第2話

「遅くなっちゃってごめんねー」


 そんな呑気な声が玄関から聞こえてきたのは、もうすぐ十二時というころ。部屋にごろんと横になり、うとうととしていたときだった。

 いつになく高いテンションの声に、ああ、飲んできたんだな、てすぐに分かった。

 相変わらずの自由人め。


「人ん家に妹置いて、飲んできたのか?」と、応対に出た賢太郎の呆れた声が続く。「バイトだって言うから預かってたんだぞ」

「バイトだったよ。そのあと、ちょーっと懇親会が……」

「何か懇親会だ。流れで飲みに行くことになっただけだろ」

「分かってんじゃん。さすが」

「さすが、てなんだ。鬱陶しいわ」


 玄関から聞こえるそんなやり取りは、昔から変わらない。ガミガミ叱る賢太郎に、のらりくらりとかわすお姉ちゃん。気が合わないくせに、息は合っているような。小学校のミニバスクラブで仲良くなってから、中学、高校、大学――と同じ学校に通う二人の……もはや芸風とでも言える掛け合いだ。

 私は寝転がったまま、キッチンのある廊下へ視線をやる。その奥の玄関には、向かい合う二つの人影があった。腰に手をあてがい、「ナオは受験生なんだぞ」と小言を続ける賢太郎の背中の向こうで、「賢太郎はナオに甘いんだから」と赤ら顔でへらへらしているお姉ちゃん。

 私のショートボブよりずっと短い、ベリーショートの黒髪。モデルみたいにすらっと背の高い華奢な身体は、タイトなニットトップスにスキニーデニムが様になっている。

 母親に似て、やんわりとした印象の顔立ちらしい私とは違い、父親似のお姉ちゃんは、ぱっちりとした目に、すっと鼻筋の通った顔立ちで、賢そう――に見えるのだが、蓋を開ければこんな感じだ。だらしないというか、いい加減というか。そのせいで痛い目も見てきたはずなのに、懲りる様子もなくて。妹の私でさえ呆れてるのに、賢太郎だけはこうして、いつも律儀に説教してあげている。

 でも、一度だけ――。

 お決まりの挨拶みたいに言い合いを続ける二人を眺めながら、ふいに思い出す。

 一度だけ、賢太郎が本気で怒っているのを聞いたことがある。荒々しい声がお姉ちゃんの部屋から聞こえてきて、私は自分の部屋で息を潜めて縮こまった。壁越しでくぐもった声は早口で、二人が何を言い争っているのかまではよく分からなかったけど――ただ、一言。耐えきれなくなって部屋から出たとき、ひときわ、大きなお姉ちゃんの苛立った声が廊下まではっきりと聞こえてきた。『だって、好きになっちゃったんだもん。仕方ないじゃん』、て。

 なんで、喧嘩してたの? って、聞けばいいのに。あのときも、今も、お姉ちゃんにも賢太郎にも聞けないでいる。聞いちゃいけない気がして……。

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