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キールドが部屋に戻るとミシェルの姿が消えていた。ベッドは既に冷たくなっており、随分と長い間、誰も居なかったことが窺える。まだ静まる気配を見せていない波が寄せて返す浜辺を捜すも姿はなく。ザザン。ザバン。と岩場に当たる波が砕ける音を耳にする度に、ミシェルが海へ帰ってしまったのではないかと不安が脳裏を埋め尽くしていく。
「あの莫迦……」
此処で待つには寒すぎる。一時撤退を余儀なくされたキールドは恨めしそうに荒れた自然を睨み付け城へと戻った。
「そんなに怖い顔をしていると、お嬢さんが泣いてしまいますよ?」
不意に掛けられた声に立ち止まり、落としていた視線を上げると、穏やかな微笑を浮かべたヘルシング卿が立っていた。両手で氷に満たされた桶を抱えており、新鮮な魚が数匹ほど入っている。
「お腹が空いているのなら、魚を一匹差し上げましょうか」
「……俺は野犬じゃないです」
深い溜息を漏らし、張り詰めていたものが解けていく。
「お嬢さんなら、浜辺の方に向かったのを見かけましたよ。入れ違いになったようですね」
「クソッ」
キールドは駆けだした。
浜辺は相も変わらず空は黒雲に覆われゴロゴロと音を立て、ザザン。ザバンと寄せて返す荒波が岩場に当たり砕けて散った。
「こんな所で何をしている。捜したぞ」
大岩の影から声を掛ける。
「あら。今日も来てくれたのね。ありがとう、フラン」
弱々しさの破片さえも滲まない声音が返ってきた。
「ふざけている場合ではないだろう。波に呑まれでもしたらどうする心算だ」
「大丈夫よ。元々あたしは海に生きる者だもの。其れよりフラン。海はまだ荒れているから、いつ波が貴方を連れ去るか分からない。戻った方がよいのでは?」
「……ミシェル、其方に行っても?」
「ダメよ。此方はあたしの特等席だもの。譲るわけにはいかないわ」
「キールドはよくてフランはダメなのか」
「夢は美しい儘、留めておきたいの」
―― 例えキールドとフランが同一人物であったとしても。――
「ねぇ、フラン。あたしはもう、貴方の為に歌うことができないの。其れでもまた、こうして会いに来てくれる?」
「勿論だよ。例え君の歌声を二度と聞くことが叶わなくなったとしても、また此処で、君とこうして語らいたい」
「そう……ありがとう」
「だから、ミシェル――」
「キールドがあたしを傍に置いてくれたのは、親が決めた婚姻から逃げる為? あたしはキールドにとって都合のよい駒でしかないの? 貴方に好かれたい。貴方に愛されたい。其の考えはおこがましいと、自分でも分かっているわ」
「…………」
「……何も、言ってくれないのね」
小さな溜息が漏れる。
「……ミシェルのことは嫌いじゃない。寧ろ好いている。でも、彼は他者を愛せない。どんなに愛を謳う書物を読み、題材にした劇を見て、音楽に耳を傾けたとしても、其れを理解することができなかった」
「……質問の答えになっていないわ」
「……きっと、彼ならこう答えることだろう。お前のような莫迦を利用したところで、最初から親が決めた婚姻から逃げられる気がしない。使い勝手の悪い駒を使用することで都合がよくなるとも思えない。ただ理由が欲しかった。お前を傍に置くに至る理由が、欲しかった。と」
「何故?」
「……其れは言えない。言ってしまったら、君が何処かへ行ってしまいそうだから」
「遅かれ早かれ、あたしは貴方の前から姿を消すわ。本当はこんな心算じゃなかったのだけれど……本当に、あたしは莫迦ね。後先考えずに、こんな……」
後悔をしたところで後の祭りだ。
「……もう、戻りましょう。此処はニンゲンの身には寒すぎる」
「手を」
「ありがとう、キールド」
大岩から身を乗り出しているキールドが差し出した手をミシェルが掴む。
「軽石か、お前は……」
「キールドの手は大きいのね」
「ほら、おいで」
大岩から先に降りたキールドが飛び下りたミシェルと抱き留める。
「……あたたかい」
胸板に耳を寄せれば鼓膜に届く心拍が頼もしい。
「……貴方が人形を作る光景が見たい」
「唐突だな」
「ダメ?」
憎らしいほどに整った顔を見上げると、十数秒の沈黙をもって、分かった。と返ってくる。
「其の前に、風呂で温まろう。ほら、ヴェール」
「……ありがとう。……きゃっ――」
ヒョイッとお姫様を抱えるように抱き上げ歩き出す。
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