第一節 無意識への旅 下

虹色の世界


十一月下旬、主治医の先生が私に提案したことがありました。

「無意識の世界に入ると普通と違った物が見えると聞いているんだが、ロールシャッハテスト((注10))をやってみないか。どんな風に見えるか記録をとりたいんだけど」

そう言われた私は、断る理由もなかったので、テストを受けるために隣室に移動しました。カウンセリングについて少し学んできていたので、このテストの概要は知っていました。しかし、実際その絵を見せられて、何に見えるかと質問されても答えることができなかったのです。インクのしみの固まりは恐ろしい怪物に見えました。二枚目も、三枚目も、黒い塊が私を襲ってきて、恐怖心が先に走り、形を成しません。テストは中断となりました。

その頃の私は、眼を通してものを見ているものの、見えるか見えないかは私自身の心次第という状況にありました。見えると思えば、遠くの看板や歩いている人の顔もはっきりと見えました。けれども、私の近視の視力では見えるはずがないと思った途端、それまで見えていた視界がぼやけて見えなくなりました。その繰り返しなので、眼鏡をかけているとかえって足元が危なくなったのです。

たまには外の空気をと主人が公園に連れて行ってくれた時も、私と主人の見ている光景には若干の違いが生じました。私が公園の木にクモの糸が一本ピンと張られているのを見つけ主人に声をかけても、何も見えないと言います。本当に糸があるのかと確かめる主人の腕は空を切り、糸に触れることはありませんでした。

十二月頃、私は虹の世界にいました。日の光が七色の虹のまま目に飛び込んできます。そして、ものに当たると虹の色は変化し、ものを形作りながらそのものの色に落ち着いていきました。虹の先に机があれば、机の形を現しながら茶色に全体が染まっていきました。ソファーがあれば、ソファーの形を作りながらソファーの色になっていったのです。

もっと不思議だったのは、まつ毛に光が当たった時です。それはまるで海面が日光を眩く反射するように、銀色と金色の中間色のように輝きました。また、斜めから光が当たるとまつ毛の形は一本になりましたが、七色の虹のまま光を宿していました。まつ毛一本一本に虹が架かり、七色の世界を織り成していたのです。この不思議な体験は、無意識世界にほとんど溶け込んでいた二ヶ月間あまり続いたのでした。

注10【ロールシャッハテスト】 投影法検査に属し、インクのシミをたらした左右対称のあいまいな図形を提示し、被験者の反応を問うものです。人格構成要因や構造様式、知覚機能や認知の成立過程を理解する方法です。意識レベルにとどまらず無意識レベルまで知ることができます。



思った瞬間に思ったことが


私はその頃、私の意識では思いもよらない出来事に次々と遭遇し始めました。

銀行で支払先に振込みをしようと、順番待ちの番号札を取った時のことです。掲示版には二人待ちの表示がされていたのに、私の番号がすぐに窓口で呼ばれました。待っている人が実際二人いらしたので、私の番号が呼ばれたことに違和感を持ちながらも、支払いを済ませてそのまま銀行を出ました。ところがその後、この待っている人の順番を飛び越えてすぐに私の番になるという現象は、いろいろな場面で起きていったのです。私の困惑の度合いは大きくなり、自分で順番を取らないようになりました。毎週主人に付き添ってもらっていた病院では、私は車にいて主人に番号札を取ってもらうことにしたのです。

車で待つこと一時間、もうそろそろ順番が来る頃だろうと準備を始めると、

「次は、自分の番やで」

と、主人が呼びに来てくれました。こうすれば私も、先に来て待っている方を追い抜かずに順番を待つことができると、なんだかほっとしました。

次の受診日は、四十分経った頃に待合室に行く準備を始めました。すると、

「次は、自分の番やで」

と、主人が姿を現したのです。今日はあまり混まずに順番が来たのだと少し嬉しく思いました。

さらに次の受診日に車で待機していた時のことです。普段は一時間以上待つことが多いけれど前回は早かったから、一応いつでも移動できるように用意だけはしておこうと思った瞬間、

「次は、自分の番やで」

と、主人が姿を現したのです。病院に着いてからまだ二十分も経っていませんでした。待ち時間に関係なく私が準備を始めると、主人が私の順番を告げに現れたのです。それは、まるで自分が待ち時間を決めているのと同じことでした。時間があってないような状況に、私の中で言い知れない不安が大きくなっていきました。


そんなある朝、私が衣服を着ようと、布団の周りを見回した時です。枕もとのタートルネックの上にセーターを着ようと思った瞬間、私の手の中に服があったのでした。私は一瞬何が起きたのかわからず、呆然と手の中にあるセーターを眺めていました。自分の手で、服を手元に引き寄せたわけではありません。目の前をセーターやタートルネックが飛んできたわけでもありません。組み合わせて着ようと思った瞬間に、忽然と両腕の中に現れたのです。不思議な事には慣れていた私でしたが、これには驚愕せざるを得ませんでした。

それからしばらくの間、私の日常に、思ったことが思った瞬間に起きていきました。お風呂に入りながら、部屋のファンヒーターをつけて暖めようと思うと、お風呂から上がった時には部屋が暖まっていました。整理ダンスの引き出しを開けた時、いらないものがあるから整理をしなくてはと思いながら閉めると、何か奥にひっかかってきちんと閉まらなくなりました。引き出しを引き抜いて奥をみると、いろいろな紙類が押しつぶされています。取り出してみると、レシートや期限切れの保証書や用済みのものばかりでした。一瞬にして、引き出しの中が整理されていたのです。

一方、友人に手紙を書いてポストに出しに行った時は本当に困りました。糊で閉じたはずの封筒が開いてしまうかもしれないと思うとパラリと開き、いや閉じたはずだと思うとピタリと閉じるのです。思うたびに封が開いたり閉じたりを何度も繰り返し、ポストにたどり着いても、まだその状況は続いていました。

思った瞬間にその現実が起こる。ここまで来ると、ものの状態やいろいろな状況を創りだしているのは自分自身の一念((注11))なのだと認識しました。いろいろなものの状況は、服や手紙やタンスの中味も、果ては部屋の温度まで、その瞬間に私の一念によって創り出されたものだったのです。

注11【一念】 瞬間の生命そのものを指します。一念に現象世界のすべての存在が含まれています。



慈悲の器


私が自分の近況を報告し、私の状態について尋ねると、主治医の先生はいろいろな説明をしてくれました。

「宇宙が一つの点から、いろいろな物に分かれる時、何によって分かれたと思う。それはね、愛と許しによってなんだよ。お互いを慈しみ、お互いを許容することによって、宇宙は成り立っているんだよ」

と、宇宙生命自体に、すべてをよりよく生かそうとする力が本然として備わっていることをやさしく話してくださいました。

「今、あなたは意識と無意識の壁が薄くなって、境がほとんどなくなっているんだよ。もう少し待っててごらん。完全に体から離れる前に、わずかに残っている自我が自分を引き戻しにかかるから」

と助言してくださったのです。

その帰り道、車までの移動に時間がかかり、動けないで負担ばかりかけている私が、

「もう少し待って」

と言った時、

「少しでいいんか。いつまでも待ってるで」

と、主人は優しく言葉を返してくれました。

いつまでも待ってくれると言われた安心感は私の心を満たし、感謝の思いが深まっていきました。日常生活をほとんど支えてくれながら、何も出来ない状況の私を私でいいと受け入れてくれる主人の優しさは、人にとって何が一番大切でかけがえのないものかを教えてくれていました。

慈悲((注12))は最高の人間性の発露だと私の中で認識されていったのです。

 そして、こんな状況の私でも、

「慈悲を持ちたい。少しでも役に立ちたい」

そう思った瞬間、姿を現したのはゴキブリでした。

ゴキブリに対しても慈悲を持てるのかと、無意識が私に突きつけた現実でした。本当に私の無意識は意地悪だと思いながら、そのゴキブリを外に逃がしてやりました。それから、

「私が慈悲を持ちたいのは人に対してなのだけど」

とぶつぶつ言いながら二階に上がっていきました。

「たとえば育代(仮名)さんとか奈々子(仮名)さんとか」

と懐かしい友人の顔を思い浮かべた瞬間、突如としてその人の感情が私の中に流れ込んできたのです。私の意識の壁は無意識との壁が薄くなっていただけではなく、他の人との意識の壁も薄くなっていたのでした。

育代さんとは一緒にいろいろな事をさせていただいて、十年以上経っていました。それでも、私の意識に流入してくる彼女の感情は、私が推し量る術も無かった激情でした。彼女が何に悩み、どんなことに苦しみ、どれだけ傷つき、はかり知れないほどの悲しみを背負っていたのか、その思いが私の意識の中になだれこんできました。そこには、育代さん本人も気づかない無意識次元の叫びもありました。慈悲を持ちたいと願った私の意識に呼応して、育代さんの意識や無意識に渦巻く悲しみや苦しみの感情が押し寄せてきたのです。

私は驚きながらも、三時間ぐらいはなんとか受け止めようと頑張っていました。けれども、その人が何年も抱き続けてきた悲しみ、苦しみ、怒りを受け止め続けることなどできません。持ちこたえられなくなった私は、育代さんのことを振り切るように奈々子さんの顔を思い浮かべました。

すると今度は、自分を責め続け孤独感にさいなまれる奈々子さんの悲しみや絶望感などが流入してきたのです。無意識レベルから発せられる奈々子さんの身を守るための攻撃性は、私の意識にも向けられ、私の意識はすぐに壊滅寸前に追い込まれました。何人もの人の顔が浮かんでは消え、流入してくる感情を受け止めきれず転々とした私の意識は、次第に混沌とした無意識の中をさまよっていきました。

いろいろな人の悲しみ、苦しみ、怒り、呪いに満ちた憎悪の念などが、濁流のごとく私の中に押し寄せてきます。無意識世界に混在する激しい感情の渦が、私の中で轟々と音を立てて渦巻き、その方たちの悲しみや苦しみを背負った業((注)の(13))深さに、私は涙と嗚咽が止まりませんでした。そこには、私の知らなかった感情のうねりや、私が味わったことの無い激情が渦巻いていたのです。

なだれ来る感情の流入の中で、三日三晩うろうろと畳の上を歩き回り、余りの苦しさに耐え切れず、

「私は慈悲を持てない」

そう叫んだ瞬間に、その感情の流れは、ぴたっ。と何事もなかったように止まりました。私は慈悲を持てる器ではなかったのです。


 無意識世界でいろいろな人の思いを体験した私は、自分の内に長年抱えていたある思いが少しずつ氷解していくのを感じていました。それは、十三年前にこの世に産み出してあげられなかった我が子のことでした。

当時私は、我が子を胎内に宿すと同時に起き上がる事ができなくなりました。私の人生の中で、一番辛い選択を迫られました。

「どうしようもない事もあるんだ」

私は自分にそう言い聞かせながら、我が子より生活を優先させ、自分の身を守ったのでした。しかしこの選択は、私に拭い切れない罪の意識を抱かせました。半年後に、甲状腺機能が低下していることを知り、当時は自分の生命維持だけで精一杯の状況だったのだとわかった後も、自分を許すことはできませんでした。我が子への贖罪の念が、一時たりとも私の頭から離れることがなかったのです。

その苦しみから逃れようと、私は職場の仕事を終えた後もいろいろな方の寄り添いをさせていただきました。不登校になっているお子さんたちに勉強を教えたり、寝たきりで動けない方の病院の付き添いをしたり、自分のためではなく人のために時間を使うならば、私が今存在しても良いと自分の気持を納得させていたのです。自分の体に微熱が続いても、その関わりを止めることはありませんでした。微熱では止められないとわかった体が、激しい腹痛と吐き気で私の動きを止めようとしました。しかし、それでも私は這ってでも病院の付き添いや他の方の買い物をしに行こうとしました。その時主人が、

「自分、いいかげんにしいや。自分の体を何やと思ってるんや。他の人に構っている場合やないやろ。そんな体で来られたほうもはた迷惑なだけやで」

と、厳しい口調で言ったのです。主人には、私が一番弱っている病人に見えていたのでした。自分の体を酷使し続けた私を待ち受けていたのは、重度の更年期障害でした。他の人のために動く事ができなくなった私は、我が子と引き換えに存在している自分の価値を見出せなくなっていました。そんな状況の中、私は無意識に遭遇したのです。

無意識の中に溶け込んだ時、混在一体化した激しい流れの中にあっても、それぞれの個の意識の流れが明確にありました。一人の人の現在の意識もいろいろな過去が絡み合った無意識の意識も、一つの個としての流れを形成していたのです。その中で私は、今世で産み出してあげられなかった我が子が、私の本当に近い線に位置して私と一緒に存在していることを感じたのでした。

「この子は、今世では縁が薄かったけれど、過去世では私の親だったかもしれないし、来世では兄弟になるかもしれない人だったんだ」

そう分かった時、私の中で今まで苦しみと謝罪だけだった我が子へ思いが、感謝と慈しみに変わっていきました。

「ありがとう」

私の頬を涙が伝わっていきました。

注12【慈悲】 「共に悲しむ」心であり、「同苦」の心です。苦しんでいる人を見たら手を差し伸べずにはいられない、苦しみを共に担いたい、という深い感情です。慈悲は、上に立って見下ろすものではなく、平等の人間としての共感であり、相手への尊敬が基本となっています。

注13【業】  現在や未来にもたらされる結果を決める原因となる過去における自分のすべての所作をいい、業因ともいわれます。仏法では、善悪の業は因果の道理によってかならずその結果を生むと説かれています。善悪に分けて善業と悪業があります。

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