を招いたのに、その思考から抜けられない朱晃であった。
こうして、朱全忠、朱晃と二回も改名し、黄巣を裏切り、唐朝をも裏切り、自分の権力を追い求め続けたゴロツキ上がり・朱温は世を去った。乾化二年(九一二年)七月のことである。
この報は、前線の李寧二にも届いた。父を殺した後、帝位についた朱友珪であったが、弟の朱友貞に殺害された。寧二が必死に生きんとして仕えた梁(後梁)は、やがて、李存勗に攻略され、九二三年、滅亡した。その後、李存勗は後唐を建国し、その際、李振は後唐に降伏したものの、一族もろとも処刑されたと言われる。その後、後唐も九三六年に滅亡し、華北では、さらに、後晋、後漢(三国時代の幕開けとなった後漢とは別)、後周の各王朝が短期間に交代し、華中、華南では、一〇余りの国が興亡した。この分裂時代を後に五代十国というようになったが、中国の分裂に後に統一をもたらすことになったのが、九六〇年、後周の部将・趙匡胤が建てた宋であった。宋は九七八年、中国の統一を完成した。
戦乱の世を生きて来た李寧二には、愛する女性や可愛い子供たちはいたのだろうか。或は、その妹・李玉花や、黄巣軍と共に、戦乱の世から立ち去らんとした劉炎は、その後、天寿を全うしただろうか。それとも、悲惨な最後だったのだろうか。
「民衆」や「兵」である彼等、彼女等は、歴史の記録の上では、単なる抽象的な数字としてしか扱われず、その生活等が記録が歴史に残ることは殆どないといえよう。
(了)
桃園の誓いなき三兄弟―唐末後梁を生きた若者達 (とうえんのちかいなきさんきょうだい―とうまつごりょうをいきたわかものたち) 阿月礼 @yoritaka
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