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 視界の聞かない暗闇の中、遠くて近い場所で話し声がする。内容までは聞き取れないが、声質から妖艶そうな女と若い男であることが想像ついた。十数秒ほど其の儘耳を傾けていると、近付いて来る気配が一つ。


「おや、起きたと思ったのだけどね?」


 語尾に色気が滲む若そうな女の声。


「デハ、僕はモウ帰りマス」


 聞き慣れない語尾を綴るのは女よりも若そうな男の声。


「もう帰るのかい? またお寄りよ、今度はもっとましな土産持って来ておくれ」

「ハハハ。相変わらず厳しいデスネ」


 言いながら離れた場所にある気配が一つ、消えて行く。


「……まったく相変わらずだねぇ、あの男は」


 小さな溜息を漏らした数秒後、ペチペチと軽くミシェルの頬が叩かれる。触れた手はとても冷たく流氷のようだ。


「いつまで狸寝入りをしている心算だい? 目が覚めたならとっとと起きな! さもなければ食っちまうよ」

「っ――」


 慌ててミシェルは上半身を起き上がらせて視線を向けた。視界に映る女は蒼かった。ハーフアップにした少し癖のある髪も、眉毛も、睫も、虹彩も、下半身の鱗も、鰭や尾の色もミシェルと同じ色なのに眼前の女は今まで見てきた人魚の中で最も肌の色が白く妖艶な美貌をもっていた。見れば見るほどに其の美しさに溜息が漏れ、自身の醜さが身に沁みる。


「大方、お前も化け物を想像していたのだろ?」


 海藻を敷き詰めた寝床の近くに引き寄せた椅子に腰をおろした蒼の魔女は退屈そうに笑う。


「そんな――」

「構うものさ。海の魔女に関しては様々な噂があるからね」

「違います。……容姿については、特に何も考えていなかったわ。ただあまりに美しすぎて、その……――」


 ミシェルは俯きワカメを握りしめる。


「まぁ此の容姿が蒼の魔女と呼ばれる所以だが、海の魔女でも、蒼の魔女でも、好きに呼べ。ところで、お前の名前は?」

「…………」

「何だい。口があるのにまともに喋れないのかい?」

「……ミシェル……」


 其れは弱々しい声だった。


「ミシェルか。其れなりによく聞く名前だな。こんな辺境の地まで何用だい?」

「魔女さん、お願い。あたしニンゲンになりたい」


 一瞬目を丸くした蒼の魔女は退屈そうに言葉を続ける。


「物好きが居たものだ。何故ニンゲンになりたい?」

「昨日の夜に話をしたの。約束をしたのよ、また明日って」

「残念だな、ミシェル。お前が意識を失ってから五日は経っている。ニンゲン界でも確実に約束の時は過ぎていることだろう」

「そんな……」


 折角此処まで来たのに。小さく漏らして項垂れた。


「そんなことより、お前、人魚の掟を破るつもりかい?」

「違うわ。ニンゲンにまってしまえば人魚の掟なんて関係無いもの。破ったことにならないわ」

「お前は莫迦か。如何なる理由があれど魔女の力を借りて人魚がニンゲンになる事も掟に反するだろうに。……まさか忘れていた訳ではないだろ?」

「だとしてもニンゲンになってしまえば人魚の掟なんて関係無いわ。もう人魚ではないもの」

「其れは減らず口と言うものだよ、ミシェル」

「ニンゲンになりたいの」

「……そうかい。然し、だ。もうとっくに約束の期限は過ぎている。拘る必要はないだろ?」

「約束を破ってしまったのなら謝らないといけないわ」

「……まさか、謝る為だけにニンゲンになる心算じゃないだろうな?」

「それは……――」


 言葉に詰まったミシェルは押し黙る。


「よいかいミシェル。よくお聞き。ニンゲンの世界はお前が考えているほど他種族にとって生きやすい環境ではない。たかが一回の約束の為に、お前は先の見えない暗闇に飛び込もうとしているんだよ。其れに、ニンゲンになったところでお前の容姿は変わらない。お前を見たニンゲン達は気味悪がって石を投げてくるだろう。其れならまだましさ。然しお前の容姿は形容する言葉が見付からないくらいに異質で醜い。化け物と称され処刑されるだろうな。ミシェル。考え直しなさい。ニンゲンはお前が思っているほど心優しくもないし、ニンゲンと関わった所為で命を落とした人魚は数多い」

「……あたしを化け物と蔑み嫌うのは同族だって同じよ」

「嗚呼、可哀想なミシェル。嘸かしつらい目に遭ったのだろう」


 蒼の魔女はミシェルの肩を抱き寄せ、囁く。


「此の儘此処で暮らさないか。お前一人を護るくらいの力はある」


 いつの間にか俯いていた顔の顎を片手で掴まれて強制的に上げさせられ、妖艶な美貌が覗き込む。顔を逸らしたくとも叶わずミシェルの視線は蒼の虹彩に釘付けとなった。


「此処で暮らせば誰もお前を醜い化け物と蔑むこともない。お前は心行くまで歌えばよいさ」

「歌うことは好きよ。でも、あたしは歌しか誇れるものがない。其の価値が此処ではないのなら、此処に居る意味はないわ」

「なるほどねぇ……。だがミシェル。其れはお前の価値観だろう? 私から見たらお前の歌声には微塵の価値がない」

「……!」


 其の代わり。と蒼の魔女は言葉を続ける。


「お前の此の蒼い髪と、鱗、鰭や尾。其れから――」


 貧相な胸板の中心からやや左寄りに蒼く長い爪を生やした手が重なった。


「お前の心臓、内臓、血液には価値がある」

「何故?」

「私は蒼い物が好きなんだ。だからお前の歌声よりも、お前の持つ蒼に居は価値を見い出した。お前は此処に居るだけで価値がある。私はお前が欲しい。喉から手が出るほどにお前が欲しいよ、ミシェル」


 蒼の魔女は甘く囁き誘惑した。ミシェルは考える。今まで自分の価値だと思っていた歌声は此処では無価値で、無価値だと思っていた色にこそ価値がある。だが其れは誇れる歌声とは違い忌々しいとさえ思う色。


「……ありがとう。でも、あたしはニンゲンになりたいの」

「約束を破ったことを謝るくらいなら、其の姿の儘で会いに行けばよいだろ?」

「掟を破ってニンゲンと接してしまった以上、王にバレるのは時間の問題だわ。海はお喋りが好きだもの。きっと、誰かしらが告げ口をしてしまう。そうしたらあたしはずっと薄暗い牢獄へ閉じ込められてしまうわ。やっと海面の上に行けるようになったのに悲しすぎる」

「ならば此処で共に生きればよい。私は流離う《さすら》海の魔女。まだ知らぬ海をお前に見せよう」

「もう一度、彼に会いたいの」

「岩場の影で言葉を交わしただけだろう?」

「何故其れを?」

「あの近辺は私のとっておきの狩り場なんだ。美味い魚が豊富でね。盗み聞きをする心算はなかったが、お前達の会話は全て聞いていた。勿論、お前の歌声も」

「なら――」

「どうせあのニンゲンも他の人魚同様にお前の容姿を〝醜い化け物〟と蔑むに決まっている。愚かなミシェル。何故お前は、お前達は――」


 銀の虹彩を覗き込む蒼の魔女の美貌が悲しそうに歪んだのは一瞬で、ミシェルは出し掛けた言葉を嚥下した。


「然し、ミシェル。長い間魔女をやっているがニンゲンになる薬は完全ではない。リスクがかなり大きいが、私の話を聞かずに決断してしまうのかい?」

「ええ。早くニンゲンになりたいの」

「そうかい。……まったく、理解できないね。愛し合っているのならまだしも、何故、会って間もないニンゲンなんかの為に簡単に永遠を手放そうとするのやら。此処に居ればお前を投獄から護ってやれるというのに」


 溜息を漏らしながら蒼の魔女は岩を掘って作った棚の前へと移動して物色を始める。


「嬉しかったの。短い時間だったけれど、あたしの歌を聴いて彼は喜んでくれた。気に入ってくれた。何故かそれがとても嬉しかったの。約束を守れなかった事はとても悲しいわ。あたしは自分が満足したいだけ。全部自分の為よ」

「……其の自己満足の為に永遠を捨てると言うのか」


 棚をあさる手を止め、怪訝を浮かべた視線をミシェルへ向けた。


「永遠なんて要らない。貴女はあたしよりも美しいけれど、あたしは……。あたしは、化け物だから……海で生きたって此の容姿から逃げられない。歌は好きよ。無価値な私が唯一誇れるものだもの。でも其れだけでは満たされない。誰も歌わないあたしを受け入れてはくれないの。でも彼は話しかけてくれた。心の底から嬉しかった。だから約束を守りたいと思ったの」

「可哀想なミシェル。所詮彼もお前の歌声が目当てに決まっている。約束を取り付けるのだから会話をして当然のことだろう?」

「お願い、魔女さん。ニンゲンになりたい」


 ジッと蒼の魔女を見据える瞳は揺るがない。


「……頑固だな。まったく、誰に似たのだか」


 其の呟きは誰にも届くことはなく。


「あー。残念。実に惜しい。私はお前の色を気に入ったというのに、引き留めることができないだなんて。いっそ鎖で繋いで檻に閉じ込めてしまいたいくらいだよ」

「貴女が欲しいというのなら、鱗を剥ぎます。髪を切ります。鰭や尾も切断しましょう」

「まったく、莫迦な子だ。そんなことをしたら、人間になった時に瀕死の状態で男と会う前に死んでしまうよ。ああ、でも髪くらいは貰ってもバチは当たらないか。いいや、ダメだ。私はそんなことをしてまでミシェルを手元に置きたいわけじゃない。ああ、まったく。忌々しいニンゲンめ。思い出しただけでもハラワタが煮えくり返りそうだ!」

「魔女さんはニンゲンが嫌いなのね?」

「ああ、そうだ。そうだとも。私はニンゲンが大嫌いだ」

「なら、何故人間になる薬を作っているの?」

「……お前のように人間になりたいとほざく莫迦が居るからだよ」

「優しいのね」


 ミシェルは穏やかに微笑んだ。


「優しいものか。私は誰もが恐れる海の魔女だ。ったく。あー、イライラする」


 何処に薬を仕舞ったか。蒼の魔女は呟きながら棚をあさること数十分。青緑色の液体で満たされた手榴弾ほどの大きさをした丸瓶を手に戻ってきた。


「さぁ、お飲み」

「不味そうね」

「不味いに決まっているだろう。此の薬は毒も同じなのだから」


 ミシェルは受け取った丸瓶をまじまじと眺め、キュポンと蓋を開け、飲み口に唇を触れさせるとゴクゴク喉を鳴らして青緑の液体を嚥下した。腐った魚と逆流してきた胃液のような不快感が酷い味が吐き気を誘う。何度も嗚咽を上げながら綺麗に飲み干して十数秒後。突如として全身が焼ける様な苦痛に包まれた。


 ギチギチと軋む関節。ドックン、ドックンと破裂しそうなほどに脈打つ心臓。シュワシュワと泡立つように内側から溶けていく奇妙な感覚。苦悶の表情を浮かべて右手で喉を。左手で胸元を押さえながら目を見開いて声なき悲鳴を奏で、其の場をのた打ち回る。そんな光景を蒼の魔女は冷ややかに見降ろした。


「ああ、言い忘れていたが……。お前が人間で居られる期間は一週間。其れまでに一人のニンゲンに愛されなければお前の身体は泡となって消えるだろう。其れはお前が此の世界から消えるということさ。よいかい、ミシェル。忘れるでないよ。よぉくお聞き。もしも人魚であることがバレたなら、其の者を殺しなさい。例え相手が誰であれ、だ。遠慮など要らないよ。其の時は私がお前の助けとなろう。さぁお行き、哀れで醜い人魚姫!」


 薄れ行く意識の中で、最後に魔女の悲しそうな顔を見た。



 【蒼の魔女】終 

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