友禅の悪魔
「誰かを好きになる感情、っていうのは、これは一言で表せるものじゃない。今、君が俺に何か語ったとしても、それが本心かどうかはわからないし、探ろうとも思わない。だから、この際、君がなんで藍子さんに『好き』と言ったのか、どうでもいいんだ。君だって、想いをぶつけてしまった理由は、自分自身でもよくわかっていないんだろ?」
恐ろしい人だ、と綾汰は苦笑した。
何もかも当たっている。どこまで人間を深く観察しているのか。二度しか会っておらず、あとは姉から話を聞いた程度で、こんなにも自分の内面を暴き出してくるとは、まるで悪魔のような人だ。
そう、この遠野晃という男は、喩えるなら「友禅の悪魔」。
悪魔を前に、「友禅王子」が対峙している。今のこの状況は、そういう図式だ。
「とはいえ、頼まれた以上は、彼女に答えを持って帰らないといけない。さて、そこで君に尋ねたい。どんな答えを、藍子さんに伝えてほしい?」
「それは……」
「一、姉として好き。二、母のような存在として好き。三、友禅作家として好き」
綾汰は次の言葉に窮した。どれも違う。どの選択肢も、自分の気持ちを表すのに、的確ではない。
「答えは出てこない? そうすると、一人の女性として……」
「違う! どれも、藍子さんに伝えるような答えじゃない!」
たまらず、綾汰は叫んだ。
「さっき、あなたが言ったんじゃないか! 誰かを好きになるというのは、一言で表せるものじゃない、って! 藍子さんは、藍子さんだ! 姉であるとか、友禅作家であるとか、女性であるとか、そんなのは関係ない! ただ、僕は……!」
母の顔が蘇ってきた。
五歳の頃の、もやがかかったような記憶ではあるが、それでも胸に刻まれた温かい感情とともに、母静枝の笑顔が脳裏に浮かんでくる。
知らず知らずのうちに、涙がこぼれ落ちていた。
ずっと耐えてきたものが、一気に溢れ出てくる。
「もう、僕の前から、いなくならないでほしいんだ……!」
素直な感情を吐き出すことで、今までひねくれつつあった自分の心が、元通り純粋な状態へと戻っていくのを感じた。
同時に、今の自分が何をしたいのか、やっと見えてきた。
何が許せないかというと、姉が一度工房から逃げ出したこと。それは、綾汰としてはかなりの裏切り行為であり、ショックな出来事であった。
気持ちとしては、姉が自分を見捨てた、という想いもどこかにあった。
もっとシンプルな言い方をするなら、寂しかった。
姉は一緒に加賀友禅作家としてデビューし、自分と肩を並べて作品作りをしてくれるものだと思っていた。
「ならば、君は、藍子さんにどうしてほしいんだ?」
「戻ってきてほしい。正しい加賀友禅の世界に。ちゃんとした友禅作家を目指して、今度こそ、作家になってほしい」
「今まで、藍子さんのことを散々非難してきたみたいだけど、それでも彼女には作家になってほしいのかい?」
「友禅作家として生きていくのは大変だし、いつまでも修行中の身でいるのを見るのも辛かったし、だから諦めてほしかったんだ。そんな藍子さんを見ているのは、辛かったから。でも……本当は……」
そばにいてほしい。同じ友禅作家として、いつまでも手の届く場所にいてほしい。
一番姉に伝えたいのは、その気持ちだった。
「どうする? 俺から伝えるのも、変だろ。直接会ってみるかい?」
晃はポケットからスマホを取り出し、自分の顔の前で左右に振った。
「会いたい」
綾汰は顔についた涙を拭うと、力のこもった声で自分の気持ちをぶつけた。
会って、藍子と話がしたかった。
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