第二節 意識世界の再構築 上

ゼロからのスタート


「現実の意識はね、自分で枠を創っていかなきゃならないんだよ。まず、旦那さんを中心にして、自分の右隣の人の家を確認してごらん。それから左隣という順に、枠を創っていくんだよ」

そう主治医の先生に言われても私はわけがわからず、ただうなずいているだけでした。確かに、瞬間瞬間、自分の一念が現実になる状況は普通の状態とは思えませんでしたが、今食事をし、寝起きしている現実も、実際の現実でした。

そんな中、ほとんど肉体から遊離した私の我は、現在の自分自身の体に留まろうと必死になっていました。屋外では木枯らしが、大音声のうねりをあげ次々に巻き起こっています。一方、窓から差し込む日の光一本一本が、南無妙法蓮華経の音声をあげていました。内外に飛び交う妙音の中で、私自身は座る姿勢をとることすら難しくなっていきました。最後に残された私の一筋の希望は、ご本尊様を信じ抜くことだけでした。

「私が体験しているこの状況は必ず何か意味がある。私はご本尊様を信じます」

そうひたすら祈りつつ、私は自分の心臓に手を当ててハートの形をイメージしました。そこに、一本一本留め金をかけるように、昨日は三本、今日は五本と、少しずつ少しずつ自分の体を取り戻そうとする努力が続きました。そして、ようやく私自身の足で地面に立っていると実感できた時、先生の言われていた状況に直面したのでした。すべてがゼロからのスタートだったのです。

私は五十一歳にして、再度この世に生を受けた状態でした。



言葉や色・形の取り直し


最初に訪れたのは言葉の取り直しでした。いろいろな言葉が何重にも重なり、頭の中を駆け巡っていきました。私は布団の中に横たわりながら、次々と押し寄せる言葉の渦を受け止めるのに精一杯の日々でした。「ありがとう」という言葉はそのまま受け入れられても、「有り難い」は何度もはじき返していました。「有り難い」には「有り難く無い」や「有り難迷惑」などの否定形を連想してしまうからのようでした。また、「ステキ」という言葉にもこだわりがあり、「素的」と「素適」は受け入れられても、「素敵」は受け入れるのに時間がかかった言葉でした。

いろいろな言葉が渦のように頭を駆け巡っている間、私はほとんど目をつぶったまま暗闇の中での作業が続いていました。三週間ぐらいたってようやく言葉の流れ込む量と速度が緩やかになりました。何とか目が開けられるようになった私は、寝床から起き上がってまわりを見まわしました。すると今度は、さまざまな色や形が渦を巻いて私の中になだれ込んできたのです。それからしばらくの間、色と形の取り直しが続いていきました。

私は、ちょっとした刺激にも大変敏感でした。幸い私の使っていた布団は白のシーツに白の上掛けカバーがかかっていたので、布団にもぐり込んでいる時は安全でした。私は、ベビー用品売り場に並ぶお包みが白色で、どうして淡い色の服が多いのか初めてわかりました。生まれたての赤ちゃんにとって、色は刺激の少ない心地よい物が必要なのです。この時の私も同様でした。私は真っ白なものしか受けつけられなくなっていたのです。白いお皿に白いコーヒーカップ、白いセーターに白いダウンジャケット。私の身の回りは白ずくめになりました。濃い色は私にとって存在を脅かされるような不安感を覚え、手に取ることができませんでした。淡いピンクや水色など少しずつ許容できる範囲が広がっていきましたが、いろいろな色への抵抗がなくなるにはかなりの時間がかかりました。

形も丸い円形の物が一番落ち着きましたが、苦手で我慢できずに取り替えてもらったのは猫をデザインしたコタツの上掛けカバーでした。何年も何気なく使っていた上掛けでしたが、どうしても猫の形が目につき、その度に私の中で葛藤が起きてしまいます。とうとう、夜中に大きな猫の瞳に悩まされて、なかなか寝付けないほどになってしまいました。形とイメージが即つながってしまうものは、なんらかの記憶と絡み合って感情が引き出されてしまうようでした。

そして、取り直しは感情の発達過程にまで及んだのです。

主人が私の状況を主治医の先生に話をすると、

「今はね、四、五歳ぐらいだよ」

との言葉が返ってきました。主人も私も呆気に取られたことをよく覚えています。

赤ちゃん言葉で話す私の状況は、一、二ヶ月ほど続き、また、朝起きてきてトランプやあやとりの紐をもって遊びをねだる姿に、主人も困惑せざるを得ませんでした。短期間で発達段階をクリアしていくものの、「おかあさんといっしょ」や「忍たま乱太郎」の世界から、刺激の強いニュースを見られるようになるまでには大変なことでした。しかし、この大変さも取り直しという部分的なもので、意識世界の再構築は始まったばかりだったのです。



変化した過去


二〇〇九年の三月頃になると、部分的な取り直しもだいぶ落ち着き、体力の回復のために、家から数分のところにある太極拳の教室に週一回通い始めました。八月には、無事に長男が結婚式を挙げ、友人の息子さんに教員採用試験の模擬授業や作文の書き方をアドバイスしていました。何か人の役に立ちたくて、また、教育現場への復帰を目指して、体力作りに励む日々でした。しかし、十二月に入り、一枚の写真を見つけた時から、私の歯車は現実生活とかみ合わなくなり、再度無意識に呑み込まれる状況に陥ったのです。


それは、二〇〇七年の十月に撮られた校外学習の写真でした。成田航空科学博物館において、四年生の子どもたちと映っている私がいたのです。二〇〇七年度私は、確かに三年生と四年生のクラスの算数を教えていました。しかし、一緒に写っている子どもたちは当時三年生で、写真の中の先生も、三年生の担任だった人です。担任の先生がインフルエンザで休んだ時には、私がクラスに入って授業を進めたこともあります。また、写真に写っているゆりちゃん(仮名)は三年生の三学期に転校が決まり、お別れ会には私も参加していたのです。

しかし、写真は違う過去の現実を映し出していました。それは私にとって、まさに青天の霹靂だったのです。一緒に過ごしてきた人たちと、いつのまにか一年間の時間差が生じていました。慌てて他の写真を取り出して見直してみると、何枚もの私の知らない写真が見つかりました。全く記憶のない出来事もあれば、あったことを覚えていても会場などが違うのです。明らかに、私の過ごしてきた五十年間と違う軌跡を歩んでいる私がそこにはいました。

私は、自分一人だけ違う世界に放り出されたような孤独感にさいなまれていきました。過去を一緒に共有していない現実は、自分が誰にも理解されず、受け入れてももらえないという絶望感を抱かせたのです。


その思いを振り払いたい一心で、私はがむしゃらに動いていきました。友人の息子さんの授業がテレビ放映されると決まったので、その指導案作りを一緒にさせて頂いたり、英語の本格化導入に先立ち何が大切なのかを、バイ((注14))リンガルの先生について勉強し始めたりしました。毎日、夜遅くまでいろいろなところに出歩き、帰りは十一時を過ぎていました。夜空を見上げると、そこにはきれいな三日月と斜め下に星が一つキラキラ輝いていました。きれいな夜空の光景に、キラキラ星のメロディーが浮かんできました。翌晩も、次の次の晩もきれいな三日月の夜空でした。そして星も同じ位置で輝いています。まるで、お月様と星が私の夜更けの帰宅を見守ってくれているようでした。

何日経たっても、この光景が続いていることに気づいた私は主人にその話をしました。その頃、私の状況を理解しようといろいろな本を読んでくれていた主人は、

「村上春樹さんの『1Q84』にも、二つの月がある世界が出てきてるよ。今度読んでみたらええんちゃうの」

と、本を薦めてくれました。月の出は日々変化し、月の形も変化するのが当たり前だという認識を持っていても、私の現実の夜空は二週間以上も変化しなかったのです。これは、私の意識が無意識にまた呑み込まれ始めていることを意味していました。

前回と違い、体と心が離れることはなかったものの、思った瞬間に思った現実が目の前に広がっていきました。駅のホームに立てば、いつも同時に電車が入ってきました。友人に電話をかけたいと携帯電話を開くと、携帯番号だけの登録だったはずが、しっかりその方の家の電話番号まで登録されています。また、本を読んでいて、もう少し見やすく一覧表に整理されていたほうがいいと思いながら再度そのページを開くと、整然と整理された表になっていたのです。いろいろなことが自分の都合の良いように変化していくそんな状況に、私は自信過剰で傲慢になり、自分にできないことはないような錯覚に囚われました。しかし、意識世界の現実で、いろいろな場所に出かけ、いろいろな人と接し、いろいろな活動を始めていた私にとって、その状況は大きなリスクを伴うものでした。

一緒に指導案を作らせていただいた算数の授業風景が放映される連絡を受けた私は、嬉しくなってお知らせしたくなりました。電車を乗り継ぎ、久々に教育部の方たちが集っている会館まで出かけていきました。ところが、駅を降り、何回も行ったことがある目的地の建物を探しても、見つけることができません。最後に訪れてからまだ二年も経っていないのに、記憶に残る川がなくなり、どこまで行ってもきれいに整備された歩道が続いていました。気がついてみると、私は乗ってきた電車の一駅分歩いて前の駅に着いていました。しかたなく歩いてきた道を引き返しながら、何人にも建物の所在を尋ねましたが、その場所を知っている人に行き会いません。最後には、駐車場に止まっていた車の方に頼んで付近をナビで検索してもらい、ようやくたどり着くことができました。


着いてみると、建物の様子はすっかり様変わりをしていました。二階建ての内に螺旋階段を伴っていた造りが、三階建てのビルになっていました。地形も、道も、建物も、そこに居る人達も、私の知っている以前の状況とは異なり、私はまるで竜宮城から舞い戻った浦島太郎のようでした。大きな違和感を抱えながら独り自宅までなんとかたどり着いたものの、翌日もまた同じような生活を送っていきました。そして、無意識に同化していた三ヶ月ぐらいの間に、いっきにエネルギーを放出し、まるで燃え尽きるかのように活力を失ったのです。

我に返った私に残ったものは、自分への自責の念と無力感だけでした。一番辛かったのは、無意識が暴走し、夜中に友人、知人に電話をかけていたことを知った時です。私は携帯電話をしばらくの間主人に預かってもらいました。

現実を踏み出そうとすると、いろいろな場面で、自分の記憶している過去の現実と異なる事が多くありました。一週間前の自分の認識と今日の現実のギャップに戸惑うこともありました。二年前に配布された町内会名簿は、表紙が紫色でしたが、黄色に変わっていました。また、一昨日飲食店でもらった金券で支払いをしようとバックから出すと、スタンプ制のカードに変わっていたこともあったのです。私の記憶は全くあてにならず、その場その場で現実への適応を迫られたのでした。

私にとって、人と逢うことも一期一会でした。他の人との時間のずれや過去の思い出等も異なることがあったからです。誕生日のお祝いを言おうと電話した友人に、誕生日は二ヵ月後だと言われたこともありました。二十年以上の親しい付き合いの合田さん(仮名)とは四歳違いだったのに、いつのまにか六歳違いになっていたのです。自分がどのようにその人と関わってきたか、自分の記憶に自信が持てなくなっていました。


そして、主人と一緒に毎週買い物に行っていた高島屋に、車をつけてもらった時のことです。いつもなら車を降りて左側の駐車場エレベーター乗り場に向かうはずが、主人は何の迷いも無く右側に向かって歩き始めました。私は不思議に思いながらも一緒についていくと、そこに見慣れない緑色のエレベーター乗り場がありました。あまりの変わりように愕然としながら、

「このエレベーター新しくできたのかしら」

と、主人に尋ねると

「いつものエレベーターやで」

と、私が何故そんなことを尋ねるのかと怪訝そうな顔をしました。

私はそれまで主人を中心において意識世界の再構成してきていました。そのためか他の人と記憶が違っていて最初から話し直さなければいけない時も、主人だけは話の続きが通用していました。しかし、主人も私が創り出すそれぞれの世界の住人だったのです。私はこの世界で本当の独りぼっちになったのでした。私が一定の空間枠を作り出せないから、その時の空間ごとに過去や状況が変わっていくのだろうと思わざるを得ませんでした。異空間に投げ出されたような孤独感はますます深まるばかりでした。悶々としながら、時間だけが過ぎていきました。

注14【バイリンガル】 状況に応じて二つの言語を自由に使う能力がある人。

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