第十四章

 しかし学人の様子からすると、限界が近づいているようにも見える。それでも兄達や上の意向に逆らえず、止む無くかつて苛めていた翔のような人間にも頼らざるをえなくなったとしか思えない。いや先程の話では心細い為、利用できる人材を周りに配置しておきたかったのだろう。彼もまた自分とは異なる足枷から抜け出せずに足掻いているようだ。

 翔とは別の決められたルーレット盤の中で転がる白い玉は、次にどこへ弾かれ、どんな枠へと向かうのだろう。その先に待っているのは何か。

 今回の件により、これまで別箇だった彼の人生に翔の運命が重なり始めた予感がする。彼が落ちる枠が不幸なものであれば、自分にまで影響するかもしれない。この時初めて彼の存在が身近に思え、お互い束縛された環境に置かれていると共感しだしたのである。


 部屋に戻り、翔はシャワーを浴びながら今度は別の事を考え始めていた。IR施設で働く社員の中でも、カジノ部門で働く従業員達は、情報管理という名のもとに、他部門の従業員達と隔離された生活を送っている。寮自体も別の施設の地下にあり、外部へ公表している地図上でその存在は消されているほどの徹底ぶりだ。

 元々人付き合いの少なかった翔にとって、当初はそれほど苦痛に感じなかった。それでも孤独な日常が一年以上も続けば、さすがに息苦しいと思うこともあった。

 そんな翔でも、唯一頼りにしている人物が一人だけいた。それは伯母の桜良が通うメンタルクリニックの担当医、日下部加世かよだ。

 彼女とは、八年程前に初めてクリニックへと通うと決めた伯母に付き添った時からの付き合いである。同席した際にいくつか質問を受け、家での状況やきっかけになった過去の複雑な経緯等を確認された時が最初に交わした会話だった。偶然にも伯母と同い年だったからか、二人は気があったようだ。伯母は彼女をとても頼りにし、翔もまた同様に信頼を置くようになっていた。

 また翔よりも早く伯母の様子がおかしいことに気づき、若年性アルツハイマーではないかと疑ったのが彼女だ。翔はその頃仕事の忙しさにかまけて通院時の付き添いもせず、普段の生活でも伯母の事を気に掛ける機会が少なくなっていた。

 そんな生活環境の中で、二週間に一回の通院日に加世の元を訪れた伯母は、とても体がだるそうにしていたらしい。

「体の具合はいかがですか? 少しお辛いようですが」

 加世の問いに伯母は黙って頷いたようだが、そうした反応は直近数回の通院時でも時々あったという。しかしその日はいつもと違って、さらにぼんやりしていたそうだ。そこで加世がいくつか質問をしたところ、伯母はポツリとつぶやいたそうだ。

「最近物忘れがひどくなって、自分で嫌になるんです。年を取るってこういうことなんでしょうけど」

「それは私だってありますよ。テレビを見ていても、出演者の名前がすぐに出てこなかったりして。桜良さんの場合はどの程度ですか」

「えっと、」

 そこから思い出そうとしたけれども、例が出てこないのかしばらく右上を眺めていたようだ。その時加世が根気よく答えを待っていたところ、伯母は視線を戻して言ったという。

「あれ、私って今、何を聞かれていたんでしたっけ」

 そこでピンときたらしい彼女は、専門でもないのに少しゲームをしましょうと、簡易の認知症診断を行ってくれたのである。

「これから言う、四つの物を覚えてください。車、みかん、象、傘」

「……はい、覚えました」

「それでは次に四つの数字を言いますので覚えてください。8、3、7、2」

「8、3、7、2ですね」

「はい。では、ここにある二つの図形を見て、それぞれ何個箱があるか答えてください」

「ええっと、8個と7……個?」

「それでは、ここの漢数字を数字に直してください」

「1523、4032、2105」

「はい、では七+三+一は?」

「……十一」

 そうしていくつかの問題を出した後、加世は聞いた。

「最初に覚えた四つの物を言ってください」

「四つのもの? ああ、えっと、みかん……象……」

「出てこないですか。それでは最初に覚えた四つの数字を言ってみてください」

「……7,2……」

「はい、結構です。ごめんなさいね。あっ、それと今度の診察は、翔さんと一緒に来ていただけますか? 必ずお願いします」

 そうしたやり取りを経て、伯母が若年性アルツハイマーの疑いがあると気付いた加世は、専門の病院への紹介状を書いてくれた。翔はそれを持って病院へと連れて行き、伯母に検査を受けて貰ったところ、彼女が予想した通りの病名を告げられたのである。

 ただし発見が早期だったため、今後の進行を遅らせることはできるとのことだった。もし彼女が気付いてくれなければ発見が遅れ、もっと酷くなっていたかもしれない。そう考えると加世には感謝してもしきれない。

 加世は時折、伯母が通う物忘れ外来の担当医師の元にも同席して様々な相談に乗ってくれていた。そしてしばらくは家庭での介護とデイサービスを活用しながら、定期的に認知症と精神治療を並行させるため二つの病院へ通院することとなった。

 だがそうした生活が続いたことで介護疲れを起こし始めた翔の様子を見かねた加世は、若年性アルツハイマーでも看護してくれる入居型の介護施設へ伯母を預ける事を提案してくれたのである。

 さらに彼女が紹介してくれた施設にも専門の医師はいたけれどこれまでの経緯もある為、メンタル面の診療については加世の病院へ定期的に通院しながら様子を診て貰うこととなった。

 しかしその後紹介してもらった施設が業績不振で廃業に追い込まれ、別の施設に入らなければならなくなったのである。だがその時も彼女の責任では無いのに、自分が紹介した施設だからと恐縮し、別の施設へ移る際もかなり骨を折ってくれたのだ。

 伯母の事を考えていたからだろう。翔は母の事を思い出していた。伯母の人生を壊したのは翔だけではない。母が犯した許されざる罪の重さは想像を絶するものだ。

 大人になってからは、少しずつ理解できるようになった。恐らく父と離婚してからの母は寂しかったのかもしれない。そして子供を二人も亡くした伯父もまた、心に大きな穴が開いたままだったのだろう。それが母の出現で互いに慰め合う仲になり、新たな関係が生れたのだと想像は出来る。男、または女としての本能が抑え切れなかったのかもしれない。

 だがそれは決して許されるものでなかった。大人としての理性があれば止められたはずだ。しかも母には翔という存在がいたのだ。

 しかしあのような結果をもたらしたのは、役に立たなかった証拠である。それどころか翔が邪魔だったからこそ、母は現実逃避していたのかもしれない。母の事は許せなく憎んだが、それ以上に自分の事が腹立たしく、後ろめたかった。

 あの頃までは正常だった翔の思春期が狂い出したのは、母達の死と大きく関係しているのだろう。あれから女性に対して恐怖心と醜さや汚らわしさを感じるようになり、恋をするという感覚は失っていた。もちろん同性に対する嫌悪感もあった。成長するにつれて、女性をモノのように扱うゲスな男達も沢山見て来た。だからこそ母だけが悪いのではないと考え直すようにもなった。

 だからと言って祖父母や伯母に罪はない。そして彼らは死者を責めることが出来なかった。その為、全ての負の感情を向ける先は生きている自分しかいなかったはずである。

 翔はその事を理不尽だと思ったことはない。なぜなら責任の一端が自分にあるからだ。当然、死をもって償うことも考えた。だが逃げることにも繋がる為、彼らと同じ道を歩みたくはなかった。だから彼らには出来なかった、生きている間に少しでも恩を返すう人生を選択したのだ。

 それでもこの道は想像以上に厳しい茨の道だった。辛かったし、今でも苦しい。誤解されると困るが、あの事故が起こってから祖父母や伯母は決して翔を責めたり、恨んだりするようなことは口にしなかった。特に祖父母はそれまでと同じ位、可愛がってくれた程だ。伯母もまた実の母親代わりになろうと努力してくれていたと思う。

 しかし心の中もそうだったとは断言できなかった。時折彼らが翔を見つめる目の奥に、ちらりと覗く黒い影を感じことが何度もある。他人に言えば思い過ごしだと笑い飛ばされるかもしれない。

 それでも翔を取り巻くあの家の空気は、間違いなく変わった。学人達に苛められ、相手の顔色を窺う癖が付いていたからこそ間違いない。祖父母が死ぬ間際から考えてもそうだ。二人共が意識を失う直前に手を握り見つめたのは伯母であり、翔では無かった。

 そしてその伯母は精神を病み、今は時折翔の存在すら忘れかけている。彼女より先に翔が心を壊していてもおかしくはなかった。

 しかし現実は違う。つまり償いの道はまだ続いているのだ。決してそこから逃げられない。だから伯母のいる施設へ通い続けているのだ。さらに翔の複雑な家庭の事情を知る数少ない人物である加世に時折あうことも、懺悔の一つとなっている。

 なぜなら彼女は翔の心を見透かした鋭い質問を浴びせ、伯母の言葉を代弁しているかのように感じることがあったからだ。自分の前では見せない本音を、加世だけには伝えている気がした。

 翔の顔や名前を思い出せないことがあっても、時折正常に戻ることがある。そんな時に何か話しているのではないだろうか。

 例えば伯母が新たな入居施設へ移転したことをきっかけに、翔がIR施設への就職を決めた際、加世はとても心配してくれた。

「給料が良くなるからって、介護士の仕事を辞めちゃうの? それが分かったら、桜良さんは喜ばないと思うよ」

 だがその時まだ、学人の真の思惑を知らなかった翔は言った。

「仕事場が変わるだけで、介護士としての仕事は辞めませんから、安心してください」

 それでも医師のネットワークを持っている彼女は、首を捻った。

「だけどあの場所に介護施設があるなんて、私は聞いたことが無いわよ。医療施設があることは知っているけど、そこは基本的に医師や看護師しか常駐していないはずだけど」

「IR施設を訪れるお客様の中には介護が必要な方も多いらしく、そうした人のサポートをする為に、介護福祉士の資格を持った従業員が必要だと聞いています」

学人から説明された通りの話を伝えたところ、

「そう。あなたあの資格とこれまでの経験を活かせる仕事だったら、いいけれど」

と、彼女は不承不承納得してくれたのだ。

 しかし翔自身も、再就職について不安を抱えていたことは確かだった。といって加世や伯母に余計な心配をかけたくなかった為、わざと危惧する必要などないかのように明るく答えたのである。

 それでも彼女は心療内科の医師だからか、観察力が鋭い。翔の心の奥底を読み取ったらしく、素直に信用はしていない様子だった。

 その後翔の不安が的中し、学人に騙された形でカジノの高齢者専用VIPルームで働くようになってからも、数回に一度の頻度で伯母の通院に付き添う度、加世は声をかけて来た。

「仕事はどう? 少し痩せたように見えるけど大丈夫?」

 それでも毎回誤魔化した。

「大丈夫です。これまでと違って勤務時間が不規則な分、慣れていないだけですから」

 しかし加世は翔の様子から、それが嘘だと見破っていたらしい。だから医師の人脈を通じ、IR施設での翔の様子を探ろうとしていたのである。



 加世は患者である桜良の甥、翔の事が気がかりだった。そこで医師同士の横の繋がりを利用し、IR施設内にある診療所に出入りしている看護師などの情報から、彼がカジノ施設の従業員として働いていることを知ったのだ。

 その事を彼が何故か自分に隠していた為、何か訳があるのだと思い、直接問い質すことはしなかった。ただどういったお客を介護しているのか、と聞いてみたことがある。

 帰ってきた答えによると、彼は相手がカジノの客であることを隠しつつ、実際にあった差し障りのない例をいくつか挙げて説明してくれた。加世は笑顔で頷きながら話を聞いていたが、その内容に嘘はないと感じた。

 その為介護が必要な高齢者を相手にしている事は間違いなさそうだが、カジノの従業員でありながらもどうしてそれほど頻繁に高齢者と出会う機会があるのか、不審に思ったのである。

 そこでカジノ施設がどのようになっているのかに興味を持ち、内情を探ろうと考えた。しかし翔がカジノの従業員として、時折高齢者を連れ診療室に出入りしていること以外、全くと言っていいほど情報が入って来なかった。

 IR施設内に常駐する医師や看護師も、内部情報に関しては漏らさないよう秘密保持の誓約書を結んでいるらしく、口が堅かったからだ。その為詳しい情報は得られなかったのである。

 そこで加世は自ら行動することを決心した。何故そこまで一担当患者の甥に肩入れをしたのかは、自分でも良く分からない。精神科医としてギャンブル依存症にかかった患者や、その身内で鬱になった多くの人々をこれまで診てきた経験が影響したこともあるだろう。

 かつては多くがパチンコを中心としたギャンブルがほとんどだったが、IR施設が新たに設立されたことにより、カジノに嵌ったという患者やその身内からの相談も徐々に増えていた。その為医師として関心を持っていたことも否めない。

 だがそれだけではなかった。加世自身が親に捨てられ、養護施設で育った為、似た境遇の彼に対して深く共感を持ち感情移入していたからだろう。

 彼がまだ小学生の頃に両親は離婚し、祖父母と伯母夫婦の下で育てられたらしい。しかしその後母親は叔父と不倫関係にあったと、彼らが事故死してから明らかになったそうだ。二人が密会し、ホテルに入っていく姿を何人かの知人や親戚が見ていたと言う。事故もその帰りに起こったようだ。

 そんな劇的な体験を経てきた彼らの人生に、心を揺さぶられたことも確かだ。隣近所から噂され続けた祖父母や翔も辛かっただろうが、それ以上に伯母の桜良は相当苦悩したに違いない。実の妹と夫が自分を裏切り、翔一人残して突然この世からいなくなったのだ。そして憎んでも憎み切れない女の子供を育て、暮らすことになったのである。

 しかも彼女は二人の子供を早くに病気と事故で亡くしていた。何もなければ甥である翔を、自分の子供のように思うこともできただろう。現に二人が事故死するまでは、孫を可愛がる祖父母と共に、愛情を注いでいたと本人の口からも聞いている。

 だがその関係が一気に変わったのだ。翔に罪はないとはいえ、どんな気持ちだったのか彼女は診断の時、涙ながらに語ってくれた。祖父母も相当複雑な思いを持っていたという。

 加世は話を聞きながら、自分だったらどうするだろうと想像しただけで気が滅入った。彼女が祖父母の死がきっかけで糸が切れたように体が動かなくなり、精神を病んでしまったのも無理はない。それどころかよくこれまで耐えてきたものだと驚いた程だ。

 もちろん残された翔も身を切られる思いをしてきただろう。未だに母親が犯した罪の呪縛から解かれていない事も良く分る。介護士になる道を選んだのも、祖父母や伯母が老いた時に世話をする為だと聞いた。実際祖父母が病に倒れた時も手伝ったらしく、今は桜良の世話をしながら重い十字架を背負ったまま懸命に生きている。

 そんな身の上話を聞かされている内に、血の繋がりのない伯母を支えようとする健気な彼の心を、少しでも軽くしてやりたいと考えたのだ。また結婚もせず子供もいない加世にとって、翔が実の息子のように思えたことも一つの要因だろう。

 だが決して楽ではない医師の仕事の合間を縫ってまで彼の周辺を調べようとしたのは、放っておけない何かを感じたからでもあった。その為加世はそれとなしに翔の勤務体系を聞き出し、クリニックが休みである日曜日に出社する日を特定した上で、自らカジノに足を運んだのだ。

 しかし出入りできたのは、一般客が利用する途轍もなく広いフロアだった。しかも休日の為多くの客が押し寄せる中、翔を見つけることは困難だと悟った。

 それでも諦め切れなかった加世は、唯一の情報元である診療所に顔を出すことを思いつく。そこなら出入りできるだろうし、翔と会う可能性もあると考えたからだ。そこで近くにいた従業員の一人を掴まえ、

「私は医者なのですが、ここの診療所に出入りしている医師に挨拶したい」

と言って案内させたのである。

 しかしその日に常駐していた医師は、加世と面識のない人物だった。その為交代で勤務している知人の医師の名を上げ、どうにか情報を引き出そうと画策してみた。だが相手の口が堅く、それも失敗に終わったのである。

 その日は休日でIR施設に訪れる客が大勢いた為、体調を崩して訪れる患者も普段より多めだったらしい。診療所内はとても慌ただしかった。よって通常なら、患者でもない人が医師と話す時間などあるはずもない。場合によっては追い出されても仕方がない状況だ。

 そこで加世は混乱している状況を利用し、混み合う待合室でしばらく中の様子を眺めることにした。その苦労が実ったのか小一時間が経った頃、不自然な動きを察知する。一般客が出入りするフロアとは違う部屋から、体調を崩した客が診療所へ運び込まれる瞬間に遭遇したのだ。

 しかしその時は翔とは違う別の従業員が付き添っていた為、彼と会う事は叶わなかった。しかも一般客が出入りしていていた所と全く異なるドアから運び込まれていた為か、直接見たわけではない。ただ声だけが洩れ聞こえて来た。

 突然診察室の奥から「VIPルームのお客様が、」

「高齢者だから慎重に」「持病は何か」「車椅子からベッドに運んで」

「そこは介護士資格にある人に任せて」

といった言葉が飛び交っていたのだ。

 そこでカジノには、一般客と隔離されたVIPルームが存在するとの知識を辛うじて持っていた加世は、これまでの状況を踏まえて推測を立てた。どうやら診療所の奥に、VIPルームと繋がっている別の通路があるのではないか。また高齢者が運び込まれたことや車椅子や持病、介護士の資格等の言葉から、翔はそうした人達が出入りする場所で働いているに違いないと連想したのだ。

 VIPルームで働いているのなら、彼の給与が良い事にも頷けた。それならば簡単に会うことは叶わず、情報規制されていることも理解できる。

 そこで加世はさらに踏み込み、自らがVIP会員となって侵入し、仕事の様子を探ろうとした。その為騒がしくなった治療所から抜け出した加世は、カジノ場に戻って再び従業員を掴まえ、VIPルームについて尋ねてみたのである。

 するとVIP会員の資格を得ることは、そう簡単でないことが分かった。どうやら単純にお金を積めばいいものではなく、ある程度カジノに通い続け、お金を使った実績が必要となるらしい。または海外のカジノで実績を積んだVIP会員による紹介がないと無理だという。

 しかもVIP会員と一口で言っても様々なランクがあるらしく、会員証もそれぞれ別になっており、部屋も分かれているそうだ。そうした説明を聞き、カジノで無駄にお金を使い、会員証を手に入れるようなまどろっこしい手は使えないと悟った。

 それならばVIP会員の紹介を得る方が手っ取り早い。そう判断した加世は、同じ医者仲間でカジノに通っている人がいないか探してみたのである。医師なら高所得者が多いため、VIP会員もそれなりにいるだろうと踏み、そうした人がいないか尋ね回ったのだ。そして名前は伏せ、三十代半ば過ぎで介護福祉士の資格を持った従業員を見かけたことは無いかとも聞いてみたのである。

 だが全くと言っていいほど目撃情報は得られなかった。それでも諦めずに情報収集を続けていると。やがて気になる話を耳にした。

「普通のVIPルームなら、従業員が介護福祉士の資格を持つ理由はまずない。ただ噂だが高齢者専用のVIPルームがあると聞いたことがある。どうやらそこは、足が不自由だったりする高齢者や障碍者ばかりを集めているらしい。そういった場所なら、介護士資格を持った従業員がいてもおかしくないだろう」

 ある高齢の医師が、最近足腰が弱くなったのでもし自分が万が一車椅子で移動するようになっても、VIP会員として出入りできるのかと従業員に尋ねた事があるらしい。すると

「もしそのような事になれば、そうした方専用のVIPルームがございますのでご安心ください。そこなら車椅子を使用するお客様がほとんどですから、他のお客様に気を遣うことなく楽しんで頂けます。しかもそこだけは他と違い、一室でルーレットやバカラ、ポーカーやスロットなどが楽しめますよ」と返されたという。

 通常のVIPルームでも車椅子を使って出入り出来るだろうが、テーブルに着いたり移動したりする時などは、他の客に迷惑がかかる。変に目立つことも嫌だし、邪魔だという目で見られるのも癪だ。そのような人達の思いを汲んで専用の部屋を別途設けているとは感心である。しかも部屋がゲーム毎に別れていない便利さも兼ね備えた心遣いに、その医師は感動したらしい。あのカジノ施設はサービスが行き届いていると周囲に話す際、一例としてその話題を上げていたようだ。

 そこで加世は合点がいった。翔はそういった高齢のVIP客を世話しているに違いない。だから仕事はどうだという質問にも、スラスラと答えられたのだと納得した。

 しかしそうなると、ピンピンしていてまだ六十を過ぎて間もない加世では、そのVIPルームに入ることは難しいだろう。単に紹介を得れば入室できる場所でもなさそうだ。実際、他のVIPルームなら紹介すると言ってくれた医師はいた。けれども他のVIPルームの客とは、全く顔を会わさない造りになっていると聞いた為、加世は会員になることを諦めたのだ。

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