第12話 裏切り

12―1 斉の治政

 黄巣軍の長安入城によって、大きな混乱が起きてから、二年近くが経とうとしていた。混乱を引き起こした黄巣軍の建てた「斉」王朝は、時間が経つにつれて、長安市民から見放されつつあった。

 長安への入城当初、富裕層を対象としたていた略奪は、富裕層以外にも拡がりつつあった。黄巣軍は、長安を占領したものの、逆に、各地の藩鎮軍に包囲されつつあったのである。補給路もなく、市民への略奪等で凌ぐ他、なかったのであった。

 最早、唐朝皇帝・僖宗は実力は無いも同然の存在の存在であった。しかし、「斉」が居座る長安への攻撃の正当化の口実としては、唐朝の皇帝は、まだ利用価値があったのであった。これまで、各地を流動することで貧民等を吸収し、場合によっては、略奪を伴う現地調達によって、補給をまかない、勢力拡大をなして来た黄巣軍は、一定の地域に政権を建てたことによって、流動時のような行動は不可能になった。。外部からの補給がなければ、籠城はやがて不可能になる。食料は高騰し、食をまかなうことも難しくなる。さらに、流動集団だった黄巣の軍勢には、経験を積んだ旧唐朝の官吏の参政は少なかった等、複数の理由から、行政が上手くいかず、広州で長居できなかったのと似た状況が、かつての唐朝の都・長安にて現実の問題として起きていたのである。

 寧二は思った。

「長安入城時、暴行略奪は止めておくべきであった。そうすれば、旧唐朝の官吏も、斉に帰順したかもしれない。四品官以下の官吏はそのまま、登用するとの告示も出したが、あの始末では、新政権に参加を望むものは殆どいなかったろう。

 かと言って、略奪を無理にでも止めていたら、もっとも、無理にでも止める術があったかどうか、定かではないが、我が軍の兵達の不満はどうなっていただろうか。楽しみがない、と不満を爆発させ、自軍の崩壊に繋がったかもしれない」

 長安入城当初は、敵を倒し、それまでの現実を乗り越えたかもしれない、と思った寧二ではあったものの、今や、もう一つの厳しい現実を思い知らされたのであった。旧体制への破壊力と、新朝樹立後の実際の行政の難しさ。中国の歴代の王朝や反乱軍が、いずれも両立させねば、と思いつつ、その難しさに苦しんだことであろう。いずれにせよ、何とかできなければ、斉王朝は内部からの崩壊が始まるであろう。

 そのようなことを考えているうちにも、野蛮な笑声がどこかからか聞こえて来る。酒に酔った者、おそらく、どこかの隊の兵の笑声であろう。昼だというのに、この始末である。二〇代の若者には、どうすることもできない現実であった。

 寧二が属する斉王朝とその軍勢は、最早、袋小路に追い込まれつつあった。そして、おそらく、闇塩商人も、最早、頼りにはならないであろう。闇塩商人は、民衆の支持あってこそ、暗躍できるのである。既に、黄巣等からは、心が離れているであろう。既に、民衆から支持されない窮乏権力と化した黄巣の下で活動できるとは思われなかった。むしろ、黄巣等は、ひとつの政権を樹立したことによって、闇塩商人等を取り締まる立場になったとも言える。

 朱温の軍勢も、おそらく、末端では脱走や、唐朝側への降伏を望む兵も多く出ていることであろう。性格の厳しい、というよりは、部下に厳しい朱温のことなので、やはり、一部の隊が離脱、反乱を起こせば、他の隊に命じて、厳しく鎮圧するであろう。しかし、どの隊も食糧不足等で、不満を募らせれば、全軍の総崩れ、といったことも無きにしも非ず、である。現状が続き、褒美も食料もない、となれば、やはり、全軍総崩れの道に進むしかないようであった。その意味では、朱温その人が自身の身の振り方を考えねばならない時が来つつあった。

 そんな状況の下でも朱温の自堕落ぶりは変わらなかった。度々、若き美女をはべらせ、宴を楽しんでいた。ある時、寧二は、その宴に招かれた。その席にて、朱温は言った。

「どうだ、寧二、最近の我が軍の様子は」

 寧二は答えた。

「おそれながら、食料は日に日に不足がちとなり、兵達も苦しみ出しているかと」

「うむ」

 朱温は続けた。

「確かに、我が軍と黄巣様の斉王朝は厳しい状況だ。こんな時には、憂さ晴らしのためにも、酒杯を重ねたくなるわ」

 朱温には、乱への参加以来、漸く手にできたと思っていた権力がうまく機能しないことへの不満があるらしい。現状に対して、朱温は一軍の将として、どのように行動するつもりなのか。寧二は、それこそ、こんな時に宴を催す朱温に、不安のような、腹立たしいような感情を抱きつつ、自身も杯を重ねた。

 朱温が言った。

「これ、奥の娘ども、酒を持って参れ」

 奥の方から、声がした。

「はい、只今」

 一人の若い女性が、酒とつまみを用意して出て来た。寧二は酔っていたとはいえ、その姿を見て、一瞬、目を見開いた。

「玉花!」

 玉花も、兄・寧二の存在に気づいたらしいが、目を背けて、寧二の存在には気づかないふりをしていた。

 玉花は言った。

「大将様、失礼いたします」

 玉花は、酒を朱温の酒杯に注いだ。注ぎ終わるやいなや、再度、

「失礼いたします」

と言うと、奥に戻って行った。

 寧二は、

「大将様、ちと外に出て、酔いを冷ましたく思います」

と申し出た。

「良い。好きにいたせ」

という朱温の言葉を受けると、寧二は外に出た。

「なんてこった。ゴロツキ上がりのあんな男に、妹が囲われているとは」

 寧二が出奔してから、五年以上の時間が経過していた。各地を転戦する激しい流浪の下、家族のことは忘れたつもりだった。家族、殊に口うるさい母との生活が嫌で、家を出たのであり、事実上、家族との縁は切ったつもりだった。しかし、それは若気の至りだったかもしれないことも、一面の真実であった。

 父が行方不明になってから、母と妹は唯一の肉親であったはずである。玉花がここにいるという事実は、母と妹、殊に妹を捨てて若気の至りで逃げ出したことを、寧二に後悔させた。未だ、心中のどこかに肉親の情のようなものが残っていたのかもしれない。しかし、かと言って、あの時、あの家に居続けていたら、どうなっていたのか。科挙受験生という唐朝の体制内に居続けて、何の意味があったのか。現実として、唐朝は倒れた。あのままの生活を続けていても、無意味だったに違いない。

 このように考えて、寧二は自身の行動を心の中で、正当化してみたりもした。いずれにせよ、現在の乱世の中では先は見えないのである。どのように行動しようと、賭け事のような人生を歩むしかなかった。その賭け事の中で、朱温のようなゴロツキ上がりが出世したりもする。ただし、ゴロツキ上がりが出世しているところからして、乱世では武力という形での実力を有している者が勝ち残りやすく、賭けに勝つ傾向があるのは確かなようであった。

 そうした乱世の中で、武力の自信が然程なければ、その枠内で、生き残りを求めて、上手く立ち回らざるを得ないのが現実であろう。寧二は、厳重三の下についた時から、そうして生きてきたのである。

 現在は、朱温の傍らにいる以上、朱温を動かす他はなかった。現状では、それ以外の手段は無いのである。とはいえ、一体、具体的に何ができるのか。思いつかないのも現実である。


12―2 朱温と諸将


 長安の東北辺を守って来た朱温の軍勢ではあったが、ある日、朱温は軍議を開いた。

 朱温は皆に問いかけた。

「我が軍勢は戦では、不利な状況にある。わしは唐朝に下ることも考えておる。して、そなた達ははどのように思う」

 諸将は概ね、朱温の意見に同意のようであった。このままでは、食料、燃料、矢弾等が尽きるのはあきらかであった。不利な状況が続けば、朱温の軍からの兵の脱走、反乱等が起こり、軍の崩壊につながるかも知れない。又、唐朝の悪政に立ち向かわん、と決起したとはいえ、善政を施行できないのであれば、「斉」であろうと、唐朝であろうと、自らが生き延びるためには、変わりはなかった。

 寧二が口を開いた。

「進言がございます」

 朱温が答えた。

「何だ、申してみよ」

「はい、女どもをはじめとして、朱温様のお付のものをなるべく、放してやっていただきたいのです」

 朱温は目を見開き、表情を変えた。

「何、放せとな」

 せっかく、手にしたものを放せ、とはどういうことか。みずから益を失えとは何事か。

 朱温は半ば、怒りの表情である。しかし、寧二は続けた。

 「今や、我等が唐朝に降るにあたりまして、女どもに食わす飯はないのが現状であります。又、これからも戦が続くでしょうから、足でまといにもなります。今や我等が斉は風前の灯にございますが、かと言って、唐朝も最早、過日の勢いはございません。これからの戦は、朱温様が天下に一旗揚げる好機にございます。それを足でまとい達に妨げられるようなことがあっては、後々、後悔となりましょう。天下を狙いうる立場にあろうお方が、もしも、そのようなことで好機を失うようなことがあれば、悔やんでも悔やみきれなくなりましょう」

 朱温は、好みで集めた女を捨てろ、と言われて一瞬、立腹した。しかし、

言われてみれば、天下を手にする好機が到来しているかもしれないのである。「斉」や唐朝に代わって一旗揚げることができるとなると、話は別である。

 「いかがでしょう」

 寧二が更に、言葉を加えた。

 李振や諸将も、黄巣を見放し、「斉」から離脱すべし、という態度になっている。朱温が天下を手にすれば、諸将も大いに出世する可能性があった。

 朱温は言った。

「うむ、新たな活路を開くべく、動きたい。して、女を放す作業は誰がなすか」

 寧二が言った。

「私が参りましょう。私が言ったことですので」

「うむ、そなたに任す」

 その言葉を受けた寧二は、数日後、女性たちが囲われている屋敷へと向かった。


12―3 再度の別れ


 その場所へ言ってみると、女性達は、男たちのような野蛮な笑声を上げてはいなかった。むしろ、何かしらにおびえているような様子であった。

寧二は声を上げた。

「良いか、女ども、よく聞け。そなた達は戦の役には立たぬ故、ここで、朱温様はそなた達との関係を断つとの仰せである。これより、どこへ行こうとそなたたちの自由である。引き上げの準備をいたせ」

 彼女等の表情は様々であるが、それぞれに事情があるのだろうし、帰るあてがなければここにいたい、と思う者もいるかもしれない。寧二の本心は、勿論、玉花を朱温から救い出してやりたい、とのことなのである。

 寧二は続けて言った。

「このなかに、李玉花と申す者はいるか」

 若い女の一人が言った。

「玉花なら、奥の部屋にございます」

 寧二は、その部屋に向かった。本当に妹の玉花だろうか。既に、五年程が経ち、ある意味、先日の直感に自信はなくなっていた。

彼は扉の前で、声を出した。

「李玉花と申す者はおるか。わしは、朱温様から遣わされた李寧二と申す」

 玉花は思った。

「李寧二?やはり、あの時のあの人は兄さんだったんだ」

 改めて、兄が来たことに気づかされた玉花は扉を開いた。

「兄さん」

「うむ」

 寧二は開かれた戸を部屋の中に入った。

 玉花は言った。

「兄さん、これまで何していたの」

「ああ、俺はあの時、家出して以来、黄巣様を総大将とする乱の側について、朱温様の軍勢の中で動いて来た。最初は、厳という小隊の長の下にいたが、朱温様に見込まれてな。今はこの軍勢の大将付きの身分だ。お前こそ、何で、こんなところに」

 玉花は答えた。

「兄さんが家出した後、母さんは死んだのよ。凶作で作物は獲れないし、小作料も上がらないから、仕方なく、呉の家で小間使いになったけれど、然程の報酬もないし、呉の家で散々にこき使われて、母さんは心労から死んでしまった。私はその後、村を出たのよ」

 玉花の話を聞いて、寧二は思った。呉の家のドラ息子、呉倫には、寧二自身も幼い頃から、あの手この手で散々いじめられた。呉倫は、自分の家が官僚を出し、唐朝に通じていることから、それを笠に着て、権勢を振るっていたのである。

 寧二は

「そうか」

と一言、言ったが、その後、何をどのように言えば良いのか分からなかった。

またしても、心中で様々な思いが巡る。あの時、あのまま、あの家にいればよかったのか。しかし、いたところで、自分に何ができたというのか。母とのいさかいがひどくなっただけではないのか。

 寧二は玉花に、今、ここにいる理由を問うた。

「母さんが、私に旅費を持たせて村を出したのよ。あのまま、故郷に居続けたら、呉倫の餌食になるかもしれない、と考えて、母さんが私を出すべき、と判断したの」

 そして、旅の末、長安に辿り着き、ある商家の小間使いになっていたものの、黄巣軍が長安に入城した際、黄巣軍の兵に拐われ、朱温の下に連れて来られたのだという。

 寧二は、自軍の兵にも、呉倫にも怒り、心中で煮え湯が沸騰した。玉花を拐った兵を探し出して成敗しようかとも思った。しかし、好色という朱温の利害に貢献したその者を成敗することは、朱温の利害にも関わることであった。故に、それは難しいであろう。

 そんな寧二を見ていた玉花は言った。

「浩士さん、討ち死にしたんですってね」

 寧二は今、初めて、この知らせを聞いた。軍勢の中で、上層部付と兵という立場の違いから、彼のことは分からなくなっていた。

「あいつは、俺達の幼い頃からの友人だったじゃないか。お前、何で知っているんだ」

「劉炎というある隊の長が、何かの用事で私達のところに来たことがあった。その時、何かのきっかけで、兄さんのことを話したら、劉炎さんと、浩士さんと、兄さんの三人で乱に加わったことを話してくれた。そして、浩士さんが討ち死にしたこともね」

 寧二は、玉花に問いただした。

「どんな最後だったんだ」

「強弩で、鎧ごと射抜かれていたって言っていた」

「そうか」

 寧二は、それ以上、何も言えなかった。何もしてやれなかった自分には、何も言う資格はないだろう。しかし、友人であっても、軍勢という組織の中では、一人の兵として、冷徹に計算に入れるべき存在でしかなかったのである。そして、寧二は何時かも思ったように、軍勢の中で、厳の小隊から上層部の朱温の下へと異動になって良かった、と思った。友人同士で直接に命令したり、友人を現場で「兵員一名」という計算の下、死に追いやることをしなくても済んだからである。

 多くの兵達は、名も知れぬ無名の存在として、戦場の土となり、その最後も知られないのである。その中で、最後が分かっただけ、浩士は良い方であったのかもしれない。同時に、浩士の死を伝えた劉炎はどうしているだろう。もし、生きているなら、炎とは出会わないようにしたい、とも思った。自分の命令で炎を死に追いやることもあ有りうるからである。寧二の心中には、まだ、友情という人間的な感情も残ってはいたのであった。

 かつて、三国時代、諸葛孔明は、公正な人事を行い、命令違反の理由で、愛弟子の馬謖を泣いて斬ったことが言われている。しかし、その涙は、公正な人事と私情の対立という人間的葛藤があるからこそであった。寧二は、改めて、人間的葛藤というものを実感させられた。

 とにかく、玉花達を逃がしてやらねばならない。寧二はそのために、ここに来たのである。

「とにかく、お前等は、早くこの場を立ち去ったほうが良い。既に分かっているとは思うが、我が軍の兵には野卑な者も多いので、そいつらに捕まらないように、特別な任務を帯びているということにした文書もしたためてある」

 寧二ははそう言うと、「文書」を玉花に持たせた。

「兵達に絡まれたら、特殊な仕事があると言って、この文書を見せれば良い。兵達の多くは文字が読めぬだろうから、仰々しさに恐れ入るだろうし、朱温は自分の部下に厳しいので、朱温様からの命と言えば、厳罰をおそれて、兵もひどいことはしないだろう。それと、重要任務であるかのように、文書に権威を持たせるために、屋敷を守っている兵達を、そのまま、護衛の兵としてつけておく。俺には、これくらいのことしかできぬが、道中、無事でな」

 玉花は言った。

「兄さん」

 玉花は、何かを言わんとしたが、寧二は聞かずに出た。肉親の情から長い話になり、それが原因で、彼女等を解放することに差し支えてはならなかったからである。

寧二は兵達に、女性達は特殊な任務に就くために、長安を出て、別の地方に移動することになっているので、長安の城門を出て、暫くの場所まで護衛した上で、適当なところで引き返して来るように命じた。玉花のためにできるだけのことをした寧二は、屋敷を出た後、屋敷を一度だけ振り返ると、馬を駆って、朱温の下に戻った。いつの時代も、どの地域でも、翻弄されるのは民衆であった。

 僖宗中和二年(八八二年)、「斉」を見限った朱温は、黄巣からの監軍使・厳実を斬り、軍勢ごと、唐朝に寝返った。「斉」は大きな打撃を受け、ここに、事実上、 「斉」王朝は終焉を迎えたのである。

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