母が再婚した時
「コーヒー、冷めちゃいました?」
「ごめんね。下絵に夢中になってた。せっかく淹れてくれたのに」
「大丈夫です。新しいの、お持ちしますね」
玲太郎は作業部屋から出ていった。
少し休憩しようかと、藍子は畳の上に寝転がった。若干、睡眠不足でもある。作品作りに欠かせない集中力を保つためにも、仮眠が必要だ。
新しい珈琲が来たら、それを飲んで、もう少しだけ作業をして、そうしたら昼寝でもしよう。いま、午前一一時。そういえばお昼ご飯も食べていない。眠るのはご飯を食べてからでもいいか。
だけど、眠れなかった。
綾汰のことが気になって仕方がない。
「しょーがないな……あそこに行ってみるか」
工房の方を直接訪ねるわけにもいかないから、多少搦手ではあるが、次に最も確実なところで、様子を伺ってみることにした。
「あれ? 藍子さん、どこか行くの?」
お盆にコーヒーを載せて、作業部屋に入ってきた玲太郎は、出かける支度をしている藍子を見て、小首をかしげた。
「うん、ちょっとだけ、小立野の方に行ってくるね」
淹れ立てのコーヒーを飲ませてもらうと、藍子は足早に、遠野屋旅館から出ていった。
目的地に向かって歩きながら、昔のことを振り返った。
綾汰が初めて家にやってきたのは、藍子が一一歳の頃、新学期が始まる前の三月、まだ少し肌寒さの残る日のことだった。
口髭を生やしたダンディな父親に連れられて、ちょっとふてくされた表情で、五歳の綾汰は玄関先に立っていた。
再婚に伴い、母の姓は上条に変わったが、この当時は持ち家があったので、新しい父のほうが藍子達のところへやって来ることとなった。
もともとは能登の七尾市に住んでいたという上条家にとって、金沢への移動は、実際のところ少なからず負荷がかかっていたに違いない。
住み慣れない土地に移ってきて、綾汰は、しばらくの間、浮かない顔をして生活していた。
藍子のほうは両親の離婚であったが、綾汰は母親を亡くしている。
物心つくようになって、これからいっぱい母親に甘える、というような時期に、いきなり新しい母に変わってしまったのだ。
突然の環境の変化に、幼い綾汰がすぐに順応できるはずもなかった。
そうやって、少しばかり落ち着かない日々が半年ほど続いたが、どういうわけか、ある日を境に、急に綾汰は母に懐くようになった。
新しい母親との生活に慣れたからかもしれなかった。
だけど、藍子は、きっと母親と綾汰との間に、何かがあったのだと思っている。
自分が知らないところで、何か、二人だけのドラマが。
そして、きっと、そのことが綾汰を加賀友禅の作家になることへと駆り立てる、強い動機となっていたのかもしれない。
藍子を上回るほどの、激しい情熱を伴って。
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