06:抵抗と代償

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 翌日の昼過ぎ。天候は昨日と打って変わり快晴だ。袖無しで赤を基調とし色合いの違う二種類のレースをスカート部分に重ね色が揺らめくエンパイアラインのドレスを纏った女は、いつも以上に煌びやかな宝飾で自身を飾っていた。一歩半後ろに白く袖や裾が長いワンピースに同色のヴェールで素顔を隠す蒼髪のミシェルが付き従っている。そんな光景を異様に思ったのはキールドだけではない。だが、二人の間に何があったのかを詮索する者は誰一人としておらず、キールドも其の一人だった。否。声を掛けることができないのだ。早朝には既に姿を消していたミシェルが、表情を窺うことはないが胸を張って人前に姿を見せている。纏う気配が赤いドレスの女以外との対話を拒絶しており、静かに見守るより他になく。


 場所は謁見広場に集まった民衆達を見下ろせる三階のテラス。今は第一王子キールドの婚約者兼近日行われる式の報告を長々と国王が喋っている。誰もが話に飽きてきたところで名を呼ばれ、愛想がよさそうな表情を取り繕った。次期国王という立場に群衆達の期待が歓声の大きさで把握でき、通常ならば気分が真っ逆さまに下落していくところだが、今は幕開けと同時に姿を消したミシェルのことが気になって仕方ない。


 次いで赤いドレスの女が婚約者として紹介され、其の流れで歌姫と称され一曲披露することに。コツコツとヒールの音を鳴らして欄干へ近付くと群衆の歓声がピタッと止む。


「Haaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa――」


 澄んだ高音域の悲鳴が空気に響く。


「メメントー・モリ メメントー・モリ メメントー・モリ」


 少女の声音が詠う。其れは初めて耳にする言葉をもつ歌だ。ピリピリと肌を刺激する空気が場を満たし、物陰に潜んでいたタナトスとヘルシング卿は互いに顔をみやる。


「イラ・フルクトゥアト・ネク・メルギトゥル」


 忽ち頭上に黒雲が立ち込めゴロゴロと唸り、鋭い音が閃光と共に空を割く。


「アンテ・インサニーレ――」


 周囲のざわめきなど構うことなく続く歌が織り成す異変に誰もが気付いた時、突然群衆の中から悲鳴が響く。ふと我に返った者達が一斉に退き、円形に開けた場所に二人。同じデザインの服を纏った男と女だ。女は白目を見せながら、フー、フー。と鼻息荒く男の喉頸に食らい付いていた。歯が食い込んだ肉の隙間から清水のように湧き出す赤い、赤い、命がじわり、じわりと服を染めていく。騒めきはやがてパニックを呼び起こし、ぽつり、ぽつりと悲鳴が上がる度に近くに居た者の首に噛みつき、肉を引き裂き、命を貪る者達が増え続けた。


「ヘルシング卿! 今すぐに事態を収束しろ!」


 王が叫ぶと控えていた式典用の黒いスーツタイプの制服を纏った隊員達を従えヘルシング卿はテラスから飛び下りた。赤いドレスの女から甲高い悲鳴が上がったのは其れから数秒後の事だった。視界で確認できる素肌に人差指ほどの太さをした紐状の赤黒い痣が浮き出ているのだ。慌ててドレスと同色のショートグローブを取り払い絶句する。其れは蛇のようにゆっくりと蛇行しながら広がっていく。


「ひぃっ! わたくしの美しい肌がっ!」


 膝から崩れ落ち痣の進行を食い止めようと爪を立てるが意味はない。


「いやっ! いやぁあああああああああああっ!」


 何度も、何度も、皮膚を引っ掻き、毟る。


「おおおお落ち着けっ! 落ち着くのだっ!」


 王が床に膝を着き両手を掴んで制するも半狂乱に叫んだ赤いドレスの女が手を振り払うついでに顔を引っ掻き、手を離す。傷付いた皮膚はやがて出血し、ドレスをより深い赤へと染めた。


「殺戮の歌」


 動揺を隠せない感情が読めない声音が言う。コツコツコツとヒールを踏み鳴らし姿を見せたのは相も変わらず蒼を纏った妖艶な美女、メアリー。


「だっ、誰だ貴様はっ!」


 赤いドレスの女を背に庇いながら王が警戒を露わにした声音で尋ねる。


「名乗るほどの者ではないが、皆は私を蒼の魔女。或いは海の魔女と呼んでいる」

「お前の噂は知っているぞ、此の性悪な魔女め。此の騒ぎはお前の仕業かっ!?」

「感謝するがよいぞ、タヌキオヤジ。此の程度の犠牲で済んでいるのだからな」


 欄干越しに見下ろす狂暴化した人間達が同族を屠る広場は魔物討伐軍の参入により事態の鎮圧が進んでおり、誰も此方の騒ぎを気にする者は居ない。


「聞こえるかい? 沢山の足音が此方に近付いている。アレはきっと神の代行者達だろう」


 メアリーが言ってから数十秒後にハッキリと近付く足音が響く。騒ぎを聞きつけた神の代行者の神官将――優しいクリーム色のアルバの上に何かの植物を模した金糸の刺繍が刻まれた白いカズラを纏い、金の長髪を後頭部で一つに結っている穏やかな紫の虹彩をもつ美しい青年――が、数人の白のローブを纏った素顔の見えない者達を引き攣れやって来た。


「大司祭様の命により、彼女を連行します」


 美しい青年が言うと、素早く白のローブを纏った二人が赤いドレスを纏った女を両脇から拘束しようと近付く。


「嫌よっ、嫌ぁああああっ! わたくしは何も悪くないっ!」


 抵抗を続ける内に足を滑らせ尻餅を着いた。其れでも叫びは止まず、両腕を振り回して爪で引っ掻くそぶりを見せながら近付く者達をヒールで蹴りつける。激しく暴れまわった所為で靴が脱げ、スカートから美脚が晒され、ピスチェがずり落ち豊かな乳房が顔を覗かせるも、誰が気にする風もなく。


「……思っていたよりも、事態は深刻ですね」


 美しい青年は晒された素肌を眺めて眉を顰める。


「嫌ぁああっ、嫌ぁああああああああああああああああああ――」


 蛇のように蠢く痣を掻きむしるそぶりを見せる赤いドレスの女の背後に回った美しい青年は容赦なく後頭部を打撃して意識を奪う。


「早く彼女を拘束してください」

「Sì」

「Sì」


 白のローブを纏った者達はピスチェを在るべき場所に戻してから一人が脇を。もう一人が両脚を抱えて、もう一人の白いローブを纏った者と共に去って行く。王が慌てて後を追い、其の背を見送った美しい神官将はメアリーを一瞥してからキールドを見た。


「噂は私達の耳にも届いています。いずれ、大司祭様がお呼びになるかと」

「……初めから予想はしていた」

「件のお嬢さんには魔討へ殺処分の命が下る方向で話が進んでいます」

「其れがどうしたと?」

「王子が後悔しないように、教えておこうと思いまして」


 ね……? と再びメアリーに視線を向け、キールドに視線を戻して穏やかに笑う。


「タナトス。生存者は術者が対応するので、貴方は犠牲者及び暴徒の回収を。ヘルシング卿も連れてきてください。大司祭様が対話を望んでいます」

「Sì」


 物陰から飛び出した白い影がテラスから広場へ飛び下りる。


「お前は行かないのかい?」


 蒼い視線がキールドを見た。


「言い忘れましたが、王子。私はお嬢さんの捕獲を命じられています。捜し出すのに要する時間は……多く見積もって三十分くらいでしょうかね」


 何処からともなく取り出した懐中時計を確認しながら美しい神官将が言う。言葉を返さず足早に其の場を立ち去るキールドが向かうはいつもの場所だ。まだ静まる気配のない荒れた海から吹く風はゆっくり晒されている素肌から体温を奪っていく。空が泣き出すのも時間の問題だろう。少し前までの快晴は何だったのかと小さく漏らした。岩場にある大きな岩陰に立ち、向こう側へ向けて口を開く。


「ミシェル。其処に居るのか」

「……こんにちは。貴方は何方様かしら?」

「何故あんな事を?」

「何故? 分かり切った事を聴くのね。だってあたしは化け物だもの。抱いた憎しみに従い行動しただけよ。化け物は人間と違って理性で己を制御しないの」

「俺が知っているミシェルは化け物などではない。阿呆で莫迦だと思う事は多々あるが――」

「貴方が知らないミシェルはただの化け物なのよ。誰からも忌み嫌われるただの化け物」


 言葉を遮った少女の声音が退屈そうに言う。


「彼女の目の前で貴方を食べてやろうとも考えたわ」

「何故其れをしない?」

「もしも貴方が其れを望んでいるとしたら、呆気なさ過ぎて退屈だからよ。あたしは全てが憎らしい。此の世界はとても美しもので溢れている。どんなに願っても手に入らない物で溢れている……。其れが憎らしいの」

「ミシェル、俺は――」

「苦しみなさい。貴方の美しい顔に苦悶を浮かべて。其れがあたしの慰みになる」

「…………」

「苦しみたいのはあたしの方よ、キールド。でもあたしには其れさえもできないの。苦しいと感じている筈なのに。悲しいと感じている筈なのに。涙の一つも流せない。明確なのは憎しみだけ。ただただ全てが憎らしい。全てを壊してやりたいほどに、此の世界が憎らしい。さぁ、キールド。あたしを殺してちょうだい。貴方は魔討の一員でもあるのでしょう? 化け物退治は慣れている筈よ」

「……俺にはお前を殺せない」

「大した腰抜けね」

「何とでも言え。時期に神の代行者がお前を捜し出す。今の内に逃げよう」

「嫌よ。あたしは最期までイフェリアに留まるわ。そして破壊の限りを尽くすの。今のあたしは歌声一つで沢山の無辜の命を奪えるのよ。とても清々しい気分だわ」

「俺はお前が本当は何よりも歌を愛し、心優しい者である事を知っている」

「もう、歌なんてどうでもいい。どんなに願っても、心の底から欲した物は手に入らないの。あたしは自分の歌声に縋っていただけよ。其れしか誇れる物を何一つ持っていないのだから。今では誇りなど泡沫に消えた。美しい思い出と共に弾けて、消えた」


 遠くて近い場所に突如現れる気配。其れが神の代行者に属する者の気配であるとミシェルは察する。


「キールド。貴方は言葉であたしを改心させようとしたけれど、貴方の言葉に何の魅力を感じなかったわ。何故だか分かる?」

「……分からない。教えてくれないか……?」

「言葉一つ一つの音には神が与えた力が宿っているの。あたし達は其れを音霊と呼ぶわ。音霊の力を更に引き出すのが魔力なの。魔力は人心に直接訴える。ここで言う魔力をニンゲンの言葉で言い換えるなら、感情……かしら。ニンゲンは自分の感情を揺さぶられた時に強く音霊の作用を受けるのよ。貴方は音玉の力に頼っているだけ。上辺だけの言葉を並べている状態で、保身の為に感情を覆い隠している」

「…………」

「安心して、キールド。あたしは貴方を責める心算はない。勝手に期待して、絶望しているのはあたしだもの。自分自身でさえ、醜い容姿である事は自覚もしている。誇れる歌も、失った。もう此れ以上何も失うモノがない。もう何も怖くない。何が遭っても、あたしは貴方を赦すと約束するわ」


 ゆっくり、少しずつ、気配が近付いて来た。


「キールド。貴方を愛しています。心の底から、貴方だけを。あたしが愛しているのは歌ではない。貴方よキールド。ろくな役に立てなくてごめんなさい。あたしが彼女に掛けた呪は簡単に解かせたりしない。彼女は寝ても醒めても死ぬまで苦痛に苛まれる筈よ。式までの時間稼ぎになったら幸いだわ。後は自力で頑張りなさい」

「お迎えに上がりました」


 ふと聞こえた男の声。キールドが振り返ると先程テラスで顔を合わせた美しい神官将が穏やかな微笑を浮かべて立っている。其の背後に控えている数人の白いローブを纏い深くフードをかぶった者達が数人、キールドを拘束した。


「お嬢さんは此方へ来てください」

「…………」


 大岩の上からヒョッコリミシェルが顔を出す。頼りない足取りでおりたところを残りの白いローブを纏った者達が特殊な術式が刻まれた拘束具を使い捕縛した。


「王子。言わなくてもお分かりかと思いますが、抵抗はなさらぬようお願いしますね。殺さなければ何をしてもよいと許可を得ていますので。手荒な真似はする心算です」

「……代行者のくせに、やけに協力的だな?」

「誤解ですよ。我々はヘルシング卿の不始末に対する尻拭いをしているだけであって、事態の収束に向けて協力をしているわけではありません。大司祭様は、ヘルシング卿が魔に魅せられた故の不始末として此れを期に魔物討伐軍を始末しようとお考えです」

「手の内を明かす利益がお前にあるのか?」

「状況に流され生き続け、自らの意思で抗う術を持たない臆病者に手の内を明かしたところで、私の利益になるような事態が起こるとでもお思いで? 自身の存在価値を過信し過ぎだと思いますよ」

「貴方、笑顔が美しいのに酷い事を言うのね」


 ミシェルが溜息を漏らす。


「勿論ですとも。我々神の代行者と魔物討伐軍ヘルシングは犬猿の仲……体裁を保つ利益は大いにあります」

「そう。……早く連れて行きなさいよ」

「何故、そうも焦るのです? お二人はもう二度と、会えないかもしれないのですよ? 愛し合う者達を引き裂くのは、個人的に心苦しいのです」

「愛し合ってなどいないわ」

「愛し合ってなどいない」


 二人の言葉が重なった。


「そうですか。では、お前はキールド様を連れて城へ戻り、お前は先に大司祭様の元へお行きなさい。そして息を切らして、報告をするのです。彼女が抵抗の末に逃げた、と」

「Sì」

「Sì」


 白いローブを纏った者の一人が足早に立ち去り、もう一人が数秒の間をもって急ぎ足でキールドを半ば引き摺るように連れて行く。


「どういう心算? あたしは逃げも、隠れもする気がないわ。早く殺しなさい」

「秘密、です。我々の行動理由など、お嬢さんが知らなくてもよい事なので」


 言いながら美しい神官将が片手を頭の横まで上げると、白いローブを纏った者が一人、ミシェルの腕にそっと触れ聞き取れない言語の言葉を紡ぐ。手が離れるや否や、意図せずに腕が動き拘束帯を引き裂いた。ボッと小さな音を立てて燃えながら拘束帯の残骸がひらりひらりと舞い落ち、地面に到達する際には灰さえ残らず焼失する。


「さて。後はお嬢さんに抵抗をしてもらうだけです」

「……貴方は何を考えているの?」

「先程、秘密、と言いました」


 片手の人差指を立てて唇に触れさせ、穏やかに微笑んだ。


「時間がありません。急いでください」


 白いローブを纏った者達がにじり寄る。


「お断りするわ」

「仕方ありません。お嬢さんは抵抗をしてくれないようなので、二人で殺し合いなさい」

「Sì」

「Sì」


 白いローブを纏った二人が向き合い、何処からともなく取り出した銀の短剣で斬り合いを始めた。布が切れ、皮膚が裂け、一文字に刻まれる赤。傷を傷で抉り、湧き出す赤が白に滲む。飛び散った雫がピチャッと頬に触れ命のぬくもりを伝えた。


「やめてっ! 何故貴方達は何も言わないで従うのっ!? おかしいわこんなの!」

「我々は神の地上代行者。如何なる時も神の傀儡であり、意を代行する者なり。神に仕えるとはそう言う事です」

「貴方は神ではない」

「如何にも。私は私であって神ではない。ですが彼等は私の使徒。私の為に身を捧げてくれる、愛おしい者達です」

「正気の沙汰じゃない……」


 言葉を返す事なく美しい青年は穏やかに微笑む。怪訝を浮かべた儘、ミシェルは其の場から立ち去った。



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