第11話 大斉建国

11―1 突破口

 朱温等の軍勢においても、疫病等によって倒れる者が出始めていた。再び長江を南に下ったところで、黄巣軍は、身動きがとれずにいた。このままの状況が続けば、いよいよ、唐朝に降伏せねばならないことは明らかであった。しかし、降伏して、何の道が開けるというのか。場合によって、打ち首等の悲惨な末路かもしれなかった。

 寧二ははそんなことを考えていた。そこに伝令が入って来た。

「申し上げます。我が軍にても、病に苦しむ者が増えてございます」

 寧二の傍の部将が答えた。

「うむ、了解しておる」

 その言葉通り、既に了解していることであった。しかし、改めて言われてみて、深刻さを強調されたのであった。早くなんとかしろ、と言われてるようで、寧二は内心、立腹した。他の将もそうかもしれないし、何よりも、朱温がそうした立場にあるといえよう。

 幕舎内で共にいた曹が、寧二に話しかけた。

「こんな時には、敵の内情が分かれば、そこを突破口にできるのだが」

 寧二は答えた。

「闇塩商人に話してみてはいかがでしょうか。私が、この乱に参加したばかりの頃、闇塩商人を味方につけることで、食料調達に成功したことがございます。敵の藩鎮とて、塩は必需品ですので、闇塩商人でしたら、容易に内情を探りうるかもしれません」

「しかし、藩鎮側の中枢まで近づくとなると、容易になしうるかどうか」

 曹は疑問に思ったようである。しかし、朱温が言った。

「うむ、今は敵を突破するとしたら、そのような方法が良かろう。寧二、全軍のためにも、そのような提案を総大将の黄巣様にして参れ」

「はっ」

 寧二は幕舎を出、馬を駆って黄巣の本陣に向かった。

 寧二等がこれまでに見て来た飢えに苦しむ人々、行き倒れになった人々は、かつては栄華を極めたであろう唐朝の末期の様相を呈しているとも言えた。しかし、黄巣軍は、末期的状況にある唐朝を未だに倒せずにいた。それこそ、先般の檄文にも書いたように、唐朝が倒れるか、自軍が倒れるかの状況の下で、疫病が自軍に流行っていては、あまり、時間の余裕はないように思われた。

 寧二は、黄巣の本陣に着くと、総大将の黄巣への面会を申し出た。警護の兵が、寧二を幕舎に通した。

「朱温麾下の李寧二にございます。此度、大将の朱温様からの命にて、参りました」

「うむ、して、何用か」

 寧二は早速、提案した。

「敵情を探りますに、闇塩商人の手を借りるのは如何でございましょうか」

自軍が崩壊しかねない、という事情もあってか、自然とその口調は強いものとなった。

 黄巣は答えた。

「うむ。しかし、敵の内情を探るとて、敵陣の中央部にまで辿り着けるか」

 寧二は言った。

「はい。塩の他に、何か金銀珠玉等の貢ぎ物を持参させてはいかがでしょうか。幸い、広州の一ヶ月で入手した物もございましょう。唐朝に代わる天下を狙われるのであれば、惜しくはないのではありますまいか」

 現実の問題として、自軍が降伏にまで追い詰められつつある時期である。黄巣は、闇塩商人に金銀珠玉を持たせて、敵の内情を探ることにした。そもそも、黄巣自身が闇塩商人の出身であるので、その連絡方法は心得ており、自軍の将や兵の中にも、その時からの仲間がいるので、彼等に内情を探らせれば良いのである。

 黄巣は進言に同意した。

 寧二は思った。

「まだ、暫くは耐えねばならないであろう。三国時代に、袁紹に睨まれた曹操が、官途の砦で好機を待ち続けた挙句、許悠の寝返りで、袁紹軍を撃破した状況に似ているかもしれない。無論、当時は袁紹が攻撃側で、曹操が守備側であったのに対し、今回は曹操にあたる我々が攻撃側で、袁紹にあたる敵が守備側である、という点では、攻守逆転であるが」

 そんなことを考えつつ、寧二は自軍の陣へと引き返した。

 そして、「知らせ」は、半月ほど経ってから、朱温等の軍勢にも届いた。伝令が伝えて来たのである。

「申し上げます。総大将の黄巣様より、再び、長江を北へ渡河し、唐朝打倒を目指す、とのことにございます」

 待っていた好機が来たらしい。将の一人が問うた。

「して、敵はどのような状況にあるのか」

「はっ、唐朝軍の総大将は、淮南節度使の高駢にございますが、高駢は自分一人で軍功を独占せんとするがため、賊は間もなく平定しうるとして、数藩鎮の兵に陣の解体を命じているようにございます」

 諸将は思った。

「賊は間もなく平定しうる」

 この言葉は何を意味しているのか。おそらく、唐朝軍も各軍同士で内訌があり、総大将の高駢は他の有力武将に功を奪われまいとして、戦闘態勢を解除させているのだろうか。あるいは、内訌の延長線上で、高駢が自らへの反乱の危険を感じているのだろうか。とにかく、いずれにせよ、唐朝軍の各軍同士の内訌が予想されることは、黄巣軍にとっては、好機到来であった。

 唐朝広明元年(八八〇年)七月、長江を北へ渡河した黄巣軍は勢力を盛り返し、同年十一月には、洛陽に入城した。唐朝軍はすっかり弱体化し、又、略奪等を働く事によって、民衆の支持をも失っていたのである。


11―2 洛陽から長安へ


 洛陽に入城した際、市民はあまり、怯えの表情を示してはいなかった。これまでの乱や、飢餓等の混乱状況によって、既に、ある種の慣れがあったのかもしれなかった。或は、唐朝軍の方が、様々な意味で、市民を苦しめたのかもしれない。藩鎮兵をはじめ、唐朝の兵も又、劉炎のように、単なる金目当てでの仕官、入隊が殆どである。規律を乱すものとて、少なくはあるまい。将も又、高駢の例に見られるように、愚将である場合がある。さらに、洛陽―長安の一線は、洛陽が副都、長安が正都という、唐朝の最重要線ということもあり、多くの兵馬を養うために、重い税も課せられていたであろう。様々な意味で、唐朝は政府というよりは、民衆に対する略奪集団に姿を変えていた。その意味で、洛陽市民にとっても、唐朝に対する未練等はないであろう。

 副都・洛陽は陥ちた。残るは、正都・長安であるが、そこに到るまでには、皇帝直属の神策軍の守る潼関が有った。唐朝にとっては、長安の最後の守りである。しかし、あっさり、潼関は突破された。神策軍といえども、完全に弱体化していたのである。最早、唐朝に自身を守る術はなくなっていたのであった。

 唐朝は経済の崩壊から、塩を専売にして、民衆への収奪を強め、それが闇塩商人の跋扈を招いた。それが此の度の反乱の火種を蒔いたのである。軍も最早、金欲しさの傭兵と化し、私兵関係を構築した藩鎮に分割される形になっていた。それは、唐朝が政府というよりは、中華の大地の上での単なる一つの収奪勢力に転落していたことを示していた。

 そして、同年十二月、ついに長安は陥落した。皇帝・僖宗は蜀(四川)へと落ち延び、ここに黄巣等の天下が到来したかに思われた。


11―3 報復


 長安に入城した黄巣軍は、市民から歓呼の声で迎えられた。黄巣達も意気が上がる。寧二が傍についている朱温などは、自身に歓呼が浴びせられていることから、大変な上機嫌である。乱に参加した甲斐があったと言わんばかりの表情である。好色で権力欲が大きい出世狙いの朱温ならではの姿であるといえよう。

 黄巣軍は沿道で人々に金銀をばら撒いた。市民たちは争って、それを取り合う。黄巣は金銀を撒くのみならず、長安にて、皇帝即位と新朝樹立の準備を始めた。寧二達も忙しくなった。黄巣は、各軍に伝令を放ち、

「黄巣は市民を愛し、皆のためにこそ、新朝を樹立せんと挙兵した」

という文書を作成し、各軍の伝令兵等に持たせて、市民に公布するよう命じた。新しい王朝の名は「斉」、新元号は「金統」とされた。

 命を受けた寧二達は幕舎で、文書の執筆に追われた。乱の勃発から、既に五年が経過していた。寧二はまだ、二〇代の青年であり、半ばまだまだ、人生の経験の浅い存在ではあったものの、唐朝という巨大な敵を倒し、若くして、天下を制覇したかのような達成感があった。もっとも、潼関も、長安の城壁も、唐朝そのものの弱体化によって、障壁の意味を成さず、敵失によって、寧二等は勝利したとも言える。しかし、それでも勝利は勝利だった。科挙の試験は放棄したことも、それで良かった、という自分のかつての判断の正しさとでも言うべき自信のようなものが、寧二の心中には生まれていた。それは、自身に科挙受験を強いた母親への報復とも言える感情であったかもしれない。

 これまでの苦難を乗り越えたという達成感からか、兵達の表情も明るい。しかし、この明るさは、同時に、自分達の天下になった以上、最早、自分達の邪魔をする者はいない、という意味の明るさでもあった。手綱が解かれたという状態とも言えた。

黄巣軍の兵達は、大商人、富裕層等の多く住む居住区を襲い、屋敷を襲い、殺人を犯し、女を拐った。それは、皇帝即位を準備しつつあった黄巣にも止められない勢いであった。長安は唐朝の正都であった故、反乱軍であった黄巣軍の兵達にとっては、自分達への収奪の象徴であり、同時に、既存の体制の下で良い目をしていたであろう富裕層を襲うことは、奪われた物を奪い返す具体的な行動であったろう。それは、朱温麾下の者にとっても例外ではなかった。

 劉炎は、小隊長でありながら一人、藩鎮以来の剣を携え、ある場所に向かっていた。部下の兵達には、数日は好きにさせておけば良い。ある場所とは、自分をかつて折檻した夫婦の商店を兼ねた屋敷である。

 富裕層等の地区は混乱を極めていた。女性の悲鳴、打ち壊しの激しい音、道に散らばる金銀その他の財宝、我先にそれをかき集めて、我が物にせんとする兵、あるいはそれらの奪い合い等々。さらに、各所から火の手が上がり、黒煙も立ち上っている。そんな中を、炎は、記憶を頼りに目的地へと歩いた。

 着いてみると、商店を兼ねた屋敷は正面の門が壊されていた。一部は略奪されたらしい。但し、人はほとんどいない。拐われたか、逃げ出したのか。金品が散らばっていたものの、炎は気にせず、奥へと進み、主人夫婦を探して回った。裏庭へと続く廊下のわきの部屋から、声がした。

「わし等を助けに来たか」

 どうやら、かの主人らしい。召使か何かが助けに来るまで、小部屋に隠れて難を逃れようとしていたのか。炎はわざと助けに来た者の振りをして

「左様でございます。ご主人様でございますか」

と答えた。

「そうだ。早く助けい」

 炎は扉を突き飛ばすように開けると、中に飛び込んだ。かつての「主人」夫婦と目があった。彼等は突然の乱入者にあっけにとられたが、言うまでもなく、劉炎にとっては、幼き自分を苦しめた憎しみの対象に他ならなかった。

「おのれ、覚悟!」

 自分を不当に苦しめた憎しみの勢いで、手にした剣で夫婦を殺し、首級をはねた。二人がかつて、幼き炎を苦しめたことを記憶していたか否かは定かではない。しかし、苦しめられたものは、決してそのことを忘れはしない。幼き頃の恨みを晴らし、劉炎は、屋敷に火をかけ、燃える屋敷を後にした。

 炎は帰路、全身の力が半ば抜けたように感じながら歩いていた。それまで溜まっていた、怒りという名の力が全身から抜けたのかもしれなかった。おぼつかない足取りで、自陣の方に戻って行った。

 長安の激しい混乱は、止める者もなく、当分は続きそうな気配であった。

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