第二十二章
しかし卓也の懸念は的中した。食事を終えて店の外で彼と別れた翔と亜美が、駅へと向かって歩いていた時に事件は起こった。
時間は夜の十時近くと遅かったが、IR施設と直結している通路はまだ人通りもそれなりに多かった為、油断していた時である。
背後から集団が歩いて近づいてきたと思った瞬間、翔は殺気を感じて咄嗟に振り向いた。すると突然三人の男達が何かを手に持ったまま、同時に襲いかかってきたのだ。
素早く反応できたことが幸いだった。翔は無意識の内に横に並んでいていた亜美を庇いながら、かつて習得した合気道の技がでた。一番端にいた男の腕を横に払い、突進してきた相手の力を利用して他の二人にぶつけることで、彼らの攻撃をいなしたのである。
彼女もそこで気付き叫んだ。
「こいつら、ナイフを持っている!」
彼女の大声を聞いた周囲の人々は驚き、皆が立ち止まった。翔は亜美と背中併せになって次の攻撃に備えた。彼女もまた昔の武闘派だった頃を思い出したのだろう。彼らに劣らない程の怒気を発しながら構えている気配が、背中越しに感じた。
第二弾の攻撃は二人だった。ざっと周囲を見渡した所、敵の数はこの五人らしい。厄介な事に全員が刃物を手にしている。そこで翔は襲われた時の用心の為、武器代わりに使えるよう常時用意していたドラムステイックを二本取り出し、両手で握った。
亜美もまた常時携帯している痴漢撃退用の催涙スプレーを手に持ったようだ。互いの持つ武器としてはこれがギリギリだった。身を守る為とはいえ、下手な物を持ち歩いて銃刀法違反等で逮捕されても困るからだ。
しかし相手はそんな事など最初から気にしていないらしい。傷害または殺人罪に問われても構わない覚悟でいるようだ。
翔は突っ込んで来た二人の手首をスティックで的確に打つ。少なくとも骨にヒビが入った手応えを感じた。ギャッと叫んだ彼らは、ナイフを取り落とし、その場にしゃがんだ。
そのまま頭か首を討ち、止めを刺そうかと思ったが、先ほどかわした三人が再び攻撃を仕掛けて来る兆候を察知した。そこで彼女と体を入れ替え、彼らに対峙した。
すると後ろでスプレーを発射する音が聞こえた。ギャッという叫び声と同時にウリャッという掛け声の後、ゴキッという鈍い音が二回してからドサッと人が倒れた。おそらく翔ができなかったことを、日頃から鍛えていた蹴りで彼女が仕留めてくれたらしい。
これで背後の心配は無くなった。翔はナイフを突き刺してきた二人の首元へ、スティックを続け様に振り落とす。確実に鎖骨まで折れただろう。相手は痛みに耐えきれずのたうち回った。
しかしもう一人の攻撃は交わせなかった。時間差で振り払ってきた刃が翔の左腕を切り裂いたのだ。
それでも痛みに堪え、再度突っ込んできた相手の
亜美が大きな声を出してから二分も経っていない位のあっという間の出来事だ。周囲の人も啞然としていたが、駆け付けた駅員が状況を把握したらしく、警察や救急車を呼ぶ様子が伺えた。
そこでようやく気を抜いた翔は、後ろを振り返って亜美の無事を確認する。彼女はまだ興奮していて肩で息をしていたが、翔の顔を見ると安心したのか力が抜け倒れ込んできた。二人は抱き合う形でその場に立ちつくした。
翔はこれまでも短い木刀や竹刀を使って、実戦形式の稽古をしたことはある。だがここまで相手を叩きのめす程強く打ったことは無い。それが咄嗟に出来たのは、相手がナイフだったことで殺されるという恐怖と、亜美を守らなければと必死になっていたからだろう。
ようやく警察官が駆け付け、倒れている五人を確認し、駅員から状況を聞いた上で翔達に話しかけて来た。
そこで向こうが大丈夫ですかと口にした所で、亜美は血が滲んでいる翔のジャケットを見て、傷を負っていることに気づいたらしい。慌ててハンカチを取出し、袖をめくって血止めをしてくれた。
切り傷は少し深かった。血はなかなか止まらない。亜美が顔を青くしていたけれど、翔は意外と冷静だった。多少の痛みはあったがまだアドレナリンが出ていたからかもしれない。
その為狼狽えている彼女に代わり翔は淡々と事情を説明し始めた時、警官の肩越しに見知った人物を見つけた。それは学人だった。
彼はこちらを睨んでいたが、心なしかホッとしているようにも見えた。恐らく翔達を襲わせたのは彼だろう。足助兄弟の息がかかった仲間に指示したのか、もしくは兄達にやらされていたのかもしれない。
唯一塀の中に入られることなく、執行猶予付きで釈放された彼だが、まだ足助家の呪縛から逃れられないのだろう。そうした彼を気の毒に思う気持ちが見つめる眼差しから伝わったのか、彼は苦々しい表情をしながら何かを呟き、その場を去ったのである。
翔は彼が放った言葉の意味を考え、血の気が引いた。まさかと思い、警官に対する事情説明を亜美に託し、慌ててスマホを取り出して電話した。
最初にかけたのは卓也の携帯だ。しかし相手はなかなか出なかった。待ちきれずに一旦切り、次は加世に電話した。彼女とはしばらくして繋がった。
翔は真っ先に尋ねた。
「加世さん! 今、奴らの仲間に亜美と一緒の所を襲われました。こっちは無事ですが、そっちは大丈夫ですか?」
すると彼女は弾んだ息を整えながら答えた。
「そっちにも来たのね。私は守衛の人達がいたおかげで、何とか助かったわ」
やはりこのタイミングで、翔達は一斉に報復の的となったらしい。学人の口は、まだだ、と言っていた。それはこれからも続くとも解釈できたが、他の人も被害に合っている意味にも取れたからだ。
「卓也とはちょっと前にIR施設内の店で別れたばかりですけど、連絡がつきません。あと問題なのは、」
翔の言葉を遮って、加世が言った。
「卓也君には私が連絡する! あなたは桜良さんのいる施設へ至急問い合わせて! 亜美さんにはお父さんの方を確認して貰って!」
彼女は翔が心配している事をすぐに理解してくれた。卓也の名が出たためか、横にいた亜美も何を危惧しているのかを悟ったようだ。そして翔の指示に従い電話をかけ始めた。途中で話を打ち切られ、事情の分からない警察官達は啞然としている。
構わず翔は登録している施設の電話番号を呼び出し、プッシュした。今は自分が働く勤務先でもある。この時間なら伯母は確実に寝ているだろう。
だが施設は二十四時間やっている。夜間は通常鍵を掛けられ守衛、または施設職員の許可なしでは誰も出入りできないはずだ。
しかしもし介護士や職員の中に彼らと通じている者がいたとしたら、どうしようもない。もちろんそうしたリスクを考え、施設長には警察にも同席して貰った上で事前に事情を説明していた。
その為新規採用する人員については身元確認など十分に注意して貰い、合わせて伯母の身辺警護にも配慮するよう依頼している。
これは加世の助言により行われた。亜美の父がいる施設でも同じ体制を取り、彼女のいる病院でも他の医師やビルに入っている他のテナントの賛同を得て、守衛を新たに雇った程だ。今回のような事がいつか起こるかもしれないと予想していたからである。
それでも万全な体制を取るには限界があった。警察官や民間のボディガードに二十四時間守って貰うことなどできない。しかも今回のような、人目を
数回目のコールで同僚の女性が出たので翔は自分の名を告げ、伯母に異変はないかと尋ねた。しかし答えはすぐに出てこなかった。なぜなら彼女が泣きだしたからだ。
異変を察知し、何があったのかと尋ねると相手は声を詰まらせながら言った。
「す、少し前に桜良さんが襲われて、他の病院へ緊急搬送されました。警察の方もたくさん来られて、」
「伯母は無事なのか!」
話を遮って尋ねたが、彼女はなかなか泣き止まず、要領を得ない。
「わ、わかりません」
「誰に襲われた? 何人だ? 外からか? それとも施設の職員か? 被害に遭ったのは伯母だけか?」
質問を畳み掛けても無駄だった。事情が分かる誰かに代わってくれと言ったが、今は施設長などもどこかへ行っているとしか答えてくれなかった。そこで諦め、何か分かればこっちへ電話をよこすように伝えてから切った。
伯母も襲われた事は確かなようだ。それなら亜美の方はどうなっているかが気になり、彼女に視線を向けると丁度彼女も通話を終えたところだった。すかさず尋ねる。
「お父さんはどうだった?」
「幸い無事だったみたいだけど、向こうでも襲われたらしい。施設の職員がいきなり首を絞めて来たようよ。でも咄嗟に持っていた杖で抵抗して大声を出したから、他の人達がすぐ助けにきたらしい。今警察を呼んで、対応して貰っている。それより伯母さんの方は?」
翔は首を振った。
「襲われて病院へ運び込まれたことまでは聞いたけど、詳細が全く分からない」
そこで翔は目の前にいる警察官に改めて事情を説明し、伯母の施設で何があったのか、警察の方に問い合わせて貰うよう依頼した。
やがて救急車と数台のパトカーが到着した。翔は亜美に付き添われ、腕の傷を治療する為病院へと連れて行かれた。そして倒れた五人はパトカーへと連行されていったのである。
翔の腕の怪我は何針か縫われて止血した後、包帯を巻かれた程度で済んだ。しばらく入浴は避け、左手で重いものを持ったりしないようにと注意された。仕事には若干支障が出そうだが、日常生活は問題なさそうである。
落ち着いたところで、再度翔達は警察から事情聴取を受けると共に、伯母達の周りで起こった事件について話を聞かされた。まず驚いたのは、何とか助かったと言っていた加世が病院で入院していると知らされたことだ。
どうやら彼女は夜の診察を終え、カルテの整理などで残業していたところを三人組の男達に襲われたらしい。鍵のかかった扉を壊してまで侵入した彼らは、やはりナイフを持っていたようだ。
咄嗟に防御した腕に加えて、太腿も刺されたらしい。だがすぐに駆け付けた守衛によって一人は取り押さえられたが、残る二人には逃げられたという。
救急車を呼んで自ら応急処置を施している所に、翔からの電話を受けて答えていたようだ。彼女の傷は深く、全治三か月と聞いてさらに目を丸くした。そんな状況で翔に対してあのような対応ができたものだと感心させられた。
そして卓也もほぼ同時刻に、IR施設内で襲われたことが分かった。やはりナイフを持った三人組の男達に刺されたらしい。だが幸い命に別状はないという。近くで警備員が巡回していた為、犯人達は直ぐに確保されたようだ。
最も深刻だったのは、伯母の容態だった。警察の説明によれば、意識不明の重体だという。ある職員の手引により施設へ侵入した男一人が、眠っていた彼女の胸を刺したらしい。
だがその男はかなりの返り血を浴びていたようで、部屋を出て逃げる際、不審に思った職員が声をかけたそうだ。そこで暴れ出して騒ぎが大きくなり、駆け付けた警備員に取り押さえられたという。
一通り話を終えると、翔は警察のパトカーに乗せられ伯母が入院している病院へ、亜美は卓也が運ばれた病院へと向かった。それぞれに警察官が同行した理由は、今回の一連の事件がカジノにおける騒ぎに関連し、それぞれまだ命を狙われる可能性が残っていたからだろう。
翔は今更ながら、自分が警察へ出頭したことで伯母に被害が及んだことを悔やんだ。最悪の事態としてこうなることは事前に予想していた。
その上で決断を下したはずなのだ。自分の弱さを認め、そこから抜け出すことの怖さと困難を理解し、それでも立ち向かわなければならない、守らなければいけない矜持を優先させたのである。
それでもいざとなってそれが現実となった今、伯母に申し訳ない事をしたと改めて思わざるを得なかった。なんとか命だけは助かって欲しい。
そう願いながらようやく彼女が入っているICUの部屋の前まで着いた時、中から医師が出て来た。そして翔の悲壮な顔を見て、事前に聞いていた関係を察したのだろう。苦し気に呟いた。
「残念ですが、」
その後の言葉はよく覚えていない。ただ伯母が亡くなったことは確からしい。翔は力が抜け、崩れ落ちるように廊下へ座り込んで泣き叫んでいたようだ。
周囲の看護師や同行した警察官達に支えられ、別室へと連れて行かれたことだけはうっすらと記憶に残っている。その後目を覚ました時には、ベッドに横たわっていた。その枕元には卓也を見舞い、父親の無事を確認した後に駆け付けた亜美の姿があった。
彼女によれば、卓也は背中や手足を刺されて重傷を負ったが、IR施設内の病院に運ばれ応急処置が早かった事と、刺された場所が良かったらしく、数カ月の入院で済むようだ。
父親の方も首に痣が残ったらしいが、相手はナイフを持っていなかったおかげで無事だという。
その話を聞いて、翔は疑問を持った。何故彼を襲った犯人だけはナイフを持っていなかったのか。半身不随の老人を殺すには、そこまで必要無いと思ったのかもしれない。
しかしそれならば、何故伯母の場合はナイフで刺されたのだろう。彼女を殺すつもりなら、素手でも十分だったはずだ。そこを敢えて確実に殺そうとしたのは、それだけ翔の裏切りに対する敵の恨みが大きかったのだろうか。
いや、それなら陰で動いていた加世や卓也の果たした役割の方が、相手に大きなダメージを与えたはずだ。見せしめの為なら、彼らの父親を刺し殺そうとするだろう。
そこで翔はもう一度学人の顔を思い出した。今回の襲撃事件の背後に、彼がいることは間違いない。警察にもその点は告げており、足取りを追っているはずだ。捕まえた犯人達にも指示した人間が誰か、追及していると説明を受けた。
その時ふとある推測が浮かんだ。恐らく学人は、兄達と関係していた裏社会の仲間の指示で翔や亜美、卓也や加世の周辺を調査し、今回の襲撃事件を企てたのかもしれない。
ならばその際、亜美の父と伯母について差をつけたのは学人に違いない。彼は上からの指示に逆らえず、全員を殺すように言われていたはずだ。しかしそこで賭けに出たのではないか。
翔が合気道の段持ちであることや、亜美がキックボクシングで体を鍛え喧嘩に自信を持っていることも彼は知っていたはずだ。よって二人は助かるかもしれないと期待したかもしれない。
加えて彼は伯母と翔との間にある、複雑な家庭事情を昔から知っていた。だが昔の彼はそのことで翔を苛めることはしなかった。そんな彼だからこそ、介護状態の伯母が確実に殺されるよう指示したのでないだろうか。
学人は翔が長年苦しんできた伯母による呪縛を解こうとしてくれたのかもしれない。そう思えて来た。なぜなら伯母が襲われ、意識不明の状態だと聞かされた時から亡くなったと聞かされるまで、翔の心は大きく揺れていたからだ。
助かって欲しい。だが彼女がいなくなれば、自分はようやく自由になれる。そんな不謹慎な思いを抱いていたことも確かだ。そして医師から残念ですが、と聞かされた瞬間、心の奥底から湧き出た強い悔恨と安堵した愚かな自分に対する侮蔑の入り混じった感情が爆発し、意識を失うほど取り乱したのである。
しかし真実は最後まで分からずじまいだった。何故なら逮捕された男達は皆、暴力団関係者らしく黙秘を貫き通し、学人は自宅で首を吊って自殺している所を発見されたからだ。
遺書が残されており、そこには“親や兄弟が逮捕された為会社が潰れかけ、一人で生きていく気力がなくなった”と書かれていたらしい。だが意味深な事も記されていたようだ。それは“これでようやく呪縛を解くことができた”という一文だった。
その後伯母の葬式を済ませた後、新たに判ったことがある。それは彼女が所有していた資産は翔の想像以上に多かったことだ。いずれ彼女の介護施設の利用料を払わなければならなくなる日が来ると恐れていたが、それは全くの杞憂だった。彼女が百歳を超えたとしてもまだ払うことが出来る程、しっかりとした貯蓄と運用がなされていたのである。
この事を知って自分の勝手な勘違いにより、縛られていると思い込んでいた今までの人生は何だったのかと恥じた。伯母は本来恨んでいてもおかしくない翔に対し、決して迷惑をかけないようにしていたのである。それどころか伯母の残した資産のおかげで、翔は余程の事がない限り経済的に困ることは無くなったのだ。
翔と亜美はこの事件をきっかけにして、正式な交際を始めた。そして伯母の死から一年が過ぎた後、翔は亜美と結婚したのである。
しかし不幸なことも起きた。亜美の父は二人が一緒になるまで待っていたかのように、内輪だけの簡素な結婚式を終えた一か月後に息を引き取ったのだ。死因は心不全だった。長く苦しんだ後遺障害の影響だったらしい。
立て続けに身内を亡くした翔と亜美は、卓也と共にしばらくの間、悲しみに明け暮れていた。介護の道へと導いた二人の死は、翔達にとって生きていく上での大きな支え失ったように感じられたからだ。
だがその間に判ったこともあった。人生には何度も大きな壁が立ちはだかる。時には大きな犠牲を伴うこともあるだろう。しかしそれを払ってでも自分の信じる道を進まなければならない時がある。過ちを償うことに遅いことはない。
以前は自分の人生をルーレット盤に置き換えていたことがあった。だがそれは間違いだった。死や病から逃れられなくても、生き方までルーレットのような限られた枠に収まるとは限らない。
今歩いている道が違うと思えば、自らの意思で別の盤に移ることだって可能なのだ。そして白いボールは他人では無く、自分で投げるものだ。その行く先は基本的にどこへ向かうか分からない。
それでも狙った所に向かおうとすることは出来る。行く先を決めるのは自分しかいない。だからこそ下を向いてばかりはいられなかった。
日本は超高齢化社会を突き進んでおり、介護を必要とする人々は増えるばかりだ。翔達を頼りにしている高齢者やその家族達が大勢いる。その為に今日も二人は、それぞれ別の施設へと通い、伯母や彼女父親の分まで高齢者達の介護を続けるのだった。(了)
カジノ しまおか @SHIMAOKA_S
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