第十三章

 「厄介なことになったな」

 心臓病を抱えていた高齢者が、ゲーム中に意識を失い病院へ運ばれた。倒れたのは香流久子という利用客で、ゲームに勝って際に興奮し、心臓の発作が再発したようだ。

 現在も意識不明の重体だという。現場に居合わせた翔は、学人がいる責任者専用ルームに呼び出され、事の経緯を説明させられた。

 踏ん反り返って大きな机の上に足を乗せ、席に座っている彼の周りには、これまでにも何度か見かけた部下達が直立不動の姿勢で取り囲んでいる。確か債権回収を専門としている男達だ。

「あの婆さんはもう駄目だな。ツケの方はいくらだった?」

 学人がその中の一人に確認させたところ、最後のゲームで六百万近く勝ったこともあり、トータルの回収分は八百万円程度に減ったとの報告を受けていた。

「最初に預けて貰っている三百万があるから、残り五百万ほどを追加で別途払ってもらわなきゃいけないってことだな」

「はい。しかし本人に意識が無い為、親族に言って払ってもらわなければいけません。そこで少し面倒なことになりそうです」

「資料に書いてあるが、親族とは不仲らしいな。長男夫婦と次男が婆さんの持つ金を狙っていて、そんな奴らに金を残すくらいなら、カジノで散財してやろうとここへ通っていたとあるが、本当か」

「事実のようです。ツケは預貯金口座にある現金だけで回収できる額ですけど、素直に払ってくれそうな相手でない点が心配です」

「そこを上手くやるのが、回収チームの腕の見せどころじゃないか。確かに身内はごねるだろう。だが金持ちの奴らは世間体を気にするものだ。確か婆さんの亡くなった旦那は、大きな会社の元社長だったんだろ。しかも息子はその会社の関連会社の副社長だ。それなりに地位と名誉もある。実の母親が家族に内緒でカジノに出入りしていたと知られたら、恥をかくのは残されたお前達だとか何とか言えば、五百万くらい払うだろうよ」

「だったらいいのですが、調査書によれば親族達は相当金にうるさいようですからね」

「確かに相当ケチで強欲な奴らのようだな。婆さんの愚痴だけじゃなく調査書に記載されているってことは、裏も取っているんだろ?」

「そのはずです」

「厄介な事になったもんだ。五百万程度の回収だと割に合わないな」

 その言葉に部下の一人が調子に合わせて答えた。

「倒れた日に大勝してなければ、九百万程は上乗せできたのですが」

 すると学人が下卑げびた笑みを浮かべて言った。

「だったら、その日の勝ち分は無かったことにするか」

 それを聞いた周りの連中は怯んだ。

「え? そ、それはさすがにまずくないですか?」

 しかし学人はそんな言葉を無視し、話を続けた。

「本人が意識不明なら、倒れた日の勝ち分がいくらだったかなんて知る奴は限られる。その中で回収時に文句を言ってくるような、親しい友人でもいるのか?」

 逆らえない連中達は、止む無く頷いた。

「そ、それはいないと思います」

「そうだろ? 他の客とそれなりに会話はしているようだが、あの婆さんにはプライベートでも付き合いがある程、仲の良い奴はいないと調査書にも書いてある」

「はい。そこは割り切って遊んでいるようでした。息子夫婦達にばれたくないこともあったのでしょう。周囲の客と深くは付き合っていなかったようです。ここに通い出したのも、担当介護士による紹介がきっかけですから」

「だったら倒れた日の勝ち分を誤魔化すこともできるだろ」

「しかし当日勝ったチップが手元にありますし、テーブルでもいくら出したかは、コンピューター管理されていますのでそれは難しいかと。それに後々揉めてから隠していたことがばれれば、余計面倒なことになりますよ」

「だったら、まず倒れる前日分までを計算して回収に行ってこい。相手がそのまま払う気があればよし。煩く言うようだったら、当日にこれだけ勝っていたからと値引きすれば、払いやすくなるだろう」

 学人の提案を、回収チームの連中はいい案だと思ったらしい。

「そうですね。一気に九百万円近く差し引かれる訳ですから」

「どちらにしても、ツケはきっちり貰って来い。親族がガタガタ言うようだったら、それが婆さんの意思だと言ってやれ。調査書には、土地や建物はしょうがないにしても手持ちの金は生きている間にできるだけ散財し、土地息子夫婦達には残したくないと実際言っていたとある。これは本心だろう」

「思っていた程の散財は、できなかったようですけどね」

「ああ。しかも最後の最後に大勝しやがってよ」

「それならあまり早く回収には行かず、少し様子を見てはいかがですか。もし婆さんの意識が戻れば、自分の意思で支払いはするでしょうし、回復が早いようならまたカジノに通いだすかもしれません」

 しかし学人は首を横に振った。

「あの年で二回目の発作だ。例え助かったとしても、外出はそうそうできなくなるだろう」

 だが回収チームも面倒毎は出来るだけ避けたかったのだろう。更なる提案を出していた。

「それでは本人が意識を取り戻し、それからカジノに行けないことが分かれば、その時点で債権回収の連絡をするということではいかがですか。本人が目覚めさえすれば金は素直に払うでしょう。今の時点で遺族から回収に行くより、揉めずに済む確率が高まります」

 そこでようやく学人は頷いた。

「確かにそうだな。可能性は薄いが、まだカジノに通えなくなったと決まったわけじゃない。今回のケースは少し様子を見た方がいいかもしれん。分かった。それで良いか、上の方に確認を取ってみろ。承認されれば、回収はしばらく待つ事にしよう。その代わり婆さんの様子は逐一探った上で報告しろ」

「了解しました。担当していた施設の介護士に、探るよう指示しておきます」

「そうしてくれ。ただ長引くようなら、介護士に任せっきりにしないで、お前らでも確認しろ。これ以上待てないと上が判断したら回収に行けるよう、準備はしておけ」

「分かりました」

 学人が債権回収部門の部下を部屋から追い出した為、翔一人が取り残された。一緒に出て行こうとした所、呼び止められたからだ。 

しかも今まで立たせたままだった翔を、部屋に備えられている応接用のソファに座るよう命じた。

 断ることも出来ず、指示通りに長ソファへ腰を下ろすと、彼は席を立って反対側の席に付いた。小さなテーブルを挟んで二人だけで向かい合うという滅多にない状況に、翔は戸惑った。

 学人にはカジノに誘われてからこれまで、数回程度しか顔を会わす機会がなかったからだ。苦手にしている相手の為、その方が気楽で良かったが、何故このタイミングで二人きりになったのだろうかといぶかしんだ。

 そんな疑問を表情から読み取ったらしく、彼から話を切り出した。

「俺に何を言われるのかと心配しているのか。安心しろ。叱ったり、無理難題を吹っかけたりするのに残って貰ったわけじゃない。ただ最近、高齢者専用ルームでのトラブルが増えている。だからその点をどう思うか、お前の意見を聞いておきたいと思っただけだ」

 予想外に柔らかい声を聞いて困惑しながらも、翔は聞き返した。

「意見、ですか?」

 すると更に砕けた様子で彼は笑みを浮かべながら言った。

「今は二人きりだ。敬語はやめていい。同級生の幼馴染なんだから。仕事上では上司と部下の関係だし、他の奴らの前だと示しがつかないから敬語で話して貰っているけれど、それは我慢してくれ」

「あ、ああ。それは理解しているよ」

「だったらいい。まあ聞きたい内容は仕事に絡むことだが、お前個人の見解を知っておきたい。VIPルームで働き始めてもうすぐ一年近くになるがどうだ? お前の目から見て順調だと思うか?」

 初めて聞く口調に動揺しつつ、要望に応えて慣れないタメ口で恐る恐る尋ねた。

「順調、というのはビジネスとして成り立っているかどうか、という意味で聞いているのか?」

「そうだ。あの部屋に通ってくる爺さん婆さんは、確かに金を持っている。夢中になって賭けている奴らも、当初想定していた以上に多い。金を持っている高齢者がギャンブルに嵌ると、こうも羽目を外すとは予想以上だった。売り上げも悪くはない」

「だったら順調なんだろう」

 翔は単なる補助の介護士としてスカウトされただけだ。それなのに経営に関して質問され、意見を聞かれるなど考えもしなかった。それ程彼に信用されているとは思えなかった為、不安を覚えながら無難な答えを返した。

 しかしそれでは納得しなかったらしい彼は、さらに続けた。

「売り上げの数字だけを見れば、だ。しかし今回のようなトラブルがあったり、前にも仮病を使ったりした件があっただろ。あの時はお前が上手く立ち回ってくれたおかげで、大事には至らなかった。だが他にも一度自分から出入り禁止の申し出を書いておきながら、また撤回しに来た奴がいただろ。あれから調査したが、以前ギャンブル依存症にかかっていた客だったから再発したらしい」

「一ノ瀬さんの件か。あの人、ギャンブル依存症にかかった経験があったのか」

「知らなかったのか。まあ車椅子生活になる十年以上前の事だし、介護者カードに書ける内容ではないからな。裏の調査書だと要注意人物に指定されていたよ」

「だったらどうして、こちらから出入り禁止にしなかったんだ。早めに手を打っていれば、あれほど拗らせるまでには至らなかったかもしれない」

 そこで彼は険しい表情に変わった。怒らせたと思い、翔は口を噤んだ。しかし意外な言葉が返って来た。

「しょうがないだろ。依存症の人間は、カジノ側にとってお得意様だ。むしり取れるまでむしり取れ、というのが上の判断だったんだ」

「上の判断? 高齢者ルームの責任者は学人じゃないのか?」

「俺の上にまだいるよ。お前も俺の兄貴達の事は知っているだろ」

 意外な答えに、翔は思わず尋ねた。

「天馬さんと大地さんか。え? あの二人もカジノ部門で働いているのか?」

「お前が会う機会は滅多にないから知らなかっただろうが、そうだ」

 少しばかり驚きはしたものの、学人がカジノで働いている経緯からすれば、十分考えられることだ。

 彼の父親の不動産会社は、このY地にIR施設が建設されるずっと以前から関係している。そのコネを使ってカジノへ就職し、責任のある部署を任されたのだ。彼の兄達が同じ恩恵を受けていても不思議ではない。しかも学人より権限を持つ地位にいることは、当然と言える。

 足助三兄弟で最も力があるのは、昔から長男の天馬だ。ゆくゆくは親の後を継ぐ為にと、英才教育を受けていると聞く。体が大きく喧嘩も負けなしだと言われていたが、勉強の方も相当できるらしい。

 天馬より二つ下の大地も負けず劣らずの人物だ。体は兄より細身だが運動神経は抜群で、空手も段持ちらしい。殴り合いだけなら天馬より強いとも噂されている。ただ接近戦になれば柔道が黒帯の兄とは体格差で敵わないという話だ。それでも頭脳では互角らしい。

 その二人と比べれば、学人は体格や能力も劣る。人としても小粒だ。兄達の威を借りて威張り散らしていたため、喧嘩も実際に強いかどうかなど、誰も知らない。それでも翔や直樹は昔から学人に逆らえず苛められ続けて来た。今でもその上下関係は崩れていない。

 そんな相手に意見を求められるなんて、何か裏があるのではと疑っていたのだ。しかし彼の兄達が絡んでいると聞き、ようやく納得できた。

「天馬さん達が高齢者ルームについて、何か言ってきているのか?」

「そうだ。売り上げは順調だが、余計なトラブルを起こすなと言われたよ。もっと上手くやれ、だと」

「そうはいっても、できる限り搾り取れという指示は変わらず、売り上げは伸ばせ、という訳か」

「ああ。無茶な事ばかり言われて、俺はどうすればいい。これが中間管理職の悲哀ってやつか。全くやっていられないよ」

 学人は天井を見上げて愚痴り出した。珍しく弱った姿を見せられ、翔は彼にやや同情しながら言った。

「しかし天馬さん達の指示には逆らえないだろう。具体的にはどうしろと言われているんだ?」

「もっと早くから、問題が起きそうな奴らへの対処をしろ、だと。その癖、一ノ瀬の爺さんの時はまだ搾り取れる、と出入り禁止の申請書の破棄を了承したんだぜ。俺は止めた方が良いと言ったんだ」

「あの二人にそう意見したのに、却下されたのか」

「ああ、そうだ」

 学人は頷いたけれど、目が泳いでいた所を見るとどうやらそれ程強硬に反対したわけではなさそうだ。彼も兄達には逆らえない為、心の中ではそう思っていたとしても、口には出せなかったのだろう。

 学生時代には良く分らなかったが、大人になった今なら理解できた。彼のおかれている兄弟内での立場は、学人に対する翔達以上の差があるらしい。三男坊の彼はそうした環境の中でコンプレックスを抱え、周りの弱い奴らにその捌け口を向けていたのだろう。

 愚痴を漏らし、弱みを見せる彼に同情した。しかし何故翔の前でこのような姿を晒すのかが分からない。いつの間に頼られるようになったのか不審に思いながら、尋ねた。

「板挟みになっている事は分かったが、何故俺に意見を求める?」

 すると彼は、ソファから身を乗り出すようにして答えた。

「お前は前にいた介護施設で、十六年以上働いていただろ。その間には色々なトラブルが起こったはずだ。しかしそれを上手く解決してきたと聞いている。その証拠にお前が退職してから、あの施設では問題が立て続けに起きて利用者が激減し、介護士もどんどん辞めているそうじゃないか。今では倒産寸前で、他の介護施設に吸収されるらしい。その原因の一つは、お前が居なくなり危機管理能力が極端に低下したからだと、もっぱらの噂だ」

「それは大げさだ。たまたま俺が辞めてから、厄介な問題が続いただけだろ。俺がいたからって治まったとは限らない。たかが介護士一人が居なくなっただけで、施設が潰れるなんてありえないだろう」

「いや、蟻の穴から堤も潰れると言うじゃないか。今回の件はそうだったと誰もが口にしている。仕事上、介護士連中とは良く情報交換をしている俺の耳にまで届いているんだ。間違いはない」

 以前いた施設でトラブルが相次いでいるとの噂は、翔もうっすらと耳にしている。しかし基本的に外部との情報のやりとりを制限されている為、詳しい事は知らなかった。そこまで酷い事になっていたとは、初めて聞いた。

 確かにあの施設の事務局長は仕事の出来ない人だ。それどころか、責任を周囲になすり付けることで有名だった。その為翔は最初から頼りにならない人と割り切り、その分自由にやらせて貰ったと思う。

 そういえば利用者の親族が怒鳴り込んできた時など、何故か担当外なのに呼び出されて同席させられたことがある。利用者が問題を起こした時などもそうだ。頼りにされていたかなど、自分では良く分らなかった。

 だが大事になれば自分にとっても厄介なので、とにかくその場を収めようとした件が何度かあった事は間違いない。学人が何故翔に意見を求めて来たかがなんとなく理解できた。

 さらに彼は笑みを浮かべて付け加えた。

「それにお前は腕も立つらしいじゃないか。前の施設で一度、体の大きな奴を抑え込んだと言う話も聞いたぞ。合気道を習っているみたいだな」

 翔は驚いた。もう十年近くも前の話なのに何故知っているか。尋ねてみると彼は答えた。

「お前にやられた男は、俺の一つ下の後輩だ。恥をかかされたから、仕返ししてやると騒いでいたのを小耳にはさんだ。相手の名前を聞いてびっくりしたよ。だが俺の同級生だからと止めた。老人ばかり相手をしている今の仕事だと生かす場はないだろうが、俺の近くにいればいずれ役に立つこともあるだろうと今まで黙っていたんだ」

 翔は呆気にとられた。そんな情報まで知っているとは思ってもいなかったからだ。そこで気が付いた。

 その頃から学人は自分に目を付けていたのだろう。だから経済的な問題で悩んでいる事を聞きつけ、自分を誘ったのだ。いずれ利用できる奴だと思い、隠し玉として取っておいたのかもしれない。そこまで翔の事を買っていたとは意外だった。 

 それでも曖昧に頷いていると、彼は痺れを切らしたらしい。

「とにかくこのままじゃまずい。どうにか手を打つ必要がある。そこでだ。事前に問題が起きそうな利用者をピックアップする。そのリストを渡すから、その対処をお前にやって欲しい。いいな」

 突然責任重大な仕事を振られ、翔は焦った。

「今の業務をやりながら、ってことか?」

「いや、書類上だけでは分からない点も多いだろう。既に面識がある客なら大丈夫だろうが、実際に会ったことの無い客もまだいるはずだ。対象者となり得る人物とは、少なくとも数回程接した方が良い。そうじゃないと、問題があるかどうかも把握できないだろう」

「それはそうだ。加えて調査書というものがあるなら、それも見なければならないし、場合によっては追加で調査して貰う必要も出てくるだろう。第一、今の俺の勤務形態では無理だ」

「もちろんそれなりに時間をかけて貰わないと困る。だから今やっている送り迎えの業務や、時々臨時でやってくれている入浴や食事提供サービスの手伝いは、今後しなくていい。VIPルーム内での補助は、客の様子を観察する上で必要だから続けて貰うが、それにプラスして今頼んだ業務をやってくれないか」

「ピックアップされた利用者の事前対応だけでいいのか? 今現在、問題になっている件はどうする?」

「まずはリストに上がった人物を、どう事前対処するかの打ち合わせをしたい。現在進行形の件は、別のチームで対応中だ。中には俺の手から離れている件もあるから、それはいい。お前にはこれから起こり得る問題の、火消し役となって欲しいんだ」

 しばらく躊躇していたが、彼の真剣な目を見て翔は観念した。

「分かった。どうせ断ることは許されないんだろ。それに問題が起こって面倒に巻き込まれるのは俺も嫌だからな。協力するよ」

「よし。それなら早速第一段階で渡せるリストと、調査書の用意をさせる。ただ相当な個人情報が含まれているから、取り扱いには注意してくれ。もしこれが外に出れば、お前も俺もコレだ」

 親指で首を横に掻き切る仕草をした彼に、翔は頷いた。

「もちろんだ」

 二人は席を立ち、翔は持ち場に戻ろうとドアノブを掴もうとした。するとドンドンと大きくノックがなったかと思うと、いきなり扉が激しく開いた。素早く一歩下がっていたから良かったものの、あのまま立っていれば、吹っ飛ばされていただろう。

 入室して来たのは、十数年ぶりに見る足助兄弟だった。彼らは現れるなり、翔の事など目もくれずいきなり学人に対し怒鳴った。

「おい、さっき報告を受けたが、香流久子の債権回収はしばらく様子を見ることにしたらしいな」

「勝手な判断をしているんじゃねぇ。お前はさっさと次のカモの補充をしてくればいいんだ」

「い、いや兄さん、ちょっと待ってください。あの件は下手に急ぐと余計面倒な事になる可能性があるので、もうしばらく様子を見ることにしただけです。それと新規の客の当ては既に何人か目星は付けています。近日中には連れて来ますから」

「本当か? ワザとちんたらやって、下手な同情をしているんじゃないだろうな」

「大した頭もないくせに、おかしなことを考えるんじゃねぇぞ」

「同情なんてしていませんし、おかしなことも考えていません。勘弁してください、兄さん」

 急に態度を変えた彼の姿を見ることは忍びなかった。そこで二人の眼中にない事を利用し、翔は小声で失礼します、と言い残し素早く部屋の外へと出た。そして呼び戻される前にと、全速力でその場から走り去ったのである。

 寮へと戻る途中、翔は学人との会話を思い出していた。新たに与えられた業務が責任重大な為、プレッシャーを感じていることは否定できない。だがそれ以上に学人の事が気になっていた。

 他の部門でどのような運営がされているかは判らない。しかし彼が責任者として取り仕切っている高齢者VIPルームには、余りにも問題点が多すぎる。さらに上の兄達の言いなりになっているのが実態だ。

 一年近く働いてきた中で、翔もようやく今の職場の重要性や不安要素を把握できるようになった。表向きは違法でない体裁を整えているが、実態は道義的な障害に加えて介護施設へのキックバックなど、公になれば深刻な事態を招く懸念事項を抱えている。学人を含め足助兄弟達やカジノ側の運営側もその事は理解しているはずだ。

 それなのに危険を犯してまで高齢者専用VIPルームを立ち上げ、利用者を増やそうとした背景には、ジャンケットの規制により海外からハイローラーを呼び込むことが困難だと考えられていた為らしい。そこで目を付けたのが日本特有の市場が持つ、カジノ側では小VIPに分類される層の拡大だったそうだ。

 元々日本では、パチンコという立派なギャンブル産業がある。近年減少傾向だったとはいえ、日本の成人人口のおよそ一割近くが興じているとの数字も出ていた。

 しかもギャンブル依存症の疑いがある人も多く、成人人口の四%弱、約三百万人以上いると言われている。公営カジノがあるアメリカのルイジアナ州で一%強、マカオや香港でも二%弱とのデータからすれば、既に日本はカジノが認可される以前よりギャンブル大国であり、ギャンブル依存者大国なのだ。

 こうした背景もあり、表向きは海外向けだと言いながらも高い確率で小金を落とす日本のギャンブラー達をカモにしなくては、日本のカジノが生き残ることなど至難の業と言われていたのが実情だったらしい。実際に隣国である韓国でも、国内制限しているカジノは赤字で、利益を出す為国内に住む人達の入場を促進しているという。

 超高齢者社会を迎えている日本で最もお金を持っているのは、やはり高齢者だ。その中でも二十代から四十代でバブルを経験した層の金離れは、他の世代よりもずっと良い。そうした人達が今は年齢を重ね、介護施設等の世話になり始めていた。寝たきりやアルツハイマー病を患うなど重度の要介護者となってしまえば話は別だ。しかし少し足腰が悪く、物覚えに自信が無い程度の要介護者や要支援者ならば、リハビリと称してカジノに通うことぐらいはできる。

 そうした中で小金持ちの層を厳選し、疑似ではなく本物のカジノへ足を向けさせ、お金を落とさせるよう設立されたのが高齢者VIPルームだ。ジャンケットが連れてくるハイローラーには及ばないものの、年間一千万から五千万円程度を使う小VIPにはなりうる層である。これは決して馬鹿にできない。その中には年間十億から二十億円使うVIPが潜んでいることもあるからだ。

 さらには稀だがハイローラーを掴むこともあった。ジャンケットを規制されている日本のカジノにおいて、こうした客層の開拓はとても有効に働いたという。富裕層は同じ富裕層と繋がっており、国内に止まらないからだ。一人捕まえればその人脈から多くの富裕層に噂は広まり、海外のハイローラー達へ繋がることも期待できた。

 実際高齢者専用VIPルームの創設後、数人のハイローラーを獲得することが出来たらしい。一人いれば年間百億から二百億円使う上客の為、利益は少なくとも数億円が見込める。こうした客が数人いれば年間十数億円の儲けだ。

 その下のVIPや小VIPとなれば一人当たりの売り上げは劣るものの、全体では数が多い為に同じく十数億円の利益が出るという。つまり学人が手掛けたルートだけで、最低でも数十億円の上がりがあることを意味した。

 もちろんVIPルームは他にも複数あり、それ以上の利潤をもたらす部屋が存在するはずだ。さらには普通の客達が訪れるカジノ施設での収入もあり、売り上げベースで言えば全体でおよそ数百億円に上るらしい。シンガポールでIR施設一つの全体売り上げが約一千億円と言われている。その六割から八割をカジノが占めるというのも、この内訳を聞けば頷けた。

 カジノ後進国の為、日本のIR施設の成功は危ういとの予想を覆し、今や大成功と呼べる程の実績を上げている今となっては、リスクが大きくても高齢者VIPルームを手放す選択肢は無いようだ。その為トラブル防止の事前対策を強化することになったのだろう。

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