第3話
もう真夜中にもかかわらず、クリスマス前の街は煌びやかなネオンを纏って眩いほどに明るかった。大通りを挟んで並ぶ街路樹のほうが、濃紺のコートで身を固めた私たちよりずっと華やかに着飾っている。
肌に刺さるような師走の冷たい風に「寒い寒い」と文句を言って、悠々と横を駆け抜けていくタクシーを恨めしく睨みつけながら、私とお姉ちゃんは並んで歩いた。
川面に灯篭のように浮かぶ繁華街の明かりを横目に橋を渡り、もうすぐお姉ちゃんのアパートというところで、
「あ。ドーナツ食べたくなってきた」
お姉ちゃんはそんなことを言い出した。
思い立ったら吉日、猪突猛進、無鉄砲。そのどれもがお姉ちゃんをよく表しているようで、まだ足りないような。どこにそんなエネルギーを溜め込んでいるのか、と感心してしまうほどの行動力を持つお姉ちゃん。昔はやんちゃで済んでいたけど、今じゃ妹の私からしても危なっかしいと思うほど。そんなお姉ちゃんに「もう夜中だよ」とか「太るよ」とか言っても無駄。もはや、無粋だ。
すぐに近くのコンビニに駆け込むお姉ちゃんのあとについて、私もドーナツを一つ選んだ。チョコレートの生地にホワイトチョコレートがコーティングされたドーナツ。見ているだけで口の中でよだれが溢れてくる。
「相変わらず、ど甘いの選ぶよね」
コンビニを出ると、私にドーナツを渡しながら、お姉ちゃんは呆れたようにそう言った。自分のドーナツは腕に提げたコンビニ袋に入れたまま、百円コーヒーを大切そうに両手で抱いて……。
まだ酔いが残って赤らんだ顔でコーヒーを啜り、ほっと息を吐く。その横顔を私は横目で見ていた。うっとりとまどろむような眼差しに、ホッと安堵した表情。街のネオンに照らされて、その白い肌は七色に輝いて――ああ、これが色っぽいってことなのかな、て思ってしまった。それがなんだか悔しくて、「眠れなくなるよ」て、つい水を差した。
「大丈夫」私の悪意なんて気づく様子もなく、お姉ちゃんは得意げに笑む。「私、カフェイン効かないから」
「そんなことあるの?」
疑るように睨みつけても、お姉ちゃんはなんのその。さっさと「で?」と話題を変えた。「どうだったの?」
「どうって?」
「賢太郎に決まってんじゃん。何かあった?」
ちょうど、赤信号に差し掛かって、立ち止まったときだった。私は「別に」とぶっきらぼうに答え、ドーナツの袋を開ける。「なにも」
「なにもって……そんなミニスカート履いて行って、無反応?」
「無反応じゃないよ。寒いだろ、て膝掛け渡してくれたし」
「膝掛け!? なにそれ、おばあちゃんか!?」からからと笑って、お姉ちゃんは呆れたように肩を竦めた。「あんたもさ〜、よく飽きないよね。一途って言うか、
「優しいとこ」
ムッとして答えると、
「男は優しいだけじゃ退屈よー、ナオさん」
はあ、と隣でため息つくのが聞こえて、コーヒーの苦々しい香りが漂ってきた。
「いいの。私は優しい人がいいんだもん。お姉ちゃんと違って」
ぽろっとそんな嫌味がこぼれ出ていた。
「私と違って、てなによ?」
「だって……お姉ちゃん、いっつも泣かされてんじゃん。浮気ばっかされてない?」
ひとつ間をおき、ふふ、とお姉ちゃんは意味ありげに笑った。
「ナオは分かってないのね〜。オトナの苦い恋の味が」
「分かりたくないし」
酔っ払いめ。
私はドーナツを袋からちょっとだけ出し、一口頬張った。しっとりとしたチョコレート生地に、なめらかなホワイトチョコレートが口の中で溶けて絡み合っていく。その甘みはじーんと身体の芯まで沁みていくようで。尖った心も一瞬にして癒される。幸せの味ってやつかな。ゆっくりと噛み締めるように、その甘みを堪能していると、
「ああ、でも……」ふいに、低い声でお姉ちゃんはつぶやいた。「賢太郎にも言われたことあったな。なんで、いつもロクでもない男ばかり選ぶんだ、て」
え、と振り返ったときには、信号は青に変わってお姉ちゃんは歩き出していた。
ごくりとドーナツを喉の奥に押し込んで、慌てて私はお姉ちゃんのあとを追いかけた。
「なに、それ? いつの話?」
「高三のとき? お前が傷つくのをもう見たくないんだ、とか言われてさ」
「そんなこと言われたの?」
いいなあ、と思わず出そうになった言葉を私はぐっと飲み込んだ。「やっぱ、賢太郎って優しいね」
「なんで、そうなんの!? 優しくないでしょ。大きなお世話じゃん。なんであんたが気にするのよ、て言ったら黙り込みやがって。意気地なし」
我が姉ながら、救いようがないというか。賢太郎の優しさが分からないとは、もはや同情する。だから、いつもロクでなしにひっかかるんだ。賢太郎も呆れて言葉が出なかったに違いない。ここは、私が仇討ちを。
「お姉ちゃん、そんな調子じゃいつまでも幸せになれないよ。せめて、浮気しない人と付き合いなよ」
すると、少し間を空けて、お姉ちゃんの横顔にふっと笑みが浮かんだ。まるで、自嘲するような――。
「そう言われてもさぁ……好きになっちゃうんだもん、仕方ないじゃん」
横断歩道を渡りきったところで、あ――と、私は思わず立ち止まった。
背後をざあっと駆け抜けていく車の風を背中に感じた。
あのときの――今もまだ耳に残るその一言が、華やかに彩られた夜の街に蘇った。甲高い怒号のようだったあの時とは違い、しっとりと濡れた艶やかな声色で綴られて……。
「どうしたの?」
立ち止まった私に気づいて、お姉ちゃんも足を止めて振り返った。
何て言えばいいかも分からず、私は首を横に振った。そんな私を訝しげに見つめながら「ふーん」と言って、お姉ちゃんはコーヒーを啜る。美味しそうに満足げにふうっと白い息を吐き出すお姉ちゃんが、まるで宇宙人みたいに見えた。
理解できなかった。
なんで? て、怒鳴りつけてしまいたくなる。
すぐそばに賢太郎がいるのに。いつでも手が届くところに賢太郎がいて、なんで、わざわざ痛い目を見るような恋をするんだ。
胸の奥がざわついて、もやのようなものが心を覆っていくのを感じた。
「あ。ナオも一口飲む?」
ふいに、お姉ちゃんは思い出したように、百円コーヒーを差し出してきた。
「ドーナツだけじゃ飽きるでしょ。甘いのと一緒に飲むコーヒーは格別なのよ」
得意げに放たれたお姉ちゃんのその一言が無性に腹立たしくて、「いらない」と私は冷たく返した。
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