最終話
病院の受付の前方に広がる待合室は閑散としていた。僕はできるだけ待合室の全体が見える位置に腰掛ける。もうすぐで樋口すみれの親が現れる。父親が来るか母親が来るかまでは分からなかった。集中しなければならない。本来樋口家とは一切接点がない僕が交渉を取り付けるためにはここで親をおさえるしかない。大谷からもらった画質の悪い樋口の両親の写真を手に僕は待ち構える。
どれだけの間そうしていただろう。来院予定時刻を1時間超過している。まさか見逃したのか。
――いや、そんなはずはない。
面会の受付はここでしかできないし、この場所に来た人間はすべて僕が目で確認できていた。単なる遅刻だろうか。そうだとしてもそれは困る。事態は一刻を争うのだ。
焦燥に身を焦がしていると、僕のスマホが鳴った。さっき番号を交換した大谷からだった。
「もしもし。」
「平丘、落ち着いて聞けよ。今、樋口すみれの両親の車が事故にあったという知らせを受けた。」
僕は衝撃で頭が真っ白になる。
「た、確かですか」
「ああ、じきにここに搬送される。それともうひとつ…」
次の大谷の言葉は僕からの希望を奪い去るのに十分だった。
「久保詩織の脳の状態が急激に悪化し始めた。今すぐにでも移植をしないと危険だ。」
僕は呆然とする。事態は最悪だ。スマホからなにやら大谷の声が響いているが、耳に届かない。確実に、樋口の両親とはしばらく会話ができなくなった。なのに詩織はもう限界で、適合者は樋口しかいない。絶望だ。僕が必死に伸ばした手の上に幸福は降ってこなかった。
失意のどん底で、僕は思った。
――詩織のそばにいたい。
僕にできることは結局何もなかった。もう僕は少しでも長く詩織のそばにいたい。それだけだった。ふらつく足取りで病室へ向かう。三階への道のりが果てしなく遠い。
ようやくたどり着いた病室の扉を開ける。
――あれ?
ベッドの上で眠っているのは詩織ではなかった。傍らに鎮座する心電図などの機械類は詩織と同じだが…。僕は一旦外に出て扉のプレートを確認する。402号室とある。僕ははっとする。僕は階を間違えたようだ。ここは4階で、詩織の病室は3階。僕は自分の判断能力の低下具合に苦笑する。しかし病室番号の下を見た瞬間、僕は凍り付いた。
402号室 樋口すみれ
僕は再びベッドに駆け寄る。こいつが樋口?そんなことがあるだろうか。偶然樋口の病室に足を踏み入れるなんて、そんなことが、本当に?僕は深呼吸をし、部屋を見渡す。脳死寸前だけあって樋口の躰には様々な管が絡みつき、複数の機械がなんとか彼女の生命を維持していた。樋口は死を望んだのに、彼女のことを何も知らない医療が全力で引き留めている。それは彼女にとって幸せなのだろうか。そして、彼女を見ていると、なぜか詩織に対する思いが強まっていくような気がした。詩織には生きてほしい。また僕に笑いかけてほしい。今まで考えないようにしていたけれど、僕のバスケを見てほしい。詩織自身のことももっと話してほしい。
個々の病室の窓からだとあの庭がかろうじて見える。シロツメクサの花が目に留まった。僕はそれを見つめた。
それはほんの数十秒だったが、僕には永遠に等しい時間だった。一つ思い出したことがある。詩織が以前語ったクローバーをくれた男の子。あれは僕だ。今まで忘れていたが、僕たちは2か月だけ同じ幼稚園にいた。当時転勤を繰り返していた詩織と離れ離れになると知った僕はお守りといって四つ葉のクローバーを渡した。
「きみがいっしょうしあわせでいますように」
なんて言った気がする。高校で出会ったとき、初めて会った気がしなかったのは、そういうことか。クローバーが僕たちを結び付けてくれたのだ。
クローバーが教えてくれる。僕は詩織を愛している。
クローバーが僕に勇気をくれる。詩織は必ず僕が救う――。
樋口の両親の手術を終え、大谷は樋口すみれの病室を訪れた。
瞬間、大谷は目を剥いた。心電図が音を発していない。手に触れると氷のように冷たかった。冷静に努め、瞳孔反射も確認する。
――間違いない。樋口すみれは死んだ。しかもついさっき…
ここで大谷は床に折りたたまれた紙片が床に落ちているのを見つけた。拾って広げると、そこには文字が書かれていた。
一読した大谷は息を吐き、紙片をぐしゃぐしゃにしてポケットに入れる。周囲に誰もいないことを確認してから呟く。
「まったく…たいした騎士(ナイト)じゃないか…。あとは任せろ。」
2030年7月19日、久保詩織は退院した。目を覚ましたと聞いて両親は泣いて喜び、大谷に礼を言った。覚醒後に様々な検査が行われたが、身体に何の障害も残っていないことが分かった。一年間眠ったことを伝えると彼女は驚いていた。夢の中でずっと誰かに守られていた気がすると彼女は言った。大谷は曖昧な相槌で、彼女の言葉を受け流した。
病院の屋上で大谷は煙草をくわえる。見下ろすと、久保詩織と両親が談笑しながら家に帰るのが、かすかに見える。ライターを探して白衣のポケットに手を突っ込むと、手が別のものを捉えた。ぐしゃぐしゃに丸められた紙だった。大谷は目を細め、丸まった紙を広げる。紙にはこうあった。
この紙が最初に大谷啓介先生の手にわたることに賭けます
大谷先生、許して下さい
僕はたとえ世界中が敵に回ろうとも詩織を助けたい
詩織の脳が限界を迎えた今、詩織を救うにはこれしかありません
樋口すみれの人工呼吸器の主電源を切りました
僕が樋口を殺しました
先生はたまたま手に入った脳を使って詩織を救って下さい
そして、詩織が意識を戻す前に詩織の僕に関する記憶を消してください
僕は人殺しです 詩織と共にいる資格はないし逮捕でもされれば詩織の心がショッ
クを受けます 詩織の脳にこれ以上負荷をかけると命が危ない
僕はこのまま詩織の前から消えます
それしかないんです
できることなら一生そばにいてこの手で笑顔にしたかった
でも今はこれが最善の手で、先生がこれを読むころには詩織は笑顔を取り戻してい
ると信じます
ではお元気で 平丘祥吾
アイツは賭けに勝った。彼は取り返したのだ。世界で一番愛する人の笑顔を。大谷はライターの火で紙を燃やす。煙の行方を見遣りながら、大谷は感傷にふける。平丘からのメッセージを受け取って手術準備に取り掛かる前、再び人工呼吸器の主電源を入れておいた。樋口の死を病棟に報告し、死後CTを撮るといって遺体を預かり、隙をみて手術を行った。状態が状態だったので、植物状態の末に力尽きたという設定に誰も疑いは持たなかった。少なくとも平丘が逮捕されることはなさそうだ。
――これでよかったのだろうか。
未来は誰にもわからなかった。平丘たちにとって最悪な不運が襲い、大谷自身ももうだめかと思った。でも平丘は自分を犠牲にしてまで、詩織の帰還を望んだ。結果詩織には、何の障害も残さず覚醒するという幸福が訪れた。
大谷は紙が燃え尽きたのを確認すると、空に向かって小さく敬礼をした。
平丘祥吾のその後は依然として知れない――。
【短編】トリフォリウムの記憶 雪月千尋 @chihiro2001
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