次男の方は

文野麗

第一話

 途切れることなく次から次へとまあまあまあまあたくさん出てくること出てくること。ラッシュ時というのはいかんね。こんな時間の電車になんて乗るもんじゃない。まだ降りる連中が降りきっていないのは見えているだろうに、車掌が発車ベルを鳴らしやがるから気が急いた。俺はまだ乗ってねえんだよ。置いていくつもりか。

 なんて焦ったけれども、列に続いて急いで前進したら乗り込めた。この快速に乗って途中で鈍行に乗り換えて、また鈍行に乗り換えれば目的地には着くわけだ。俺は掴まれる吊革を見つけて足場を確保して、さっき見ていた映画の記事を見ようとスマートフォンをズボンのポケットから取り出した。今日は泊って明日には逃げてくるから、明後日もしくは明々後日には映画館へ行けるだろう。何時から始まるんだいとページを下っていたその瞬間、スマートフォンが震えて上部に通知が来る。

――今夜会えない?――

 確認するまでもない。一美ひとみからだ。

――行けん――

――そうなの? 今夜会えたらすごーく嬉しかったんだけどなあ――

 お前がそれを言うか、と俺は思う。思うだけじゃなく声に出して言いたくなる。だがこんな大勢密着した車内で声を出せば周囲の全員がスマートフォンに目を落としたまま俺を不審者と見なして警戒しはじめるに違いないから何も言わない。何も言わないが、やりきれん。

 さきの一美の発言だってどこまで営業でどこから本音なのかさっぱり分からない。そんな相手のために、よくもまあ俺は。

 一美とは出会い系アプリで知り合った。「恋愛経験少ないのでリードしてほしいです」とか何とかいうプロフィールだったのに、蓋を開けてみればバツイチ子持ち。売春をして生計を立てているんだとか。アプリは営業の一環だとかいうから泣けてくる。実際出ていった旦那と付き合う前はほとんど交際経験がなかったというが、そんな理屈が通ってたまるか。すぐに離れりゃ良かったものを、俺はただ惰性から関係を続けてしまい、ホテルを出る前に五千円札や一万円札を何枚か渡してやったら喜ぶあの女とまだ続いている。それでも生活のために身体を売っていると聞いたのはずいぶん後で、知らないで付き合ってお小遣いをせびられているおっさんが何人かはいるらしい。ひどい話があったもんだ。だが一美曰く、俺はもうただの常連じゃないんだとか。だから本当のことを話したんだと言っていた。

 故郷のことを考えると色々思い出される。今でこそあんな女に引っかかっている俺だが、昔は良い身分だった。小学校に上がってから高校を卒業するまで、何度学年が上がっても、クラスにいる女子の半分は確実に俺に惚れていた。バレンタインデーなんか、たくさんのチョコレートを持ち帰るために手提げ袋を余分に持っていかなきゃならなかったくらいだ。女なんて向こうから勝手に寄ってくるものだと思っていたし実際そうだった。俺の方から本気で惚れたのは照ちゃんくらいだったけれど。高校生のとき文化祭で、演劇部は《お気に召すまま》をやったのだが、俺がタッチストーンの役、照ちゃんはオードリーの役だった。そいでそのまま仲良くなって、本当に付き合った。照ちゃんは学校一可愛かった。誰もがうらやむ美男美女カップルで、嗚呼あの頃は良かったねえ、何やかんやで別れてしまって惜しいことをした。あのままあの子と続いていれば今頃はもっと違ったかもしれない。だが結局俺は東京へ出て、照ちゃんも東京へ出て、あちらは大学へ入り、こないだ結婚したとかいう話を聞いた。それにしても、あのときの打ち上げで、みんなで演劇命と乾杯したのに、本当に役者になろうとしているのは俺だけで、みんな良さげな大学へ入って良さげな職に就いてしまった。どうなっているんだ。確かに俺もそういう道を行けば安泰で不満なぞ感じなかったかもしれないが、そもそも俺は昔から真面目になれなくて、不良とまではいかないが、中学で酒とタバコを嗜むようになり、深夜徘徊したり学校をふけてゲームセンターへ行ったりして、何度か補導された。根本からだらしなく出来ているから未だにまともな職に就かないのも仕方ないというか、とにかく親は泣いているだろう。そもそも今日は泣かせにいくんだ。

 一美の子は五歳だか六歳だかで、とにかく来年に小学校へ上がるらしい。先日などは、まあ百パーセント一美の差し金だろうが、俺の顔を見て、怯えきったようすで「パパ」と言いやがった。やめてくれよパパなんて呼ぶな虫唾が走る俺はお前のパパじゃねえよと言いたかったが、子ども相手だからそうは言わず、微笑みながら嗜めるといったような曖昧な表情で答えた。そしたらますます怯えたようだ。その夜一美が、子どもを小学校へやるのに金が掛かると言い出した。

「義務教育じゃねえの?」

と聞くと

「義務教育って言ってもタダなのは教科書代と授業料だけで、算数セットとか絵の具とかピアニカとか、いろいろ買わなきゃいけないんだよ。ランドセルも中古じゃ可哀そうだし」

 そう言ってしばらく口を噤んでから、加えて滞納している家賃も払いたいから三十万くらいほしいと懇願してきた。俺は射精した後の爽快感と気が大きくなっていたのとで、何とかしてやるとかっこつけてしまった、だがどう考えても、昼はスーパーのレジ打ちをやって夜は稽古をしているだけの俺にそんな金はない。いよいよ捨てて逃げようかと思っていたら、あの一美が、芝居なんて興味ないだろうに公演を見に来た。暗い客席の端っこで、懸命に拍手していた一美。仕方ない。頼れるのは実家だけだ、と意を決して俺は親父に借金を申し出ることにした。知らない男の子どもを小学校に行かせるために、恥をかいてくるよ、俺は。


 なまじ東京に近いせいで、新幹線の駅を置いてもらえないこの田舎。鈍行列車はのんびりまったり走ってやがる。席に座る乗客はまばらで、あちらこちらから話し声が聞こえる。一番うるさいのは背後のじじい二人で、最近流行っている質の悪い感染症の話を飽きもせず延々と大声で続けている。俺の隣の席では、――ボックス席だから四人掛けなんだけど――老婆が靴を脱いで向かいの席に足を乗せている。それはマナー違反だぜ、婆さん。たぶんだけど。まあ仕方ねえ年寄りだから。斜向かいの席には中年親父が眼鏡をかけて本を読んでいる。良く見えねえから目を凝らすと、どういうことだ、あれは洋書じゃねえか。驚いた。こんな大学もない田舎で洋書に目を通すとは、いったい何者なんだ、あの親父。

 

 いつ見ても広い家。汀内科胃腸科の大先生の家と言えばみんな分かる。門を通って庭に入れば兄貴の子、春人とか言ったっけ、三輪車を乗り回している。近くにいた兄嫁が挨拶したので返す。兄嫁は春人の背中に手をやって挨拶を促したが、春人はくるりと後ろを向いて逃げていった。怒って子どもの後を追う兄嫁の背中を眺めていると、

「創太でねえか」

と低い声がして、祖母が姿を現した。そうだ。昔から、親も親戚もみんな兄をちやほやする中で、婆様だけは俺の派閥だったんだ。

「おめえ創太だっぺ?」

「そうだよ」

けえってきたか?」

「ちょっと来ただけだあよ」

 俺が普段隠している地金の茨城訛りを解放すると、祖母が悲哀に満ちたとでも言ったような大げさな顔をして

「創や、けえってこうよ。俺ぁ朝仏壇に向かって手合わせるたんびに創太が帰ってないかな? ないかなと思うだよ」

と俺の胸をズキズキ痛ませることを言う。

「おめえ信幸に似てきたでねえか?」

信幸とは父の名だ。

「それは老けたってことかい? 婆ちゃん」

「違う違う。言ったっぺ? おめえの面は町内一だよ」

「町内一じゃない。日本一だよ」

「上がれよ。あれだ。ゼリーあっから」

 祖母は腰の上で両手を結んでてくてく玄関から入っていく。

「和子さーん、創太がけえってきたよー」

 靴を脱いで床のひやりとした感触を感じていると、母がエプロンで手を拭きながらやってきた。

「あんた来てたの?」

「今来たところ」

「手洗った?」

「まだだよ。今来たっつったろ?」

「すぐ手洗う! 今コロナコロナで感染したら大変だって大騒ぎなんだからもう。あ、あとうがいもちゃんと! 早く!」

 母さん、俺は変な女に捕まって、大金を渡さなきゃいけないんだよ助けてよと言いたかったが言えなかった。

「今夜おかずどうすんのー」

 悲鳴を上げながらのしのし立ち去る母を俺は見送った。

 手を洗ってうがいをして、とりあえず自分の部屋に行くと、春人のおもちゃが大量に押し込まれていて足の踏み場もねえ始末だった。しょうがねえからまた一階へ降りて、今度は祖母の相手をすることにした。本当はこの時間なら刑事ドラマの再放送を見たかったのだが、祖母が健康番組の再放送を見ているから大人しく諦めた。半田さんの奥さんだかにもらったとかいう箱入りのゼリーを食べながら、祖母の世間話を聞いてやった。それにしてもずっと俺と一緒にいるから、

「春人と遊ばなくていいの?」

と聞くと

「俺ぁ嫌われてっから」

と俯く。なんだか可哀そうになって、婆ちゃん、あんたその歳でどんな扱いを受けているんだい? 俺はな、何があっても婆ちゃんの味方だからよ、と言いかけたが、そんなことを言えば「なら帰ってこい」という話になるからあえて口に出さず、テレビの真似をして、“肩こりを治す体操”をやっている祖母の肩を揉んでやった。

「こりゃあいいねえ最高だあ」

 祖母の髪はだいぶ少なくなっていた。あんまり見ないようにした。

 そのうち相撲が始まって、祖母は力士のことを一人一人説明してくれたが誰が誰だかさっぱり分からねえ。段々と口調が辛辣になっていって、最後の頃には情けない情けないとそればかり言うようになった。どうして年寄りってのは、相撲に関してだけあんなに厳しいのかしらん。


 兄の家族と夕食は別らしくて、俺は父と母と祖母と四人ですき焼きを食べた。

 祖母が寝に行ってから、俺は父に向かって切り出した。一番情けねえのは俺だ。

「父さん、ちょっと金貸してくんない?」

「金だと?」

「ちょっと足りなくって。三十万くらい」

「そんなにどこで遣っただよ」

「競馬で擦った」

「こんの大馬鹿もん!」

 父は拳で机を殴った。

「金ってのはなあ、汗水たらして働いてようやくいただけるものなだよ。みんな稼ぐために苦労して苦労して、ようやくちょっとの給料を得て、その中からささやかな暮らしを送って我慢しているだよ。それをおめえ、競馬で擦っただあ? 冗談言うでねえ。そんなふざけた理由で親に金を出せなんて言う者あんめえよ!」

 そこへ、タイミング悪く奥の扉を開けて兄が入ってきやがった。

「創太来てんだって?」

「来てるだ。金をくれなんていうから今叱ってやってたところだ」

 すると兄は人の気も知らねえで大笑いしだした。

「何お前、阿保面引っ提げてお父さんに金の無心に来たの? で、怒られてんの? 馬鹿だねえ。アハハハハ。何、借金したか?」

「借金はしてない」

「そりゃ良かったねえ。アハハハハ」

 はしゃぐ兄のせいで、緊張した雰囲気が台無しになってしまった。父は難しい顔をしてそっぽを向いている。

 はしゃいだままさっさと立ち去れば良いのに、兄ときたら、余計なことを言い出した。

「まあお父さん、出してやんなよ。こいつもわざわざこっちの遠くまで来て頭下げてんだから」

 やめてくれ兄貴。あんたに庇われたら、俺は面目丸潰れじゃねえか。長男は立派だね。子どもの頃から優等生で、大学行って医者になって跡継いで。結婚して子どもも生まれて言うことなしだ。それに引き換え次男の方は、まともに勉強もしないで働きもしないで東京へ出てぶらぶらして、親不孝もんだね。大先生も可哀そうに。って、どこへ行ってもそう言われてるんだ俺は。理想の跡取り。真面目一辺倒のできた兄様あにさま。どうにもならない次男。

「いいよ分かったよ。いらねえよ金なんか。自分でどうにかするよ。ちょっと言ってみただけだよ」

「まあ金のことは心配するな。明日には片付いているから」

 親父が変な顔をしてぶつぶつ言うから、俺はタバコに火をつけた。兄は更に俺に話しかけてくる。

「それより創太、婆ちゃんが寂しがってっから、たまには顔を出さなきゃいけないよ」

 続けて親父が言う。

「そうだど。婆ちゃんは、前は創太の成人式まで生きるだって言ってたのを、この頃じゃ創太の結婚式まで生きるだって張り切ってんだから」

 また胸が痛んだ。俺にはどうすることもできねえ。

 黙ってタバコを吸っていたら、母がキッチンから顔を覗かせた。

「創太、早くお風呂入んなさい!」

 俺に風呂を勧めるなんて珍しいことがあったものだ。まあ、たまに帰ってくれば客人扱いで丁重にされるが、いざ本当に役者の道を諦めて帰ってきた日には、良くしてくれるのは祖母だけで、あとの連中は俺のことなんか放っておいて見向きもしないんだ。

 

 目が覚めて、がらくたの山の中で適当に着替えて一階へ降りると、朝食が用意してあった。なんだろうね、無気力に咀嚼していると、母が相変わらず不機嫌な様子で俺の前にやってくる。

「もう二度と競馬なんかやるんじゃないよ」

と言いながら銀行の名前が印刷された封筒を渡してくる。

「色付けて三十五万にしといたから、二度としないと約束しなさい」

「しないしない」

 本当に分かってんのかねえ、怪しいもんだわ、と言いながら母が去って行こうとするから、俺は慌てて引き留めた。

「いつまでに返せばいい?」

「馬鹿なこと言ってんじゃないよ」

 一喝して、今度こそ本当に去って行った。俺は脱力して食卓の椅子に戻り、味噌汁を飲んだ。


 金さえ手に入れば他に用はない。さっさと退散退散ってわけで荷物をまとめて家を出ようとすると、祖母がひょっこり顔を出した。何度も断ったのに俺の手の中にくゃくしゃに丸まった三万円を握らせてきた。

けえってきねえでもいいからよ、また遊びにうよ。うまいもの用意して待ってっから。来月でも再来月でもいいから、いつでも遊びにう」

 祖母は門まで送ってくれた。何度振り返っても手を振っているから応えた。どんなになっても、婆ちゃんだけは、悲しませたくないねえ。


 帰りもまた鈍行だ。乗り込んだのは俺一人。気まずくない程度に間隔が空いた座席に座る。今からは不肖の次男じゃなくって主役級役者の創太に戻るんだ。頬をピシピシ軽く叩いて気合を入れた。東京でこんなことをやったらみんなこちらを見ただろうが、田舎だから大して目立たねえ。大丈夫。

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