3話
早朝の張りつめた空気に輪をかけて、強烈な緊張が二人の間に走る。
「僕が死ぬ?」
「まあ、命が損なわれるわけじゃない。そうなりかかってるのは彼女のほう、だろ?それは変わらない。」
男は試すような視線を僕にぶつけてくる。
「覚悟を聞いてるのさ。俺の言う通りにやったら、お前の人生は無茶苦茶になるかもってことだ。人間にとってはそれも死だろ?」
僕の背中に汗が流れる。
「僕の人生を壊せば詩織は必ず助かると?」
「必ず、ではない。お前の彼女が生きるか死ぬか、お前の人生が灰になるかならないか、これは今まったくわからない。俺らみたいなチンケな存在は幸運が降ってくかもしれない場所にただ向かうことしかできないのさ。」
突然きた怒涛の展開に脳が追い付かない。ただ、この得体の知れない男からは本気度みたいなものを感じた。そしてやたらと覚悟があるか聞いてくるのは――、
――今コイツは僕がやるって言うまで策を授けない気だ。
男はさっきまでとは打って変わって、黙って僕を見ていた。
”付き合っているガールフレンドの命のためにお前は人生を投げ出すのか”
言葉にしてみればシンプルだ。僕は胸に手を当てる。あの日から時を止めた心。氷漬けにして保存してあるあの時のままの心の傷に思いを馳せる。その傷の深さが、僕にとって詩織はかけがえのない存在なのだと教えてくれているような気がした。また一年前のように二人で笑いあいたい。二人で生きていきたい。
ふと、遠くから救急車がこの病院に向かっているのが見えた。
「サイレンを止めているってことは、間に合わなかったんだな。DOA(来院時心停止)だ。」
男が誰に聞かせるでもなく呟いた。僕ははっとした。間に合わないことだってある。あの救急車の中で今一つの命がこの世からこぼれ落ちたのだ。僕は思わず病棟を振り返った。詩織の命も、僕がいるこの世界からこぼれそうになっている。それを僕はずっと自分のせいだと悔やんでいた。でも一度こぼれてしまえば、もう絶対にすくいあげることはできない。
――僕にはまだチャンスがあるということか。
僕の凍結した心が自らに与えられた使命を理解したかのように、ゆっくりと熱を取り戻し始める。
「僕のすべてを懸けて詩織を救います。僕は何をすればいいのですか。」
再び動き始めた僕の心は理解していた。今までは自分にまとわりつく罪悪感しか見えてなかったということ。そして、詩織はいつまでも一緒にいたいと思える唯一の存在であるということ。
「お前の意志は分かった。ついてこい。クローバーのお姫様を救おう。」
踵を返した男に僕は慌ててついて行く。
「お名前を教えてください。」
男は立ち止まらずに、こちらを見て答えた。
「大谷啓介。日本脳外科界の隠れた天才さ。」
大谷に連れられて僕はMRI室に来た。まだ通常の外来は始まっておらず、部屋には僕と大谷だけだった。大谷は慣れた手つきでパソコンを起動し、なにやら操作を始めた。しばらくしてからこっちを振り返り言った。
「今から詩織を救う手立てを説明する。無駄だろうけどちゃんと科学的根拠を示しながらやるから、頑張って聞けよ。」
そして大谷による僕一人への講義が始まった。大谷は、オペの前後に撮影した詩織の脳のMRI画像を指差しながら歯切れよく説明していく。あまりに専門用語が多かったため、理論的なところは全く分からなかったが、僕がやらなければいけないことに関する部分だけを要約するとこうなる。
詩織が搬送されたとき、内蔵や血管に深刻なダメージはなかったが、脳の損傷が酷かった。現在の医療では手の施しようがなかったので、術者だった大谷は、まだ認可されていない、人工的に脳の機能(主に神経をとして各器官に命令を伝える機能)を肩代わりする装置を詩織の脳に併設した。手術は成功し詩織は一命をとりとめたが、脳の機械をつけたまま目を覚まさせると、術後に詩織の人格や記憶に致命的障害が発生する。なので大谷は手術と同時に、およそ400日程度、詩織が生命は維持するが目覚めないように処置をした。そして病院内で、詩織を完全に目覚めさせるために必要な、詩織の脳の損傷部分を補える素材が手に入る機会を待っていた――。
この要約を大谷に伝えると、大谷は静かに顎を引く。
「まあ、それくらいの理解でいいだろう。今、姫の脳機能の40%は機械が担っている。このままでは起こせないから、姫に適合する人間の脳の一部を移植して、完全な脳にしてから起こす必要がある。」
「他人の脳を移植して詩織には問題ないんですか?」
「適合しているといっても当然様々なリスクはある。機械のまま起こしたら絶対だめで、それよりはマシってだけだ。」
やはりリスクは大きい。しかし立ち止まってもいられない。幸運の降る所へ足を進めるんだ。大谷は続けた。
「移植手術の際、他人の脳による意識の混乱を防ぐため、狭い範囲なら記憶を改竄してやれる。でもまあ世界のだれもまだ使っていない器具をもう使用してしまってるんだ。危ない綱渡りはもう始まっている。」
「僕は何をすればいいのでしょう?」
大谷はより真剣な表情になって言う。
「一昨日まで、適合者は一人も現れなかった。未認可の機器を使っている以上、院外からの提供は受けられない。そして期限の400日までもうない。こんなギリギリの状況で昨日ある患者がウチにやってきた。」
僕は大谷から簡易カルテを受け取る。名前の欄には樋口すみれとあった。
「彼女は先日自殺を図り、現在植物状態で脳死寸前の患者だ。しかし、俺らが待ち望む姫の脳との適合者だ。こっちは素材として脳を拝借したいだけだから、この状態でも迅速に手術が行えればこんな状態の脳でもいいんだ。例え死亡後でも2時間以内なら何とか使えるくらいさ。」
僕は生唾を飲む。大谷は僕の顔を覗き込んで言った。
「お前が脳の提供を取り付けるしかない。これだけは俺ではできない。俺が依頼すると、ウチの病院という組織が公的に未認可の治療のドナーを一般の患者に依頼したことになる。そうなると問題が大きくなって、姫がもし回復しても、姫の人生に決して無視できない影響が及ぶのは分かるな?」
僕はうなずく。確かに僕がやるしかないだろう。詩織の親は、娘が未認可の治療を受けていた事実に取り乱すかもしれないし、詩織と関わりが薄い人がやるわけにもいかない。
「やります。」
何でもすると覚悟は決めていた。大谷は僕に諭すように語りかける。
「今から1時間後、樋口すみれの親が面会に来る。そこで説得しろ。多分それが姫を救うラストチャンスになる。」
僕は運命が大きくうねりながら終着点に向かっているのを感じていた。僕が僕と詩織の幸せを叶える。
僕は拳を握りしめた。
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