【短編】トリフォリウムの記憶
雪月千尋
1話
幸運とは、人々の間を絶え間なく流れるものだ。この世界の幸運の総量は決まっていて、誰かが幸運になれば、誰かに不幸が降り注ぐ――。
これはあの日以来、僕が得た真理だ。でも望んで得たんじゃない。あの日から僕の心は凍結している。目の前で眠る女の体動と共に。大学病院の病室の中、無機質な心電図の音が僕の脳に侵入する。まるで目の前の彼女に起きた惨劇を忘れさせまいとするように。
――言われなくても忘れないさ。
僕は心中で吐き捨てる。
その時、静かに扉が開いた。
「祥吾君、面会終了時刻よ」
看護師が穏やかに僕に告げる。その声に同情の色が混じる。その色から目をそらすように、僕は全く違う思考に逃げる。
(とうとう下の名前で呼ばれるようになってしまったのか。最初の頃は平丘さんって言われてた気がするけど。というか5時間もここにいたのか…)
窓を見遣ると、とっくに日は落ちていた。病室の主、久保詩織は僕が来た時の寸分変わらず眠っている。僕は音を立てずに病室を辞する。個々の病棟の看護師たちの悲哀の視線が煩わしかった。
”あの日”、僕は初めてスタメンを勝ち取ったバスケの試合で、詩織に最高の活躍を見せたかっただけなのだ。詩織は高一で付き合ってからずっと、バスケ部の補欠である僕がレギュラーを奪取すべく奮闘するのを応援してくれた。僕も詩織のためを思うと、よりいっそう一生懸命になれた。だからこそ、高二の夏の大会にはじめてスタメンに選ばれたときは、安堵や嬉しさで膝から崩れ落ちそうになった。詩織に報告すると、僕以上に喜んで、試合を見に行くと言ってくれた。僕は何が何でも活躍すると誓った。
試合当日の僕は絶好調だった。練習よりも数段良い動きができている実感があった。でもそれよりも運がよかった。こぼれ球やゴールリングにはじかれたボールが嘘のように僕のところに集まった。僕は初スタメンながらに、その試合の得点王になった。詩織は幸運の女神だと本気で思った。
だがそれはまったくの思い違いだったと気づかされることになる。
集中のために試合が終わるまで詩織とは目を合わさないようにしていた僕が、試合後、勝利の喜びを分かち合おうと観客席に目を向けると、そこに詩織の姿はなかった。不審に思っていると、背後から肩を叩かれた。
「平丘君、一緒に来て下さい。久保詩織さんが――。」
そこからの記憶ははっきりしない。誰が試合場で声をかけてくれたのかも覚えていない。詩織は試合場に向かう途中に事故にあった。自転車をこいでいた詩織と車の衝突事故。車の運転者は軽傷ですぐに119番したが、その時救急患者の受け入れが可能だった病院が見つからず、意識を失った詩織への処置はかなり遅れた。一命はとりとめたが、意識はもどっていない。詩織の搬送された病院に誰かの車で送ってもらっているときにこれらの情報を伝えられていたようだが、病院に到着したころには何も覚えていなくて、看護師にもう一度説明してもらった。
そのあたりから記憶もはっきりしている。話を聞くうちに、周囲が黒く塗りつぶされていき、見えない非難の視線が僕に突き刺さっているようだった。
「もし、僕が試合に呼んでいなければ…」
「詩織は試合に気がはやって車に気づかなかったのではないか…」
僕はその思考から抜け出せなくなった。試合中の僕の幸運は、詩織の受け入れ先が見つからない不運を誘発したのではと思わずにはいられなかった。そして、看護師の最後の一言が僕の心を切り裂いた。
「久保さんは、意識が完全になくなる寸前、救急隊員にバスケの試合が終わるまで、あなたの耳にこのことが入らないようにしてくれと頼んだそうよ。」
詩織は意識が消失するまで、いや多分消失してからも僕に気を遣っていたのだ。おそらく看護師は、僕を元気づけようとしたのだろう。彼女は僕を恨んでいないと。僕のせいではないと。だが、僕の心はそれを聞いて時を止めてしまったのだ――。
今なお僕の心は凍ったまま動かない。心の傷もあの瞬間のままだ。ほかの感情や情動を受け入れようとしない。あれから一年たっても詩織は目を覚まさない。生きてはいるが、脳へのダメージが強く意識が回復しないのだ。
僕は詩織にたくさんのものを貰った。なのに僕は自分のことばかりで詩織には何もしてこなかった。少しシャイな詩織は自分のことを話したがらなかった。だから今、僕が病室に、詩織が好きなものを持ってくることができない。詩織のベッドのそばには、家族からだろうか、常に花が飾られていた。
その花を見ていると僕が詩織に見舞いの品を得意げに持ってくる権利なんてあるのだろうかと思えくるから、僕はこの病室に何も持ち込んだことがない。
――さっき病院を後にしたのに、もう病室に行かなくてはと考えている。あそこにいるとき以外は罪の意識で押しつぶされそうになる。あそこで眠る彼女のそばにいたい。そうするべきなのだ。これは贖罪なのだから。
翌日、土曜日の朝、僕はまた病院に向かう。病院に向かう道は、途中、少し高校への道と被る。かつてのチームメイトは受験勉強に励んでいる。僕はあの日から部活に行ってないし、受験勉強なんて一切していないけれど。歩を進めながら僕は、付き合い始めて一か月ほどたったとき、一緒に登校しようかという話になったことがあるのを思い出した。けどお互い照れて、冷やかされるのが嫌とか何とか言って、結局しなかったっけ。些細な思い出一つ一つが僕を苦しめる。僕は唇を噛み、病院へ行く足を早めた。
病院に着き、受付に訪問理由を告げると、看護師は戸惑った表情を浮かべた。
「今、詩織さんの両親がいらっしゃってるの」
僕は息をのんだ。僕は詩織の両親に会ったことがない。ほとんど毎日病室に行っているのに、ただの一度も見たことがない。
会うべきだろうか。会って誠心誠意謝るべきだろうか。僕が直接の原因ではないから困惑させてしまうだろうか。僕は逡巡した。
(いや、会って自分の気持ちを打ち明けて謝るべきだ)
僕は看護師に曖昧な目礼をして、病室に向かった。詩織の病室のある三階の廊下を歩いていると、詩織の病室から、男女二人が出てくるのが見えた。間違いなく詩織の両親だった。僕は手が微かに震えているのを感じた。
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