01:海の魔女

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 深海に戻ったミシェルは約束の事を考えた。古来より人間は人魚を捕まえては見世物小屋に売りさばき、時には不死を夢見て肉を喰らうと語り継がれているので、十五の歳を迎え水面の上に行く事を許されたとしても、人間と接触してはならないと決まりがある。一人の軽薄な行動は時に一族をも危険にさらす事もあるからだ。過去にも何人か掟を破った者が居り、中には一族を危険に晒した者までいたらしい。彼等は今も牢獄へ幽閉されているそうだ。


「人魚だからいけないのよ、ね……?」


 そう思い立ったミシェルは其の場を後にする。向かうは蒼の魔女が暮らすと言われる北の海にある洞窟。其処はとても広く底が知れぬほどに深い闇に閉ざされ、凍えてしまいそうなほどに水温は低いと聞く。おまけに沢山の船が沈んでいる《船の墓場》と呼ばれる場所を通らなければなない。其処は海面からの光は届かず果てしない暗闇が広がりクラーケンと呼ばれる怪物や鮫、醜い容姿をもつ人魚の劣化種が住み付き船が沈没し餌となる人間が落ちてくるのを今か、今かと待ちわびている。然し彼等が襲うのは人間だけでなく、時に同種をも食らう獰猛性が著しいので人魚さえも好き好んで近付く者は居なかった。其れでも進む道は一つしかなく、意を決したミシェルは前進する。


 然し、幾ら暗がりでも利く目を持っているミシェルでもいざ船の墓場を眼前にすると竦んでしまうのも無理はない。辺りは禍々しい気配に包まれ漂う冷気に身の毛がよだつ。行けども、行けども、船、船、船。時折白骨が船の穴から此方を覗いていたり、人間だったモノの一部が漂っていたり。一人で通るにはやはり怖いものがある。だが今更引き返せるわけもなく、恐怖心を噛み殺して前に進んで行く。暫く進むと不意に地の底から響くようなか細い声が耳に届いた。振り返ってはいけないと本能が告げ、呼び声を振り切るように進む速度を速めて行く。そんなミシェルを追い掛けるように死者達の残留思念は己の死を嘆き、生に縋り、死を拒絶し、生を羨む声なき悲鳴を響かせた。


「…………」


 大分奥まで進んで来た頃、ミシェルは動きを止めて周囲を見渡す。いつの間にか痛いほどの静寂に満たされた周囲の空気は水の流れる音さえも聞こえないほどに張り詰めており、ゾクゾクとミシェルの背筋を震えさせた。初めての感覚に戸惑いながらも周囲を警戒しつつ、ゆっくり、ゆっくりと前へと進む。暫く進むといきなり沈没船たちがギチギチと騒めき出し、木が軋み、擦れ合う音が静寂を壊す。困惑を強めながらキョロキョロと周囲を見渡して見付けた舞い上がる土埃。其れを裂くように大きな古びた船が姿を見せる。ボロボロに破れた帆に描かれた鳥の髑髏と交差する短剣から推測するに海賊船だろう。藻とフジツボに塗れた船体をギシギシと軋ませながら眼前を横切る幽霊船。噂には何度か聞いたが実際に見るのは初めてだ。


「まだ死んでないのね」


 海上を目指し突き進むのを見送り、先を急ぐミシェル。進めば進むほどに水温は下がり、思念たちの叫び声も大きく響き合い、沈没船の間や物陰から此方の様子を窺う劣化種の存在もハッキリと認識するほどに身の危険を感じながら疲労から泳ぐペースも落ちていく。


「ひっ――」


 ミシェルの頭上をゆっくりと旋回しながら追ってくる黒い影。鮫はやがて距離を詰めて触れるか否かの距離を保ち浮遊し、様子を窺うようにザラついた身体を当ててきた。


「あ、あたしは、美味しくない……。醜いし、大してお肉もついてないし、きっと不味いわ。お腹の足しにもならないかもしれない」


 自分で言っておきながらとても悲しくなる。同じ親の腹から産まれた筈なのに、何故、自分は他の姉妹たちと違って醜いのだろうか。両親の何方とも似つかない容姿の所為で、他所の子だの、妾の子だの、コロニーの者達に影で散々なことを言われているのを知っていた。何より傷付いたのは自分を生んだ筈である母親に存在を否定されたことである。走馬燈のように嫌な記憶がよみがえり、グルグルグルグル思考を廻った。


「……姉様達が言うように、死んでしまった方がよいのかしら……」


 ふと思い出す、昨夜の出来事。初めて人間と交わした言葉。約束を守ろうと決めたのは誰の為? ミシェルは自問自答を繰り返す。


―― でも、もし彼があたしの容姿を見て拒絶したら? ――


 後先考えずに行動した事を後悔しても後の祭り。一度芽生えた不安は行動を制するのに十分だった。


「……北の洞窟は思っていたよりも遠いのね。少し疲れてしまったわ。食べてもよいけれど、命が尽きる最期まで歌わせて」


 立ち止まったミシェルは静かに歌を紡ぐ。歌っている時が何よりの幸せだ。歌っている間はつらい事を忘れることができる。例え束の間でも誰もが耳を傾け受け入れてくれる。歌っている間だけは無価値の化け物ではない安堵に満たされていく。ミシェルは歌声だけが唯一自分が誇れる価値だと考えていた。其の半面、歌声だけにしか価値がないとも考えていた。きっと誰もがそうに違いないと、考えている。悲しい歌声は冷ややかな水の流れに揺蕩い何処までも、何処までも……。


―― ああ、もしも歌えなくなったらな? ――


 ふと重なる劣化種と自分の容姿。途端に音を立てて崩れいく己への価値。歌は呪いだ。



    ※    ※    ※



 いつの間にかミシェルは鮫たちに運ばれ船の墓場を越えていた。相変わらず冷ややかな水の流れが肌を撫で、暗闇だけが広がる静かな海底が続き方向感覚を見失いそうだ。どれ程進んだか分からなくなった頃、遂にミシェルの疲労は誤魔化しがきかないほどに達していた。此処で力尽きるのか。そう思った刹那、遠くの方で揺らめく光を見る。


「アレは……?」


 よく目を凝らして見ると其れが海面から射す一筋の光だと気付き、身体に鞭を打ってフラフラと近寄った。


「綺麗……」


 降り注いだ一筋の光を一身で受け止める金剛石の巨木から反射した光が同じ性質をもつ大小様々な木々や地面から生えた六角柱などに反射して周囲を蒼白く照らしている。噂が本当ならば蒼の魔女が住まう洞窟はもう近い。問題は此の道なき道をどう進むか、だ。既に体力の限界を迎えているのであまり遠くまで進むことは不可能だろう。かと言って戻ることも叶わない。意識を手放す其の時まで前へと進む。



    ※    ※    ※

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