ブラックコーヒーと甘党な私

立川マナ

第1話

「だって、好きになっちゃったんだもん。仕方ないじゃん!」


 壁越しに聞こえたお姉ちゃんのその声が、耳にこびりついて離れない。

 あのとき、お姉ちゃんは高三で、大学受験真っ只中。

 あれから三年。ようやく私もあのときのお姉ちゃんと同じ十八歳になった。


   *   *   *


「なにジロジロ見てんだ、ナオ?」


 暖房の音が耳障りなほど静まり返った狭いアパートの一室に、低い声が響く。

 狭い丸机に向かい合って座り、これだけ見つめていたら気づかれて当然。――もちろん、分かってやっている。

 ホットミルクティーのはいった缶に口を当て、甘い香りのする湯気に「なんでだと思う?」なんて言葉を紛れ込ませる。すると、難しい顔してパソコンを睨みつけていたその男は、途端に頰を赤らめ、「知るか」と吐き捨てるように言って、酒でも呷るようにコーヒーをぐいっと飲んだ。

 そんな狼狽える姿も、かわいいなぁ、なんて思ってしまうんだ。三つも年上なのに――。

 出会ったころはまだ小学生で、体も丸々としていたのに。いつの間にやら、肩も胸板もがっちりと逞しくなって、男臭い奴になってしまった。

 眉は凛々しく、切れ長の目は冷たい印象で、黙っていると怒っているみたい。口を開けば開いたで、そっけない言葉しか出てこない。それでも、たまに笑うと無邪気な子供みたいに八重歯を覗かせ、ここぞというときは落ち着いた声で甘い言葉をくれる。そのギャップがね、たまらなかったりするんだ。


「楽しみだなぁ。来年から、私、賢太郎と同じ学校だ。小学校以来だね」

「受かれば、だろ。勉強しろよ」

「受かるし。勉強してるし」


 空になった缶を机に置き、私はシャーペンを握り、開いたまま放ったらかしていた参考書に視線を落とす。


「勉強教えろ、て言う割に、全然進んでる様子ねぇんだけど」

「教えてくれるって言ったのに、全然教えてくれる気配ないんだけど」

「教えるなんて言ってねぇよ。お前の姉ちゃんに、バイト終わるまで子守頼まれただけだ」


 シャーペンの芯がノートを引っ掻き、爪痕のような一筋の線を描いてぴたりと止まった。

 冗談っぽく放ったその言葉がどれほど私の心を抉るか、賢太郎は分かっているのだろうか。分かって言っているのだとしたら……すごく残酷だ。

 八畳ほどの狭いアパートの部屋に二人きり。ベッドの傍らで、男と女が丸机を挟んで向かい合い、その距離、一メートルもない。真冬にミニスカート履いて、こっちはばっちり戦闘態勢なのに。それでも何も起きず、カタカタと賢太郎がキーボードを叩く音が響くだけ。

 この状況がなによりの証拠。賢太郎にとって、これは『子守』でしかないんだ。私には立派なデートでも。

 キャンパス見学もかねて、お姉ちゃんのところに行ってくる――そう親に言って、電車で一時間の道のりを単語カードめくりながらやってきたのは、お姉ちゃんに会うためじゃない。私が会いたかったのは、賢太郎で……そんなの、賢太郎だって分かってるはずなのに。

 それでも、まだ子供扱いして、私を躱すんだ。


「コーヒー、私も飲もうかな」


 悔しまぎれにそんなことをつぶやくと、賢太郎は私に視線もくれずに「飲めないだろ」と知ったような口で言ってくる。


「飲めるし」


 玄関へとつながる廊下に出て、小ぢんまりとした簡素なキッチンに立つ。几帳面な賢太郎らしく、流しは水滴一つ残さずきっちり拭かれて、ステンレスのシンクがキラキラと光っていた。

 シンク脇のコーヒーメーカーには、保温したままのコーヒーがガラス容器に半分ほど入っていた。棚から取ったマグカップにそれを注ぎ、一口啜る。その途端、焦げたような香りとともに舌が痺れるような苦味が口の中に広がって、私は思わず、むせた。


「……にがっ」


 ちょっとそう零しただけなのに、部屋のほうから笑い声が聞こえてきた。いまにも、「ほらな」と勝ち誇ったように言われそうだ。

 腹立つ。

 中学のとき、賢太郎はドリンクバーでメロンソーダばかり飲んでいた。ぽっちゃりしてた時期だってあったのも私は知っている。高校に入って痩せたけど、それでも、放課後、コンビニの前で幸せそうにあんまんを頬張っているのを何度も見かけた。絶対、甘党。間違いないんだ。そんな賢太郎がブラックコーヒーなんて飲んでる姿は、私には滑稽にさえ見えてしまう。


「賢太郎だって、無理して飲んでるくせに」


 ぼそっとそんなことをつぶやくと、「なんだ、それ」と鼻で笑って賢太郎が部屋から出てきた。


「これで少しは飲みやすくなるよ」


 そう言って、賢太郎は牛乳を冷蔵庫から取り出し、「ほら」と私のマグカップに勝手に注ぐ。


「砂糖もいれるか?」


 牛乳片手に、ふっと微笑む賢太郎。いつもはきりっと鋭い目が、口元が緩むとたちまち優しげな眼差しへと変わる。じんわりと顔が熱くなっていくのを感じて、私はとっさに目を伏せた。

 マグカップの中で、苦いだけだった憎らしいコーヒーが牛乳と渦を巻いて混ざり合い、色を変えていく。


「……いらない」


 ぼそっとそう言って、私はマグカップに口をつけた。

 ――もう充分、甘いもん。

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