タッタ、タ、ダン!

泳ぐ人

タッタ、タ、ダン!

「コーイチって歩きだろ? 毎日大変だよなあ」


 友人の佐藤はバスのステップに足をのせながら、一瞬だけ振り向いて言った。


「帰りは下りだし楽だよ。慣れれば筋トレにもなるしね」


 笑いながらバスを見送る。バスのお尻が見えなくなったころ、気合を入れて部活道具のエナメルバッグを持ち上げた。

 楽だなんて大嘘だ。誰もいない校門前でため息をつく。野球道具の詰まったバッグの重さは、ずぶずぶと気分を沈ませる。


 町の中心街から外れた山の中腹に建つ、町立の中学校。険しい坂道の通学路を大量の汗をかきながら毎日登下校している。

 町外れという立地もあって、佐藤のように学校から離れたところに住んでいる人がほとんどだ。スクールバスにも、自転車にも乗らない僕みたいな生徒の方が少ないくらいに辺鄙へんぴな場所。

 数年後には、もっと人の多い学校と統合されて廃校になってしまうらしいが、三年の僕には関係のない話だ。


 午後六時のサイレンが何かを急かすように鳴り響く。音の出所を探して宙に視線を投げると、大火事のような夕焼けが目に焼き付いた。


「そういえば今日塾だった! 急いで帰らないと母さんにまた怒られる……!」


 真っ赤になった母の顔が夕焼けと重なった。自然と歩く速度が速くなる。


「近道……」


 バスも通る比較的広い通りから外れた、細い道に足を向ける。車も通れないようなこの路地は杉の木立で光がさえぎられて薄暗い。

 ボロボロのアスファルトが敷かれたこの道は、お寺と墓地に面しているため普段は絶対に通らない。人通りもほとんどないとなれば、好き好んでそちらに入る人は少ないだろう。あれだけ急いで歩いていた足にも、すっかりブレーキがかかってしまう。


 家に帰ってシャワーを浴びて、早めの夕飯を食べてから母に送ってもらい七時までに塾へ行くというそれなりに過密なスケジュール。それを遂行するにはここを通ってショートカットするしかない。意を決して重たい一歩を踏みしめた。


「適当な高校でいいって言ってんのに……」


 恐怖を体から追い出すようにつぶやく。電車で一時間の場所にある進学校へ行けと、母さんは口を酸っぱくして言う。こっちとしては、もっと運動部の活動が盛んで、家から近い高校で野球をやれればいいのに、それではダメだと言われて渋々塾に通っている。


 自分の意見が通らなかった春の面談を思い出して胃がむかむかしてきた。足を踏み込む強さが少しだけ乱暴になって、バタバタと音を立てる早足になった。路地に入る前の恐怖心が薄れると同時に、自分がたてているものではないもう一つの音に気付く。


 真後ろから足音が聞こえるのだ。


 僕と同じように近道をしている中学生だろうか。早歩きでバタバタと少しうるさい足音が一定の距離を保ってついてくる。

 なんとなくその音が気になった。顔こそ向けなかったが、耳だけ後ろに集中させる。その足音を聞くために速度を緩めると、それは途端に静かなものに変わった。


 小さく首を傾げる。違和感があった。その音のどこにそう感じるのかは上手く説明できない。だが、その違和感がなんなのか考え込んでいたせいで、足元の危険に気づくのが遅れてしまった。


「げっ、ウンコだ」


 間一髪、歩幅を広げて回避する。

 苛立ちとともに足を止めてから、先ほどまで感じていた違和感の正体に気づいた。今だって後ろの彼は足を止めている。フンを目前にして立ち止まったのだろうか。いいや、違う。歩き方をこちらに合わせていたのだ。


 小走り気味に歩き出す。後ろの彼も小走りになる。ベチャという水っぽい音がして、足音が粘り気のあるものに変わった。しかし、彼は歩みを止めない。


 ――ベチャッ、タッ、ベチャ、タッ、ベチャ。


 恐らくフンをまともに踏み抜いたのだ。踏んだ方の足と無事だった方の足音がそれぞれ違う。それなのに、足を止める様子はない。試しに、こちらが歩く速度を緩めてみる。


 ――ベチャ。タッ。ベチャ。タッ。


 全く同じ速度で彼はついてくる。ストーカーという五文字が脳裏に浮かんだ。不審者の情報などはあっただろうか。帰りの会くらいしっかり聞いておけばよかった。


 刺激してはいけない。なるべく普通でいよう。そう思って努めて普通の速度で歩くと、彼も速度を合わせてくる。

 頭の中は真っ赤な警告灯がぐるぐると回っていた。振り返ろうか振り返るまいか考える。もし振り返ってしまったら、後ろの彼を刺激してなにかの事件に発展するかもしれない。昨晩見たサスペンスバラエティが頭をよぎる。よりにもよってストーカーや誘拐事件の特集回だった。


 嫌な予感が次から次に湧いてきて、急かされるように早歩きになっていた。しかし、足がもつれてたたらを踏んでしまう。不格好な足音が響いた。


 タッタ、タ、ダン!


 ――タッタ、タ、ダン!


 彼も同時にたたらを踏んだ。気が付いた時には自分で自分を止められなかった。

 反射のような勢いでこれまで来た道を振り返る。そこに立っていたのは――黒いランドセルを背負った小学生の男の子だった。


 いたずらが見つかったかのような笑顔が彼に浮かんだ。僕は彼に隠れて胸をなでおろす。小学生にビビってたなんて思われたらカッコ悪い。考えていたような不審者ではなかったようだ。


 緊張が抜けて足取りが軽くなる。それに合わせるように彼もステップを踏んだ。全く同じ歩調の足音が胸中きょうちゅうの隅に残った小さな不安を刺激してくる。それと同時に、それまで小学生を怖がっていた自分が恥ずかしくなってきた。照れを覆い隠すように怒りや苛立ちがふつふつと湧いてくる。


「おい! マネするのやめろよ! イライラしてくるんだよ!」


 振り返って語気を強めて怒鳴る。年上にこんな態度で来られたら、怖くて委縮するに違いない。しかし、そんな予想を裏切るように彼はいたずらっぽい笑顔を顔に貼り付けたままだった。

 気味が悪くなって足早に歩きだした。彼も同じ調子でぴったり追いかけてくる。胸の隅に追いやられていた不安が大きく膨らんできた。彼はただいたずらがしたいだけなのだろうか。


 ほとんど走るような速度になっても彼はぴったりついてくる。重い荷物はすでに意識の外だった。


 ――あと少しで開けた通りに出る。そうすれば人がいるはずだ。吐き出す呼吸音と二つの足音だけが狭い路地に響いている。


 杉の木立と背の低い塀の間、街灯の心許ない光が見えた。

 ようやくあの路地から抜け出したのだ。

 軽トラックが一台通り過ぎた。民家はまばらだが、自分が一人ではない空間に出たのだ。真っ赤な太陽はその身を山の背に隠してしまって、辺りはすでに暗くなっている。

 荷物が手から滑り落ちた。すっかり力が抜けてしまって膝から崩れる。


 少しだけぼんやりする僕を心配した誰かから、肩を叩かれた。


『兄ちゃん、大丈夫?』


 いたずらっぽい笑顔を張り付けた小学生が顔を覗き込みながら声をかけてきたのだ。


 ――全く、口を動かさずに。


 街灯の灯りくらいしか光源がないはずなのに、やけにそれははっきりと見えた。

 彼の顔は前置きもなくデロリと溶けて、顔の真ん中に真っ暗な穴ができる。呆然として目を離すことができない僕を飲み込むかのような、底の見えない穴だった。


 荷物をその場に残したまま、弾かれたように走り出す。涙で視界が歪む。声が裏返ってしまうほど叫んだ。耳に入るのは風切り音と自分の叫び。そして、二つの足音。


 一心不乱に走り抜けて、どこを走ったかはおぼろげだったが、とにかく自宅の門の前についた。息を整えてから恐る恐る振り向く。


 ――なにもいなかった。

 試しに足踏みしてみても足音は一つだけだ。

 安心して深いため息をついた瞬間、後ろから肩を掴まれた。


「叫んでたのってあんた? ご近所中に響いてたよ!」

 叫びを聞きつけた母だった。声も出せずに腰を抜かしてぺたんと座り込む。

 息子のただならぬ様子に何かを察したのか、母は僕を助け起こして家に入れたあと、温かい飲み物をくれた。

 ようやく落ち着いて母に追いかけてくる小学生のことを話した。最初は半信半疑のようだったが、母は何も言わずに塾に休みの連絡を入れた。


 翌日、出勤する前の父に頼んで投げ捨てた荷物を取りに戻った。また、何か出てくるのではないかと気が気ではなかったが、何も起こらなかった。しかし、荷物は投げ捨てた場所には見当たらない。


「もしかして、昨日ここに荷物を忘れていった方ですかな?」

 荷物を探してきょろきょろとしていると作務衣姿のおじいさんが声をかけてくる。ここのお寺の住職だった。


「夕方に墓を掃除しようとしましたら落ちていましてな。誠に勝手ながら私の方で保管させていただいておりました」


「ありがとうございます」

 親切にも僕の荷物が汚れないように預かってくれていたようだ。礼を言って頭を下げる。


「して、どうしてこんなところに荷物を忘れていったのか、聞いてもよろしいですか?」

 住職さんに昨日の一部始終を伝える。すると、住職さんは何か思い当たる節があるようで僕らを手招きしてお寺の方へ導いた。


「このランドセルに見覚えはありませんか」

 住職さんが持ってきたのは少し古めかしい黒いランドセル。昨日の小学生が背負っていたものと同じだった。


「それです……昨日の子が背負ってたの」

 正直見た目だけでは判断がつくかは怪しかった。しかし、ベルト部分についた防犯ブザーに見覚えがあった。


「このランドセルの持ち主は十年以上前に亡くなった子でね。この寺で葬式をしたんですよ」

 住職曰く、この土地を離れたご両親が子供のためにと生前に気に入っていたランドセルを預けていったらしい。


「ずいぶんと早くに亡くなってしまわれたものですから、遊び相手が欲しかったのでしょうなぁ……」

 住職は遠くを眺め、哀愁を漂わせた顔になる。その子供のことを思い出しているのかもしれない。父も悲しそうな顔で僕の肩を抱く。

 しかし、そんな優しい話ではないのだろう。


 お寺の境内に植えられた立派な一本松。その木陰にひっそりと隠れ、昨日の子供があの張り付いた笑顔でこちらをじっと見ていた。


 僕が卒業して数年後、あの中学校は廃校になったらしい。

 あの日から、僕はあのお寺の近道を使っていない。














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タッタ、タ、ダン! 泳ぐ人 @swimmerhikari

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