第一章 育て手としての関わり

第一節 不登校を共に乗り越えて

再登校への二人三脚


私は、優君(仮名)が四年生の時の担任でした。

 優君は一年生の時、毎日足や腰にあざをつくって帰ってきて、しまいには朝、頭から布団をかぶって震えたまま起きてこられなくなったのだそうです。

 それから、担任の先生や学校側といろいろあったようですが、欠席は続き、二年生で欠席二百四十日、三年生でも欠席二百四十日、つまり全欠席です。この頃には、通ってくださる訪問指導員さんと会うことさえも拒むようになっていたのです。

 転任したての私はそんなことは全く知らず、優君の担任になった四月五日、教頭先生と一緒に教科書を持って優君の家を訪れました。その時、優君のお母さんと教頭先生のやりとりを聞きながら私自身の姿とお母さんの姿が重なり、ふと気づくと涙があふれていたのです。

 この時期、私の次男もいじめの渦中にありました。毎日、五、六人、多いときには十人もの子どもたちから罵声を浴びせかけられたり、蹴られたりしていたのです。わが子がいじめられているという私の怒りと悲しみは、長い間いじめに気づかず放置していた担任教師への不信感を生み、わが子を守るすべのない自分自身へのはがゆさに、まんじりともせずに夜を明かしたこともありました。

私には、優君のお母さんの気持ちが痛いほどよくわかったのです。


この人は一人で闘っていたんだな。わが子をいじめられた悲しさ、悔しさを誰にもわかってもらえずに……

 

 「お母さん、ごめんなさいね。泣くなんておかしいと思われるでしょう。実は、私の子もいじめにあっていましてね。何とかしてやりたいと思っているところなんです。」

 これが私と優君のお母さんとの初めての会話でした。

 そして、わが子と同じ悲しい目にあって、三年間もの空白をつくってしまった優君を見ながら、必ずみんなと一緒に遊んだり、勉強したりできるようにしてあげたいとの思いが、私のなかにわき上がってくるのでした。

 

 翌日、優君と仲の良かったというクラスの子を連れて、優君の家に行きました。何度か呼ぶと優君が顔を出したのでノートを渡し、ジャンケンゲームをしました。優君も久しぶりに友だちと話したようで、楽しそうに笑っていました。

昨日のことがあったからでしょうか。お母さんも顔を出されたので、優君に勉強を教えに来たいことを伝えると、彼の意思次第との返事をもらうことができたのです。

 同僚の先生に、優君の家に伺って一緒に勉強を始めることを話すと、会うことさえ困難なのに、いったいどうやって家に上がり込んだのかと不思議がられました。しかし、ここからが私の本当の勝負です。“何があっても一日も欠かさず通い続ける”と心に決め、再登校に向けて優君との二人三脚が始まりました。

 授業が終わり子どもたちを帰した後、四時半過ぎには学校を出て優君の家に向かいます。それから、六時半過ぎまでが優君との勉強時間です。もちろん毎日同じ時刻に出られたわけではありませんが、出張があってもわが子が熱を出しても、一日も欠かさず通い続けました。

 優君のお宅では、コタツに入りながら、まず今日学校であったさまざまな出来事を話し、なるべく今日の学習を一緒にやるようにしていきました。しかし、すべての教科をそのままできたわけではありません。理解が追いついていない教科は、基礎に戻りながら進めていきました。

 初めの頃の優君は、三年ぶりの教師との勉強で大変緊張していました。こちらの問いかけに対してうなずくだけで、ノートに書く時も知らず知らずのうちに手でおおってしまいます。習字のあった日には習字を書くわけですが、三年生を全欠席しているのですから、まったく初めての体験です。筆づかいから始めることになりました。

それでも、その日の教科をその日に進めるということは、優君に自信を与え、教室を身近に感じさせたに違いありません。優君は大変理解の早い真面目な子で、こちらの出す宿題もよく頑張りました。そしてあっという間に三ケタのかけ算まで追いつき、その日のみんなと同じ宿題ができるようになっていったのです。



明日の日直当番は優君


その一方で、クラスの中に優君の存在感をもたせ、受け入れ準備を進めることも大切なことでした。

四月五日の席決めの時、クラスの子どもたちは口をそろえて、

「先生、優君は来ないよ。席を決めておいてもしかたがないよ」

と言っていました。げた箱やロッカーにしても、なぜ優君の場所を作っておくのか不可解だと言わんばかりの表情をしています。それは無理のないことかもしれません。優君がみんなの前に存在していたのは、一年生のたったの二ヶ月間、六十日余りのことでしかなかったのです。三年生でクラス替えをして、優君を見かけたことのない子も半数を超えていました。

そんなクラスの子どもたちの意識を変えるには、たとえ今は優君が姿を見せることは無理だとしても、優君の存在を感じさせるのが第一歩です。朝の会で、

「ほら、これ優君の習字。頑張っているでしょう」

と、みんなに作品を見せると、子どもたちの中から、

「へぇ。上手」

と歓声が上がりました。

私はクラス目標を「なかま」と決め、優君の一学期の個人目標や習字作品などを、みんなと同じタイミングで教室に貼っていくようにもしました。


四月も半ばを過ぎたある日のことでした。授業終了後、ふと黒板に目をやると、明日の日直のところに優君の名前が書かれているのを見つけたのです。確かに席順からいけば、優君の番なのですが、これには私のほうが少々驚かされました。そういえば、この頃、教室に貼られた掲示物を見て、他のクラスの子どもたちが優君について尋ねることがしばしばありました。そんな時子どもたちは、

「もしかしたら優君、学校に来るかもしれない」

と答えるようになっていたのです。その日の夕方、日直のことを優君に話すと、彼は照れるように笑っていました。

 そして、四月の二十八日、私がクラスの受け入れ体制が整ったことを確信できた一つの出来事がありました。

 二校時の音楽の時間のことです。クラスの子どもたちの様子を見に音楽室に行くと、並んで座っている子どもたちの間に一つの空席があったのです。誰の場所かと尋ねると、みんなは、

「優君の席」

と答えたのです。

 音楽室では自分たちでイスを出して自由に座ることになっていましたが、優君と同じ班の子が並べてくれていたのです。その時間が終われば、また片付けなければならないイス。そんなイスを並べてくれている子どもたちに、私は感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 夕方、優君とお母さんに音楽室の出来事を話したところ、二人ともとても嬉しそうに話に聞き入っていました。その様子を見て私は、このところ全く外に出なくなっていた優君の再登校の第一段階として、家を一歩はなれた近隣センターでの学習を提案したのでした。これにはお母さんも大賛成で、さっそく近隣センターに行き、一ヶ月間の使用許可を取ってきました。そして、クラスの子どもたちと一緒に遊ぶ約束もすることができたのです。



 優君が学校へ来た!


いよいよ約束の一ヶ月の始まりです。近隣センターでの学習の第一日目ということで、優君を迎えに行きました。ところが、幸か不幸か、その日はちょうど近隣センターの休館日だったのです。そこで急きょ、学校の体育館に集合していたクラスの子どもたちと合流し、そのまま体育館でドッジボールをして遊ぶことになりました。優君は、外で遊ぶことがほとんどなかった子とは思えないほどいい動きをしていました。今すぐにもクラスの友だちのなかに入っていけることがわかりました。

そのことをお母さんに話すと、お母さんはまだいじめた子との関係や先生方の様子を気にされていたようでした。けれども「優に任せます」とおっしゃり、登校を了解していただけたのです。優君のお宅に伺い始めてから一ヶ月。約束の近隣センターの学習を飛び越えて、五月一日に優君は登校することになりました。


昨日、約束していたとはいえ本当に学校の授業に参加できるのか、私は期待と不安が交錯するなか優君を家に迎えに行きました。家に着き声をかけると、にこやかなお母さんの顔が見え、優君はまだパジャマ姿だったらしく着替えをしているようでした。急なことだったので上履きの用意もありませんでしたが、スリッパを持って行くことにして学校に向かいました。優君にとっては三年ぶりの校舎と教室です。それに、見知らぬ大勢の子どもたち。優君の不安はどれだけ大きかったことでしょう。

しかし、優君は教室でしっかりと自分の名前をいい、挨拶をし、席に着くことができたのです。お母さんのお話では、昨日、優君は自分でランドセルを棚から下ろし、ほこりを拭き取り、まるで一年生のようにウキウキと用意をしていたとのことでした。自分から学校に行く気持ちを持ってくれたことが、本当に嬉しいと話されていました。

この日は、クラブ活動だけの参加でしたが、七日からは自分一人で朝から登校するようになり、順調に学校生活へ適応していくかに思われました。ところが、登校を再開した優君を思わぬ出来事が待ち受けていたのです。


いろいろな友だちと話したり、遊んだり、家に帰ってからも活動範囲が広がっていった五月二十二日のことです。手に包帯を巻いている優君の姿に驚いて声をかけると、昨日、公園で章君(仮名)と遊んでいるときに、二メートルぐらいの遊具から突き落とされたというのです。どういう状態か心配していると、お母さんから連絡帳が届きました。それは、右手首はひびが入り固定、両足の靭帯も傷めており、しばらく運動ができないのでその旨了解をという文面でした。

学校へ登校するようになって二週間。ようやく慣れてきた矢先の右手と両足の怪我でした。しかも、それは友だちに負わされたものだということで、私自身大きなショックを受けました。優君とお母さんにとっても大きなショックだったにちがいありません。しかし、子どもを連れて謝りに行かれた章君のお母さんに対し、優君のお母さんは、

「誰にでもあることですから。もしかしたら、優がすることがあるかもしれないし」

と穏やかに対応されたということです。私はそのお母さんの様子を聞き、ほっとするとともに、学校や友だちに対する信頼関係が築かれていたことを改めて実感したのでした。

ただ、この怪我は、その後一学期終了まで、優君を苦しめる結果となってしまいました。優君は、体育は全部見学、休み時間も外で遊ぶことができなくなってしまったのです。当然、優君のストレスは溜まっていきました。外で遊ぶこともできず、私のかたわらで手伝いをしながら休み時間を過ごしていた優君は、怪我が治るのを一日千秋の思いで待ちながら夏休みを迎えたのでした。



優君の意見を聞いてみたい


二学期。包帯のとれた優君は、元気に校庭を駆け回る少年に変身していました。初めての運動会も、どの種目も一生懸命参加しました。そして、十月の後半、優君の成長を知る一つの大きな出来事がありました。

忘れもしません。十月十八日、二学期初めての授業参観の日です。国語の「一つの花」をみんなで学びました。父親がコスモスの花を一輪手折り、「ゆみ、さあ、一つだけあげよう。一つだけのお花、大事にするんだよ」と言いながら去っていく場面です。

ゆみ子の行く末を心配している両親の気持ちを少し思い出させた後、父親の「大事にするんだよ」といった気持ちを考えさせるために、子どもたち自身の大事なものを一人ひとり聞いていくことにしました。

 「今、自分の一番大事なものって、何かな」

 そう問いかけた後、誰から指名していこうかと子どもたちの顔を一回り見渡しました。左隅はMちゃん。その後ろはYさん。二人とも自分の意見をしっかり持っていて積極的に発言できる子です。右前隅のT君は学級委員。後ろ隅が優君です。

 優君は二学期になってから、何度か挙手が見られるようになっていました。しかし、みんなの前で発表することにはまだ消極的で、しかも授業参観の経験は一度しかありません。たくさんのお母さんたちに注目されて、はたして発表できるでしょうか。他の三人の誰かを指名すれば、無難に子どもたちをリードするような意見が聞かれるにちがいありません。でも、他の子どもたちの発言の前に優君自身の意見を聞いてみたい。私の中で一瞬の葛藤があった後、ゆっくりと優君を指名しました。

「優君の今一番大事なものって、何?」

すると、優君はさして困った様子もなく、

「友だち」

と、答えました。

「そう、友だちなの。優君の一番大事なものって友だちなんだ」

 優君の言葉を繰り返し言う私の胸の中に、何か熱いものがいっぱいに広がっていくのを感じていました。

 そして、次の子を指名すると、優君に引き寄せられたかのように「友だち」と答え、どの子もどの子も「友だち」「友だちと家族」「命あるものすべて」と、人や命のかかわりを一番大切だと答えていったのです。

「友だち」によって傷つけられ、「友だち」に対して脅え、「友だち」がいるから学校に行けなくなった優君。その三年間の重荷をたった半年で吹き飛ばして、今一番大事なものは「友だち」と、誰の前でも胸を張って言うことができるようになったのです。 

 優君と共に乗り越えた不登校の壁は、私にとっても忘れられない大事な宝物となりました。国語の時間、優君が書いた詩です。

 

     学校


学校はたのしい とてもたのしい

みんなとなかよく

あそんで べんきょうして


学校はたのしい とてもたのしい

ある日 たいいくをやった

マラソンをした

すごくあせがでた

からだじゅうから あせがにじみでた

              (十一月十日 一校時)

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