第六章
しばらく圧倒されて口が利けなかった彼らだったが、いずれにしても至急対応が必要な事には気付いたらしい。だがすぐに代わりを見つけることもできないからだろう。
「と、とにかくこれから介護リーダーの君から、再度事情を聞いて貰えないか。このまま待たせておくわけにもいかないだろ」
しかし事務局長の指示に、彼女は難色を示した。
「それでは代わりの担当者を決めず、私に行けと言うのですか。それだと今後この施設を利用しないと言われかねません。先方は前の担当者が良かったから、今まで我慢してここにいたと仰っているんです。代わりの担当者が居なければ、引き留めようがありませんよ」
「そこを何とかするのが、君の仕事だろう。人手不足で担当者が皆、これ以上仕事を引き受けたがらないのは承知している。だからといって利用者がこれ以上減れば、施設としての経営も成り立たない」
「しかし深野さんが言ったように、手が足りていないのは事実ですから、これを機に別の施設へ移って貰った方が良いんじゃありませんか。これまで利用者自体に問題はありませんでしたが、親族の方からのクレームは多かった人ですよ」
「君までそんなことを言うのか。介護リーダーとしての責任を放棄することになるぞ」
「でしたら事務長からご親族の方に説明してください。私も同席は致します。お引き留めになるなら、やってみてはいかがですか。私には自信がありませんので、お手本をお見せいただけますか」
不毛な責任の擦り付け合いが始まり、これ以上ここにいる必要がないと判断した亜美は言った。
「ではこれで失礼します。後はそちらで勝手にやって下さい」
捨て台詞を吐いて二人に背を向け、事務局から出ようとしたところ、遠巻きに見ていた職員や利用者達が十数人程いたことに初めて気付いた。興奮していた為、大声を出したからだろう。しかもガラの悪い関西弁で怒鳴りつけていたのだ。何事かと聞きつけ集まって来ても不思議ではない。
ただ長い間
だがその日の出来事は、アッという間に施設中へ広まったのである。それからというものの、職員で亜美に近寄るものは皆無といっても過言では無くなった。
在籍していた十数年前でさえ、O県では暴走族など生きた化石のような存在だった。その為チームも数年前には解散しており、今は姿形もないと聞いている。それでもネットに昔の情報が残っていたらしく、亜美の“悪斗麗棲(あくとれす)”時代の評判は瞬く間に知れ渡った。
その噂には漏れなく過剰な尾ひれが付き、おかげで誰もが腫れ物に触るような態度を取り出した。担当している利用者でさえ、恐れをなしたようだ。いつもは口煩かった人も、亜美の前では大人しくなった。
ただ悪い事ばかりではない。休みが取れるようになり、残業も以前より減った。それに長く担当している利用者の中には、
「あなた、昔はヤンチャだったらしいわね。意外だったわ。でもそういう人の方が、大人になってから人の痛みが判る分、他人に優しくできるようになるのよ」
と理解してくれ、慰めてくれる人も少なからずいた事だ。それが僅かに残った遣り甲斐として、亜美が施設に居続ける原動力となったことは間違いない。
それでも居心地の悪さは明らかで、施設の利用者の減少も止まらなかったことから、近い内に本気で転職を考えなければならなくなるだろうと考えていた。
ちなみにユリの祖母は、別の施設に移ることが決まったらしい。事務局長達がどう対処したのかは知らないが、当然の結果だったと思う。
しかし転職すると言っても、そう簡単にはいかない。介護福祉士の資格があれば、働き場所は基本的に引手数多で困らなかった。けれども介護の世界は横の繋がりが強く、情報のやり取りは盛んだ。
その為亜美のような悪評が立った介護士となれば、まともな施設なら採用してくれないかもしれない。逆を言えば、問題がありそうな所しか雇ってくれない可能性もある。
経済的に直ぐ困るようなことはないが、生活の大半の時間を占める仕事だからこそ、こだわりは持ちたい。それにただでさえ、父の事でのストレスもある。せっかく介護士の資格を取ったのだから、今更別の仕事に就くことなど考えられない。
そうして悩んだ結果思いついたのが、翔と同じIR施設で働くことだった。採用条件や審査基準が厳しいとは聞いている。だから暴走族に所属していた過去がある亜美など、弾かれてしまうかもしれない。
だが幸い前科はなく、高校に再入学してからの十年余りは真面目に暮らしてきたとの自負もある。介護士としての経験も七年以上と、それなりに長い。
ただ普通に応募して合格するものでは無いとの噂も耳にしていた。ある程度の伝手や口利きが無いと難しいらしい。そこで翔に連絡をして何とかならないか、相談してみようと思い立ったのだ。
といって彼の携帯の連絡先は知らない。周囲に聞いてみると、それ程親しくしていた人がいなかったのか、在籍中に施設で貸し出していた携帯の番号しか知らないと皆が答えた。
ならば事務局長なら、緊急連絡先などを聞いているはずだと尋ねてみると、意外な答えが返って来た。
「残ってはいるけど、個人情報だから教える訳にはいかない。でも前の電話番号を知っても無駄だよ。実は彼が退職した直後、私も用があって連絡を取ってみたけれど、番号が変わっていて通じなかったから。それに住んでいる所も引っ越したらしく、転居先も分からなかった。だけど辞めた後に出て来た彼当ての書類を、念のため前の住所宛に郵送したら返送されなかったので、転送の届け出はしているようだ。それに今後届けなければいけない物が出たとしても、彼の伯母が入居している施設は分かっているから、そちらに届けることもできるしね」
単なる電話番号変更なら、しばらくの期間は以前の番号を知らせるメッセージを流すサービスが受けられるはずだ。住所変更も郵便局に届け出れば、一年間と期限は限られるが旧住所に送られた郵便物は転送してくれる。
しかし彼は転送の手続きしかしていないようだ。単に忘れていただけかもしれないが、その可能性は低いと感じた。これまで調べた彼の性格から考えると、これまで付き合ってきた人々との関係を意図的に絶つつもりだと思った方がよさそうだ。おそらくどうしても連絡しなければならない必要最小限の人にだけしか、新しい連絡先や住所を伝えていないだろう。
そこで亜美は一度連絡が欲しいと、前の住所に手紙を出そうとも考えたが、返事が来ないかもしれない。それならば、新しい職場に電話を入れればいいと思いついた。そこでIR施設内にあるだろう介護施設の電話番号を調べて見たのだ。
しかし不思議な事に、どこへ連絡すればいいのか全く分からなかった。施設内には亜美達が働いているような、介護施設と
ただパンフレットやネットで施設な内におけるサービスを検索してみると、IR施設を利用するお客様の中で介護の必要な方がいた場合、常時対応できる設備やサービスが整っているとの記載は見つかった。さらに介護資格を持った従業員が、二十四時間体制で勤務しているとの情報も書かれている。
亜美自身IR施設がオープンしてから、何度か一部の飲食街などに入ったことはある。だがとてつもなく広いため、入るだけでお金を取られるカジノ施設は当然ながら、ほとんどが足を踏み入れていないエリアばかりだった。
そこから推測するに、おそらく翔はIR施設の従業員として登録されており、状況に応じて呼び出される特殊な職場で勤務しているのだろうと思われた。
そこで閃いたのが、同じ介護関係ならば他の施設と連携している可能性があるかもしれないことだった。小さな診療所が大きな病院と提携しているように、IR施設内の介護対応が一時的なものであれば、恒久利用できる介護施設と繋がっていてもおかしくない。
どうせ亜美の良からぬ過去の噂も、介護施設同士の結びつきにより、かなり広まっているだろう。それを逆手に亜美が翔の情報を欲していると口にすれば誰かの耳に入り、知りたいことが得られるかもしれない。
そこでかつて亜美に好意を寄せていた、兄の同級生でもある真壁直樹が、別の介護施設で介護士をしていることを思い出した。数年前に一度、市内の介護士が集まる勉強会で彼に会ったことがある。そこから話が盛り上がり、デートに誘われたのだ。在職中に唯一亜美に近づいてきた人物である。
しかし彼は亜美の黒歴史を知らなかったらしく、途中で兄か別の人間から聞かされたのだろう。ある時を境に連絡がピタリと止んだ。亜美も別にタイプでなかった為、特別ショックを受けてはいない。ただ勝手に惹かれていながら一方的に振られた気がして、少しばかり気分が悪かった事だけは覚えている。
数年前に交換したあの頃の連絡先が変わっていなければ、直接話はできるだろう。職場も以前のままなら、そこに掛けたっていい。
思い立ったが吉日とばかりに、亜美はその日の仕事が終わった後、早速スマホのアドレス帳から彼の連絡先を探し出し、呼び出してみた。すると数コールした後、はいと言う声がしたのである。
相手が名乗らなかったので、他人の可能性もあると思い尋ねた。
「もしもし、真壁直樹さんでいらっしゃいますか?」
すると
「はい、そうですが、亜美、さん?」
どうやら覚えていたようだ。もしかすると番号を登録していたのかもしれない。それでも掛かってくるはずがない相手だと思って、先ほどのような態度を取ったとも考えられた。
いずれにしても連絡先はそのままだったようだ。そこで亜美はとびっきりの明るい声を出し、愛想よく話し始めた。
「そうです! 深野亜美です。ご無沙汰しています。突然電話して申し訳ありませんが、今お時間は大丈夫ですか?」
「あ、ああ、大丈夫だよ。仕事が終わって丁度部屋に戻ったばかりだから」
真壁は若干戸惑いながらも、まだ警戒している様子に取れた。そこで早速本題から切り出す。
「すいません。実は探している人がいまして、直樹さんや他の施設の方なら、どこかでお会いしていないかと思ったんです」
「探している人? 誰? 俺の知っている人?」
興味を持ったらしく、真壁の声は緊張が解けていた。おそらく自分には余り関係が無い事だと分かったからだろう。
「多分ご存知のはずです。私のいる施設に最近までいた立川翔さんです。確か兄や真壁さんと同じ小中学校出身で、三つ上の先輩だったと以前伺いました。介護士の勉強会でも、何度か顔を会わせたことがあると思いますけど」
するとしばらく沈黙があり、先程とは違った
「どうして探しているの?」
「実は少し前に立川さんがうちの施設を辞めて、IR施設関係で介護士の資格が必要な仕事に就かれたそうです。そこまでは本人から直接伺いましたが、私も同じようにIRで働けないかと思って、それで口利きをお願いできないかと。あそこはコネや伝手が無いと採用は難しいと聞いていますから」
「深野さんは、今の施設を辞めるつもりなの?」
「実は最近、ちょっとやらかしまして。直樹さんはご存知だから言いますけど、余りにもイラつくことがあってつい昔の癖で、上の人を怒鳴りつけたんですよ。だから居づらくなってしまって」
彼は亜美の過去を思い出したらしく、再び声が強張った。
「あ、ああ。でも隠して大人しくしていたんじゃなかったの?」
「そうだったんですが、昔の私を知っている人が利用者の身内にいまして、色々上から問い詰められたんです。それでこれまでの鬱憤を一気に吐き出しました。そしたら昔の噂が一気に広がっちゃって」
その時の様子を簡単に説明すると、彼は苦笑していた。
「それは、さすがにまずかったね」
そんなことは分かっている。そこで亜美は話を進めた。
「真壁さんの反応からすると、まだそちらの施設に私の噂は広まっていないようですけど、この世界って狭いじゃないですか。だから転職するにしても、ちゃんとした施設であればあるほど、採用されるのは難しいと思ったんです」
「それでIR施設はどうかと考えたの? もっとハードルが高いと思うけど」
「そうなんです。でもどうせ転職するのなら、遣り甲斐があって尊敬できる人の近くが良いなと思ったんです」
「その尊敬できる人が立川さんなの?」
亜美は電話口で深く頷いた。
「すごく大人しい人でしたけど、仕事は出来て私も助けられたことがあるんです。それにあの人がうちの施設を辞めてから、トラブル続きでどんどん利用者が減って、今大変なんですよ。立川さんがいたから今まで何とかなっていたんだって、皆気付いたくらいですから。でもそんなの、後の祭りじゃないですか」
「あの人ならそうかもね。トラブル対応には長けている人だから」
聞き流せない言葉を耳にし、亜美は尋ねた。
「真壁さん、もしかして今の立川さんの仕事ぶりを知っているんですか? いまどこで働いているか、ご存知なんでしょう。そうじゃなかったら、トラブル対応に長けている人なんて言えませんよね?」
電話の向こうで、あっという小さな声が聞こえた。どうやら当たりを引いたらしい。このチャンスを逃すものかと畳みかけた。
「今どこの施設で、どんな仕事をしているんですか? 部署の連絡先は? 個人的な連絡先も知っているなら教えてください!」
長い沈黙が続いた。やはり彼は翔と接点があるらしい。しかし転職を機に電話番号を変え転居までしたのだから、おそらく今の居場所や連絡先を極力知られないようにしているはずだ。真壁さえ知らないか、固く口止めされているのだろう。それでもやっと掴んだ細い糸を手放したくない。その為じっと彼の回答を待った。
ようやく彼は喋り出した。ほんの十数秒がこれほど長く感じたことはない。しかし内容は想像通りのものだった。
「ごめん。個人的な連絡先は知らないけど、働いている部署は分かる。でも特定の人にしか教えられない決まりなんだ。それを破ると俺が出入り禁止になってしまうから」
「出入り禁止? じゃあ立川さんが働いている施設に出入りしているってことですか? よくお会いしているんですか?」
「会うのはたまにだし、話す機会はほとんどない。だけど最近見かけたばかりだ」
パッと目の前が明るくなった気がした。彼の居所が分かったのだ。
「それは本当ですか? 元気でしたか?」
勢い込んで質問する亜美に対し、彼は落ち着いた声を取り戻し、淡々と話し始めた。
「ああ。元気だよ。今の仕事先でも入ってそれ程経っていないのに、責任のある役職に就いているみたいだ。でも今の話を聞いて合点がいった。君のいる施設でも頼りにされていた程優秀な人だったんだね。だから引き抜かれたんだろう」
「どんな仕事をされているのですか? やはり介護の仕事ですよね? でもIR施設内では、それらしい部署が見つかりませんでした。もしかしてホテルの中ですか? 宿泊されるお客様で介護の必要な人が居たら対応する仕事ですか?」
翔の職場を特定するため鎌をかけてみたが、彼は否定した。
「ホテルではないよ。でも介護士資格を生かした仕事なのは間違いない。少ないけれど俺も会う機会があるのはそういう職場だからだ」
「では連絡先を教えて貰えなくてもいいので、私も同じ職場で働きたいと思っていることを、真壁さんから伝えることは出来ますか。面接ぐらいは受けさせて貰いたいのですが」
亜美の要望に彼は困惑し、声が曇った。
「本当に働く気? 俺は辞めた方が良いと思う。お勧めはしない」
「どうして?」
「ど、どうしてって言われると困るけど、立川さんだって元気に働いてはいるけど、大変だと思うよ。給与が良いからしかたなく我慢しているんだろうけど、あの人はあんなところで働く人じゃない」
「あんなところ? 一体どんな仕事なんですか?」
再び彼は黙った。そこで以前翔が施設を辞めると聞かされ、その理由を探った時の事が蘇った。面倒を看ていた伯母に経済的な事情が起こり、止む無く転職を決めたとの噂を思い出す。
収入が良い分、仕事は相当きついのだろう。今いる施設でも厳しい環境の中、亜美達は決して高いとは言えない給与で働かされている。彼が施設を去った際
真壁も既に伝手を持ちながら、今の介護施設で働いているのは、そうしたことからだろう。だから亜美にも勧めないのだと思った。
そこでこちらから押してみた。
「給与が良い分、仕事内容が辛いことは覚悟しています。それに私がいくら働きたいと思っても過去の事があるので、厳しい採用条件で撥ねられるかもしれません。でも挑戦ぐらいはさせて貰えませんか。それで駄目だったら諦めますから」
「いや、そうは言うけど、」
「お願いです。話だけでも通して下さい。それだけでいいですから」
しつこく粘る亜美にとうとう根負けしたらしく、最後には渋々ながら了解してくれた。
「分かったよ。でも俺は辞めて置けと言ったからな。それに面接してくれるかどうかさえ難しいと思うし、例え受けられたとしても採用まで至らないかもしれない。だけど話だけはしてみるよ。ただし面接を受けられることになっても、きちんと向こうの話は聞いておいた方が良い。仕事の内容が君の希望に合うかどうか、しっかりと確認して欲しい。その上で転職するかどうか決めてくれ」
「ありがとうございます! 恩に着ます!」
そこで真壁は深い溜息を吐いて言った。
「じゃあ君の意向と連絡先を向こうに伝えてみる。駄目だと言われた場合は俺から電話するけど、一度会ってくれるようなら、先方の担当者から連絡があると思う。その段階まで進めば俺の手から完全に離れると思う。それは理解して欲しい。あくまで俺は反対したからね。でも面接を受けられない様に邪魔することはしない。それは約束する。ただし先方に質問されたら、俺の知っている事は正直に話すよ。例えば過去の事とかね。嘘をついても後で絶対ばれるから」
「分かりました。それで十分です」
そうして真壁との電話を終えた亜美だったが、後に大きな後悔をすることになるとは、この時夢にも思わなかった。
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