02:約束の果てに
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ふと、男は目を覚ます。
「お目覚めでございますね」
声の方に顔を向けると、天蓋布の向こうに絵に描いたような執事然とした初老の男性が立っている。落ち着きはらった何処か懐かしい声音が言葉を紡ぐ。
「おはようございます、キールド王子」
「……おはよう。朝は起こさなくてよいと言った筈だが?」
「王様がお呼びです。至急、大広間へ」
言い終えると執事は深い一礼を残して部屋を出て行った。遠くて近い場所で扉が閉まる音を聞き流しながら暫しの間、ボーッと手元に視線を落とす。窓と閉ざしていても聴覚に届く、静寂の中に遠く聞こえる波の音。視線を向ければ閉ざされた窓の向こうに広がる海の水面が日の光を反射して煌々と輝いた。深い溜息を漏らしながらのろのろとベッドからおりて部屋に付属している洗面所へ。洗面台の前に立ち蛇口ハンドルを捻り流れる水へ手を伸ばす。手桶に汲んだ冷ややかな水温が顔全体を濡らし一瞬だけ息を呑む。数回繰り返して肌を引き締め、すっかり目が覚めると執事が用意しておいたであろう洗い立てで肌触りの良いタオルを顔面にそっと押し当て水滴を拭う。次に緑の歯ブラシを手に取り――。
「あ」
昨夜に終わった歯磨き粉が新しい物と交換されていた。爽やかなミントの香りが爽快で寝起きの朝には心地よい歯磨き粉。やや清涼感が強すぎるので寝る前に使用するのは避けたい代物だ。適量歯ブラシに付着させ、シャカシャカシャカシャカと並びのよい歯列を磨いていく。鼻へと抜けるミントの香りが実に清々しい。此の儘、口を漱ぐのと一緒に心に残るモヤモヤも消え去ってしまえばよいのにと願ったところで何が変わるでもなく。
ベッドのある部屋に戻りクローゼットの前へ。綿をふんだんに使用した藍色のパジャマを脱ぎ捨てシワが一つもない白のワイシャツに袖を通し、器用そうな指先で摘んだボタンをホールへ通してから黒のズボンに足を通す。カチャカチャと慣れた手つきでベルトを締め、靴下と膝丈のブーツを履いてから再び洗面所へ。豚の毛を使用したブラシで丁寧に金の長髪を梳かして整え、長めの前髪をセンターで分ける。鏡に映るすっかり見慣れた凛とした整った顔立ちは品の良さが滲み出ており、金髪碧眼という特徴も相まって絵本から出てきた王子のようだと言われることがある美貌に表情はなく、死んだ魚のように光彩は暗く沈んでいた。
「……綺麗な歌声だったな」
高く澄んだ美しい歌声は今でも耳に残っている。何故彼女は約束を破ったのだろうと考えた。今まで出会ってきた女達は一目キールドの美貌を見れば心を奪われ、自ら進んで次の約束を取り付けるほどだった。矢張り顔を見せなかったのが失態だったか。然し幾ら月夜の晩だと言ってもあの暗がりで顔は――。いつしか思考に支配され、排水溝を一点に見据える。然し納得いく答えは見つからず、我に返って深い溜息を漏らす。もしも彼女が人魚だったなら一目でよいから其の姿を見てみたかった。そんな風に思い再度溜息を漏らしながら後頭部の所で金の頭髪を一つに纏めて瑠璃色のリボンで結わえる。気乗りしない儘再びクローゼットの前に戻り長い丈の裾に蔓科の植物を模した金の刺繍が施された一つボタンで群青に染められたジャケットを手に取り自室を後にした。
部屋の外に広がる長く広い廊下に不機嫌そうな靴音が小さく響く。つい最近も大広間に呼び出されて足を運んだ筈なのだが、今日はやけに道のりが遠く感じて足取りも重い。擦れ違うメイドや兵士達は立ち止まり深く頭を下げてキールドが過ぎ去るのを好奇の目を向けながら見送った。キールドはそんな瞬間がとても嫌いだ。こんな風に恭しく頭を下げながらも陰で〝顔は良くても根暗〟だの〝顔と違い残念なイケメン〟だの〝引き籠もりの出来損ない〟だのと噂し、数いる兄弟の中でも歳が近く人として出来のよい弟と比較していることを知っている。直接言ってくれたなら楯突いたと理由を付けて追い出すことができるのに、と何度考えたことだろう。
暫く進み辿り着いた大広間。溜息をもらす間もなく勢いよく押し開け中に踏み入った。勢い余った扉がバンッと大きな音を響かせたので既に揃っている者達の視線が一瞬にしてキールドへ向けられる。縦長の大きなテーブルに正面上座から国王を筆頭に王妃、兄弟である王子達、左大臣、右大臣、イフェリアが誇る魔物討伐軍筆頭でありヘルシング家五代目当主、其の他、国を支える中枢の上層部が全員集まっていた。身内だけなら兎も角、軍事を含み国を支える中枢の上層部までもが全員集まることはよほどの事がない限り非常に珍しい事態で、キールドは怪訝を露わに国王に問い掛けた。
「皆さんお揃いのようですが、父上。何事ですか」
「取り敢えず座りなさい、キールド」
促される儘に指定席でもある右側の奥から一番目の席に着く。そして今気付いたのだが、本来ならば隣に腰を下ろすのは第三王子の筈なのだが、今日は赤く煌びやかな装束を纏った見知らぬ美貌の女が座っている。
「此の度、皆に集まってもらったのは他でもない。第一王子、キールドのことだ」
皆の視線が一斉にキールドに注がれ、より一層キールドが浮かべる怪訝が強まっ た。
「再三、私がキールドの嫁を探してやっても、側室を与えてやっても彼女達は手付かずの儘、興味を向けたことが一度もない」
国王の言葉に数人の家臣達が神妙そうに首を縦に振る。
「私の命は病が蝕んでおりそう長くは保たないだろう。親として後継ぎである息子の嫁を迎えてやり、孫を見たいと思うのは当たり前の事ではないだろうか」
先程よりも多くの者達が首を縦に振り同意を見せた。
「キールドよ、歳は幾つだ?」
「……二十五になりました」
「そうだ、二十五だ! キールド、お前に紹介しよう」
王に立つように促され、キールドの隣に座っている女は其の場に立ち人のよい美しい笑みを浮かべて挨拶と簡単な自己紹介を述べた後、優雅にお辞儀をしてみせた。意味が解らず聞き流しそうになったが、眼前の女は同盟を結んでいるアレン皇国の第二皇女らしい。嘸かし蝶よ花よと愛でられて育ってきたのだろう。何とも言えない自信に満ち溢れた印象を受け、キールドは更に怪訝を強める。
「彼女は先月二十歳を迎えたそうだ。此の美貌と教養のある彼女ならお前に相応しいだろう」
「……父上、其れはどう言った意味でしょうか」
「よいか、キールド。お前は此の国を背負う立場に在るのだ。もう魔討はヘルシング卿に任せ、お前は腰を落ち着け国政に誠意を示し、国務に専念するべきだ」
「其れなら適任者が既に居るではないですか。私は王位継承を破棄し、弟のドレイクを推薦します」
「兄上」
「キールド」
沈黙を守っていた優しそうな雰囲気を纏った金髪に緑目で清涼感のある青年と落ち着いた服装を好む后は同時に制止の声を漏らす。然しキールドは不満そうな表情を浮かべて口を開く。
「お断りします。会って間もない者を嫁にだなんて悪意しか感じません」
「キールド、時間は幾らでもある。これからゆっくり互いを知り、愛を育むのも――」
「不愉快極まりない。生憎ですが父上。私は国を背負う気はありません。家臣達も其れを望んでいない筈だ。其れに多くの国民がドレイクを支持している。私は心の底から彼が適任だと考えております。なので喜んで王位継承権を放棄しましょう。其れが叶わないのなら、私は今直ぐこの国を出て行きます」
「お前のような世間知らずが国を出て何処へ行こうと言うのだ! 今すぐ席に戻りなさいキールド! キールド!」
「キールド、夕刻にダンスホールで彼女の歓迎会を開きます。其れまでには戻ってきなさい」
声を張り上げる国王と溜息交じりに言うお后に構うことなく、失礼します。と言い残し、耳に届く全ての声を切り捨てるように部屋を出た。
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