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「っ――」


 床に膝を着き壁に凭れ掛かる体勢のキールドはふと激しい腹痛を察知して目を覚ました。其れが排便を促す痛みであると察するのは簡単で、少しでも力を抜こうものなら堰を切ったように溢れ出すのが想像付く。何の前触れもなく思い出す下腹部の違和感に後孔が疼き、腸壁が動き出す。身体中の至る所に残る男の痕跡。心を満たすのは嫌悪か、否か。


「ぁっ――」


 思い出した悦に背筋が震えた瞬間に力が解れ、勢いよく後孔から流れ出たものがベチャグチャグチャッと湿った音を立てて床に叩きつけられながら広がって行く。やり場のない感情を振り払うように瞼を閉ざして眉間にシワを寄せ、下唇を強く噛み締めた。全てを出しきるのにそう時間は要さないが、ヒクヒクと後孔が疼き妙な残便感に襲われる。こんな光景をミシェルに見られたら、きっと嫌われてしまうのだろう。


「くそっ……」


 こんな事ならミシェルと既成事実を作ってしまえばよかったと一瞬でも考えた自分に嫌悪が深まった。


「俺はどうしたら……?」

「泣き言なんて兄上らしくないですね」


 ハッとなり振り返ると半年差で生まれた弟、第二王子のドレイク――と思われる声音の緋色を纏った男――が相も変らぬ静寂を湛えて立っていた。ゆっくりしている時間はありません。と言いながら手にしている鍵の束から目当ての鍵を探し出し、解錠する。


「くっ、来るな!」

「僕が鍵を投げたとしても、兄上が受け取る事は不可能でしょう。騒がずおとなしくしてください」


 足音を忍ばせながら近付く気配。


「派手にやられましたね」

「……放っといてくれないか。お前に関係はないだろう」

「大ありです。父が決めた兄上の婚姻には僕も反対なのですよ。あんな女性が妃になったら此の国が滅びます」


 蝶番を軋ませて手枷が外れると支えを失い上半身が傾いた。ドレイクに支えられ転倒を免れたが反射的に肩を突き飛ばす。だがキールドを支える手が離れることはなく。


「僕が手を離したら、兄上は汚物の上に横たわることになりますよ?」

「お前を汚すより数倍もマシだ」

「兄上に教えて差し上げましょう。汚れた服は洗えばよいのです。身体も同じ。……其れよりモ兄上。先ずは其のボロ雑巾のようになった着衣を脱ぎ捨てましょう。手伝いましょうか?」

「……自分で――」


 動くと全身が痛い。


「兄上」

「問題ない」


 フラフラしながら数歩離れ、辛うじて纏っている着衣を全て脱ぎ捨てる。完全に生まれた儘の姿を晒したキールドの肩にドレイクは脱いだ真紅のジュストコールをはおらせた。


「痛っ――」

「我慢してください。兄上、僕に背負われてください」

「は?」

「今の兄上はお荷物なので、おとなしく指示に従ってもわないと困ります」

「此れくらいの傷、別に――」


 数歩歩いたところで膝から力が抜け、其の場に崩れる。


「くそっ……あの野郎……」


 明らかに動けない原因は腰痛だ。ギリッと奥歯を噛みしめた。


「此の儘地下水道を通って町へ出て、ヘルシング卿と落ち合う流れになっています。急ぎましょう、兄上」


 ほら、早く。と急かされ渋々身を預けることに。其の際に密接した腰に下腹部のモノが触れて気まずさに顔が赤くなるのを実感する。ドレイクが足早に歩く振動が、時折ずり落ちそうになるキールドを抱え直す時の行動が、要らぬ刺激を生み出し、硬さを取り戻していくのを痛感した。流石にドレイクも気付いている筈だが、何を気にする風もなく、怪我の具合や体調を気遣う言葉を投げ掛けてくれたことに感謝しかない。牢獄が立ち並ぶ階層を二つほどおりた所にある牢の一つに、もう何十年も昔に囚人が掘った地下水道へ通じる穴があるそうだ。初めこそ修繕工事が行われていたが、工事が中止になって久しく今では誰も其の存在を覚えていない。工事の時に使用されていたと思われるランタンや燃料等も其の儘で、灯りを燈したランタンをキールドが持ち闇を照らす。穴の向こうは引っ切り無しに水が流れる音が反響し、肌寒い。コツ、コツ。と石畳の道なき道を進む足音には迷いがなく。


「地下水道は迷路のようになっていると、聞いたことがあるが?」

「ふふ、そうですよ。五年前に劣化により水路が破損し、修繕に立ち会ったのですが……巨大迷路に迷い込んだ錯覚に陥りました。まさかこんな事で役に立つなんて思ってもみませんでしたけどね」

「……そうか。……本来なら俺がすべき事を、全てお前に任せていたのが身に染みる」

「好きでやっているだけです」

「何故、自分が王になろうとは考えない? ドレイクは人望もあり、家臣達も俺ではなくドレイクに王座をと考えている者が多いと聞くが」

「…………」


 ふと、歩みが止まる。


「ドレイク?」

「兄上が国を継いで、僕が支える。子供の頃からの夢でした。でも兄上は人形作りの方がよいと次第に引き籠もり、僕を避けるようになった……」

「避けた心算はない。趣味に没頭する内に、自然と――」

「分かっています。でも、寂しかった……」

「……すまない」

「だからこうして兄上を背負えている状況が、嬉しくて、嬉しくて。此の儘兄上を連れ去りたいくらいです」

「ドレイクが居なくなったら、此の国が終わるな」

「買い被りすぎですよ。父上が居る限り、僕は王位を継げませんし、きっと大司祭様が嘗ての勢いを取り戻そうと侵食してくる事でしょう」

「……何も知らないのは俺だけか」

「何ですか、急に」


 再び歩き出す。


「俺の知らない所で、何かが起きているような気がしている」

「だとしても、兄上は其の儘知らないふりをしていればよいのです。僕達からしてみたら、兄上は外野ですから」

「寂しい事を言うんだな」

「当たり前です。だって兄上は……」


 再び止まるドレイクの視線の先には、豊かに流れる地下水と、ギシィ、ギシィ。と揺れるゴンドラが一艘。


「兄上、少しだけ自力でお願いします」

「ああ、わかった」


 肩に羽織ったジュストコールを落とさないように片手で押さえながら背からおり、先にゴンドラへ飛び乗ったドレイクに支えられながら乗り込んだ。一本のオールで水を押し、ゆっくり、ゆっくり流れに乗って行く。暫く水の流れに耳を傾け進むと、遠く向こうで闇が開けているのが視界に映る。ゆっくり、ゆっくり、ゆらり、ゆらりと揺れながら進み、完全に暗闇から脱した刹那。視界に白い影が映りる。白い影は一つ。また一つと増えていく。今更引き返すことなどできず、おとなしく岸へ寄った。


「Buona sera」


 深くかぶったローブと長い前髪で完全に目元を覆い隠した人物が発した声音には覚えがある。


「計画は中止デス。桃色スライムは既に包囲されていマス」

「そうでしたか……」


 指先まで包帯が巻かれた手を頼りにゴンドラからおりたドレイクは肩を落としながら拘束帯で身体の自由を奪われていく。状況が読めずに目を丸くしているキールドも二人の白いローブを纏った者に支えられながらゴンドラを降りた。


「ミシェルサンはヘルシング卿が保護しマシタガ、状況が状況な為に代行者の施設内で投獄中デス。場合によってはデスガ、明日の昼に婚姻式が行われるカモしれマセン」

「彼女の容体は回復したのですか?」

「海の魔女が大司祭サマに召喚さレて――」

「魔女は無事なのか?」


 キールドが声を荒げ、ドレイクは目を丸くする。


「解呪に勤しンでいマス。だいぶ落ち着きを取り戻シてきたカラ、後は時間の問題カト推測されマス。ルキサンが付き添っているカラ、メアリーは無事カト」

「よかった……」


 安堵の溜息が漏れた。


「……意外ですね。兄上が他人の心配をするなんて」

「彼女はミシェルの叔母らしいぞ」

「へぇ……え?」


 怪訝が浮かび、沈黙に満たされた。十数秒後に、アノ。とタナトスが声を出す。


「僕が介入できる事はもうナイデス。貴方達の行く末に、天使の守護があらンことを」

「ありがとうございます」

「先にドレイク王子を連行してクダサイ」

「Sì」

「Sì」


 二人の白いローブを纏った者に挟まれる隊列でドレイクは城の方に連れ去られて行く。


「お前達はいったい、何を企んでいる?」

「貴方が知る必要のない事デス。此れは我々の問題なので」

「……なるほど」

「キールド王子。物語の終焉は、刻一刻と近付いてきていマス」

「言われなくとも分かっている」

「悔いが残らないヨウ、生きなサイ」

「余計なお世話だ!」

「そうデスネ。……王子を連行シてクダサイ」

「もう自分で歩ける」


 両脇から腕を支えようとした白いローブを纏った者達の手を振り払う。向かうは城内に在る自室だった。待ち構えていたメイド達によって備え付けの浴室へ連れて行かれ、身体の隅々まで綺麗に洗われる。其の際にすっかり忘れていた痛みが呼び起こされたのは言うまでもない。丁寧に髪を乾かされ、何度も何度も金の長髪をブラッシングされ、ゲルゲルグの治療薬――ゲルゲルゲの治療薬よりも希少価値があり即効性が凄まじい薄緑のモザイクが掛かった何かで質感はゲル状――を使った手厚い手当てを受け、レースが多い白のブラウスを着せられ、黒のズボンやソックスを穿かされ、フィット感が妙に気持ちの悪い膝丈のブーツを履かせられ、空色を基調としたジュストコールに袖を通す事を強要され、眼鏡をかけられいつもより豪勢な食事を提供された。

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