2話 

 僕は、平丘祥吾は病室にいた。同一の空間の中に、たった二つの呼吸。けれど一方は一年もの間眠り続けている。

 詩織の両親に声をかける直前に、僕ははっと思いとどまった。僕が詩織の両親に話しかけ、詩織の彼氏であることを告げ、あの日のことを包み隠さず告白し、僕のせいだと頭を下げる。両親は戸惑いながらも口を開く。

(あの事故はきみのせいじゃない。)

僕の中の仮定の世界でここまでたどり着いたときにようやく気が付いた。――僕は許されようとしている。凍結した心の傷を埋めたくて、罪の意識から少しでも逃れたくて。

 僕は違う患者へお見舞いに来た人にふりをして、俯いて両親とすれ違った。両親の影が、この階から姿を消したのを入念に確認して、僕は詩織の部屋に入ったのだった。ここにいることは贖罪だったはずなのに。いつしか僕の心の負担を軽くするためにここに来ていたのか。僕は歯を食いしばり、自分に襲い掛かる何かに耐える。


 しばらくそうしていると、昨日はなかった花がおかれているのが目に留まった。シロツメクサだった。今の僕にはシロツメクサの白い花弁が眩しい。目を細めると、僕の脳裏にいつしかの会話が蘇った。

――ねえ、ショーゴ。四葉のクローバー探さない?

――ガキかよ。俺ら高二になったんだぞ?

――関係ないよ。一番好きな花なの。

――幸運を呼ぶから?

――それもあるけど、昔知らない男の子がくれたの。お守りにって。

――なんだそれ。なんでもいいけど土で買ったばかりの服汚すなよ。


 それは何でもない日常のワンシーンだった。けれど彼女について何も知らないと思っていた僕には、やるべきことを示されたような気がした。

 一年の中で、僕はいつの間にか罪の意識から逃れようという思考に陥っていた。心のどこかで詩織が目を覚ますことを諦めていたのかもしれない。

 詩織に四つ葉のクローバーのお守りを捧げよう。詩織と詩織の家族の幸福のためなら喜んでどんな不運も被ろう。どれだけ凄惨な悲劇も演じよう。




 この病院には、庭があって入院患者の憩いの場になっている。前、病室への道を間違えたときに偶然足を踏み入れたが、そこにシロツメクサが咲いていたはずだ。できれば四つ葉のクローバーを探す時もできるだけ詩織のそばにいたい。クローバーをさがすならここがいいと思った。

 一応、四葉のクローバーを探し回る高校生と噂になったり、変な心配をかけたりしたくないので、クローバー探しは早朝にやることにした。 


 朝五時、さすがに庭には僕一人だった。早朝のクローバー探しの許可を昨日看護師に頼んだらあっさり受理された。夜勤当直明けの看護師が僕を庭まで連れてきてくれた。もはや僕は病棟の有名人なのかもしれない。

 群生するシロツメクサのそばにしゃがみ込み、クローバーを覗き込む。こんなこといつ以来だろう。今の僕にはこれしかすることがないのだ。僕は黙々とクローバーを選別する。

 「久保詩織に手向けるのかい?」

僕は唐突な声にぎょっとして、声の出所を探る。体を180度回転させたところで、白衣の男性と目が合う。ベンチに腰掛けた細身の男性がまっすぐにこちらを見ていた。僕はかすれた声で尋ね返す。

「なぜ詩織のことを?」

病棟で見たことのない顔だった。白衣を着ているから医師ではあるのだろうが。

「彼女が救急搬送されたときに私がオペを担当したからな。」

 僕は突然の告白にたじろぐ。男は続ける。

「自分にできることは、彼女の幸運を祈ることくらいってか?それとも単なる罪滅ぼしか…」

名も知らない男の、どこかこちらを見透かし、蔑むような口調に僕の全身の血流が逆流する。

「あなたに何がわかるんですか」

男は動じない。

「分かるさ。言っておくがあの時ウチのベッドは満床だったのに俺が無理矢理受けてやったんだぜ?そんで見返りとして、あとで救急隊員にお前らのことをいろいろ聞いたってわけ。」

それいいのか?僕は呆然と男を見つめる。

「それで?なんで健康体のお前が病院でクローバーをいじってるんだよ」

男の目が鋭さを増す。彼は俺に何が言いたいのだろう。

「僕にはこれくらいしかできないんです。」

僕はできるだけ決然として見えるように言った。男はため息をつく。

「いいか。幸運ってのはな、確かに偶発的な事象だが、誰の頭上にも降り注ぐわけじゃないんだ。幸運が降ってくるかもしれない場所にいるやつが幸運に恵まれるんだ。」

よくわからない。けれど胸騒ぎがした。今から僕の考えが叩き潰されるような…

「例えばな、お前がいじってるクローバー。北欧じゃトリフォリウムというが、どうやって四葉が生まれるか知っているのか?」

考えたこともない。僕は首を振る。

「踏みつけるのさ。葉っぱをな。その衝撃でクローバーは高確率で四つ葉になる。つまりな、幸運の象徴四つ葉のクローバーも、得るために努力したヤツとただ偶然に期待してるヤツじゃ全然違うのさ。で、お前は後者な。彼女がよくなりゃいいのになあとぼんやりしているだけさ。」

容赦ない言葉が闇の中から僕の輪郭を明瞭にしていく。詩織のためにお守りをって言ったって結局それも自分が楽になりたいだけだったのか。

でも――。

 俺はかろうじて言葉を返す。

「そうだとしても、ただの高校生が今の詩織をどうにかできる手立てなんて思いつきません。」

男は片頬を歪めて笑った。

「だろうな。だからお前を焚きつけつつ、提案を持ちかけようと思ってな。この案が上手くいけば愛しの彼女は目覚める。」

僕は愕然とした。詩織のオペを担当した外科医が、治療の提案をなぜか僕にしている。

「ただし…」

男のはいたずらっぽく笑う。

「上手くいかなければ、いや、うまくいっても、死ぬかも」

「詩織が…?」




「…いや、お前が、だ」

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