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すっかり綺麗になって身支度を整えたミシェル――明らかにサイズが大きい白いワイシャツと、買って洗ってみたものの結局一度も着用しなかった藍色のトランクス姿――はベッドサイドにちょこんと腰をおろし、ホットミルクで満たされたマグカップを両手で包むように持つ。
「で、何故お前は濡れていた。噴水にでも落とされたのか」
湯浴みから戻ってきたキールド――腰にバスタオルを巻き、しなやかな肉体美を晒している――はクローゼットをあさりながら言った。
「……覗き込んでいたら、手を滑らせて落ちたのよ」
「嘘を吐くな。助けてもらったと、言っていただろ?」
「自力で戻れなかったの」
「……まぁ、そんな棒みたいな腕じゃ無理もないか。とでも言うと思ったのか。お前は自分の、其の醜い顔を見ることを嫌がっている。何故、態々自分の顔を見るような真似をした?」
「理由が、あるの」
「では聞かせてもらおうか。其の理由とやらを」
パタッ。とクローゼットの扉を閉め、濃紺の寝間着のボタンを掛けながらミシェルを見る。
「……お前が言わないのなら――」
「手を滑らせて落ちたの。本当よ。……吃驚したら頭が真っ白になって……自力でどうにもできなかったの」
「……あの女と一緒だったんだろ?」
「誰のこと?」
「じゃあお前の腹部に浮かぶ痣をつけたのは、あの若い男なのか?」
「何故? あの場にはもう一人居たわ」
「ヘルシング卿は俺の味方だ。お前に危害を加える筈がない」
「そうだと言い切れるの? だってあたしは――」
に。と出し掛けた言葉を嚥下し、俯く。
「……お前が、何だと?」
「……あたしは……。あたしは醜いから……。と言うか、彼がヘルシング卿だったのね? 初めてみたわ。イメージしていたのと違くて、吃驚しちゃった」
「話を逸らすな」
「そんな心算は――」
「お前はヘルシング卿を侮辱する心算か?」
軽く睨み付けると一瞬だけキールドを見たミシェルは直ぐに視線を逸らす。
「ごめんなさい……」
「何故庇う。あんな女を」
「別に庇ってなんか……」
「…………」
「…………」
キールドはミシェルの前に片膝を着き、そっと掴んだ片手の甲に唇を落とし、軽くはむように言葉を綴る。
「俺はお前を孕ませ、責任を取ると言った。憶えているな?」
「……お腹を蹴られたわ」
「本当に妊娠をしていたのなら、今頃、大量に出血をして流産の危険がある」
「……嘘が、バレてしまったかもしれない……ごめんなさい」
「取り敢えず、ヘルシング卿に診てもらおう。医師の心得はある人だから、問題ないだろ」
「……凄いのね」
「ヘルシング卿を呼んでくる。大人しく、していろよ?」
「……横になっていても?」
「構わない」
「ありがとう……」
冷めかけたホットミルクを一気に飲み干し、マグカップをサイドテーブルに置き、のっそりベッドに上がり込み、横になった儘キールドが部屋を出て行くのを見送った。
ミシェルはまた夢を見る。深く広がる蒼の世界を悠々自適に泳ぐ人魚の群。誰もが海に溶けるような蒼い髪に、蒼い虹彩。蒼い鱗に優美な尾鰭をもち、美しい歌声を泡に乗せて漂わせていた。
『待って! あたしも――』
泳ごうとしても二本の脚では思うように水を蹴ることが叶わず、もがけばもがく程に泡立つばかり。やがて息苦しさを感じながら、爪先から、髪先から、泡となり消えていく。
「っ――」
「っ……!」
ガバッと反射的に上半身を起こそうとしたミシェルは顔面を強打し、あうっ。と声を漏らして倒れ込む。
「……石頭め……」
ベッドの横で顔を押さえながらくぐもった声を漏らすキールド。其の後ろに居るのは雑務隊長改め、ヘルシング卿だ。にこにこと微笑みながら、青春ですか。と言い、更に言葉を続ける。
「話はキールド王子から伺っております」
「よろしくお願いします」
ミシェルはのっそり上半身を起き上がらせ、会釈をする。
「はい。では、王子。部屋の外でお待ちいただけますか」
「何故?」
「おや、診察風景が見たいと?」
「……分かった」
鼻を抑えた儘のキールドはヘルシング卿からポケットティッシュを受け取りふらふらと部屋を出て行く。バタン。と扉が閉まるのを確認してからミシェルは控えめに声を掛けた。
「ヘルシング卿?」
「はい」
ギシィ。とスプリングを軋ませながらベッドサイドに腰をおろす。
「ヘルシング卿は、私のこと――」
シー。と空気が抜けるような音を漏らしながら立てた人差指を自身の唇に触れさせ、ミシェルから言葉を奪うと口を開く。
「今回の件で、遅かれ速かれ私は王に嘘の報告をする事になります。そして私はこう言います。母子ともに無事です、と。王はキールド王子と貴女の関係を疑っているので、専属医に診せようとするでしょう。ですが、安心してください。私はヘルシングという立場ではありますが、王は私に対して強く発言できないのです」
「何故?」
「……知りたい、ですか?」
悪戯坊主のような微笑が浮かぶ。
「……遠慮しておこうかしら。興味が、ないの」
「そうですか……」
ションボリ下がる肩。十数秒間沈黙し、さて。と言いながら人のよさそうな笑みが浮かぶ。
「怪我の確認をさせていただいても?」
「……はい」
「では、横になってください」
「……はい」
再び横になったミシェルはのっそりワイシャツの裾を捲り上げ、貧弱な腹部を晒す。
「すみません、少しウエスト……腰のところも見せて頂いても?」
「……はい」
藍色のトランクスを少し下げる。ヘルシング卿は足元に置いたバックから薄手のゴム手袋を取り出し装着し、軽く除菌液で浄めてから、触りますよ。と声を掛け、探るように痣を押す。
「痛っ――」
「痛いのは表面ですか? 其れとも、中?」
「えっと……表面、だと思います」
「下腹部は特に衝撃が直接臓器に届きやすいのです。出血が見られないので大丈夫かとは思いますが、もしも急な痛みに襲われたら、遠慮せずに私を呼んでください」
薬を塗っておきますね。と言いながらバッグから取り出したのは掌サイズの平たい円形の缶。蓋を開けるとモザイクが掛かっていて、中身が薄緑の何かだということしか認識できなかった。
「此れは、ゲルゲルゲから作られた万能治療薬です」
「……ゲルゲルゲって、ニンゲンにはモザイク装備そうびをしている風に見えると言われている、アレのこと……ですよね?」
「よくご存じですね。そうです、アレのことです。果肉をクリーム状にしたものと、ゲル状にした二種類があります。此れはゲル状にしたもので、こうやって脱脂綿に塗布して患部に貼って使います」
少しヒンヤリとしますよ。と声を掛けられるや否や、脱脂綿を痣の上にペタッと貼られた。ヒンヤリとした感覚がじんわり皮膚に吸収され、体温と混ざり優しい熱に変わっていくのを感じる。脱脂綿を固定するテープが些かこそばゆい感覚を生み出すが、時期に慣れるだろう。
「クリームを塗り込んでもよいのですが、痣や切り傷の場合は此方の方が勝手がよいかと。風呂上りも此れ一本で化粧水、美容液、乳液の役割を果たすので、是非ご利用ください。肌サイクルを正常に戻し、肌本来の力を取り戻す手伝いをおこないます。用法は簡単。適量を手に取って塗るだけです。顔だけでなく頭の天辺から爪先まで広い範囲でご利用いただけます。他にも夜の潤滑剤に――」
「ヘルシング卿っ!」
バンッ! と大きな音を立てて入ってきたキールドの頬は微かに赤い。
「おやおや、聞き耳とは……。はしたないですよ、キールド王子」
「なっ!」
ニヤッと笑うヘルシング卿。全てを察したキールドは羞恥を隠すようにムッとした表情を浮かべ、頭を掻く。ヘルシング卿は楽しそうにキールドを見てからミシェルに向き直る。
「お嬢さん。もう裾を下ろしていただいて結構ですよ」
「ありがとうございます、ヘルシング卿」
「使用法が分からなくなったら、王子に言ってください。きっと手厚く手当てをしてくれるでしょう」
後は頼みましたよ。と言い、キールドの肩をポンと叩き、出入口近辺のスイッチを押して部屋の電気を消して去って行く。溜息を漏らすキールドがベッドに上がろうとすると、ミシェルはのそのそ奥へと詰めた。
「……驚いたわ。ヘルシング卿は、あたしを見ても特に反応をしなかった」
「魔界には人間界から離れた場所ほど醜い容姿の妖魔が多い。ヘルシング卿は勿論、魔討に属する者で、お前程度の醜さで怯む隊員など居やしないさ。お前の醜さは、例えるなら……エイの乾物だな」
「えいのかんぶつ……」
ミシェルは思考を巡らせる。
「深く考えずに、眠ろ。どうしても眠れないと言うのなら、睡眠薬を飲ませてやろう」
「すいみんやく?」
「寝つきがよくなる薬だ。秒速で眠れるぞ」
「……貴方も、寝付けないの?」
「少し前までは、そうだった」
「そう。……ありがとう。気持ちだけ、貰っておくわ」
「欲しくなったらいつでも言え」
「ええ。……おやすみなさい」
「おやすみ。……よい夢を」
ちゅ。と瞼に落ちる唇。
「……ニンゲンは寝る前にそうするの?」
「特に意味はない。とっとと寝ろ」
「…………」
「…………」
フランに会いに行かないと。頭の端で考えながらも、高波のように押し寄せる気怠さに呑み込まれたミシェルの意識はウトウト微睡んでいく。
【蒼い憂鬱】終
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