第57話 三人の天使

 王女は微動だにしなかった。ただ前方を見据えたまま。

 そのとき一陣の風が吹き、矢は軌道を変える。

 その矢は彼女の頬をかすめ、銀の髪をなびかせた。

 王女の横をすり抜けた矢が地面に刺さる。その微かな音が平原に響いたかのように思えた。

 それでも彼女は逃げずにそこに騎乗したまま。


「なんてことを!」


 エルフィの民たちが息を呑む。神をも恐れぬ所業とはこのことだ。

 こうなっては、もうオルラーフのことを信用することはできない。王女の言う通りだった。

 協力など、されることはないだろう。王女をエルフィに返すつもりなど、端からなかったのかもしれない。

 なんということだろう。なんと愚かなことをしでかしてしまったのか。

 だがせめて、王女だけはこの場から脱出させなければ。


「止めろ! 姫さまをお守りするのだ!」


 混乱はさざ波のように広がっていった。


          ◇


 飛び交う怒号。歩兵の叛乱。恐れていた展開。


「失敗したか! この無能め!」


 将軍は射手に向かって叫んだが、その言葉は喧騒にかき消される。

 手ずからやってやる、もう一度、と王女のほうに目を向ける。


 だが彼女は矢の届かぬ位置まで下がると、またこちらに馬首を向けて立ち止まった。

 妙に感心した。肝が据わっている。


 そしてその騒乱の最中、アダルベラス軍が動き出したのが将軍の目に入った。こちらの陣を囲い込もうとしている。

 そんなことをさせてたまるか。


 側近の者が将軍を振り返ってきた。将軍は大きくうなずいた。

 さきほど言った命を実行させる。

 一人殺せば、皆動く。

 軍人でもないエルフィ国民はそれで従順に従うだろう。当初の予定通り、騎兵の楯になるよう戦ってもらう。

 王女はあとで煮るなり焼くなり好きにすればいい。こうなっては死んだところでこちらには何の痛手もない。


 将軍は手を高く上げ、下ろす。


「全軍突撃せよ!」


 そして騎兵に叫んだ。


「謀反人は斬れ!」


 将軍がそう声を上げた、その、刹那。


「な、なんだ……?」


 混乱に陥ったオルラーフ軍、そして突撃を開始したアダルベラス軍は、将軍の予想を覆して、動きを止めた。


          ◇


 見よ。


 眩い光が王女のいる辺りの天空から射し込んでいた。

 そのあまりの眩しさに、誰もが動くことができず、手をかざした。

 辺りは戦場とは思えぬ静寂に包まれ、皆が目をこらす。

 光の中からなにかが現れようとしていた。こんなにも眩しいのに、目が離せない。


 ああ。

 現実には決して有り得ないはずの光景が、そこに広がっていた。


「三人の天使……!」


 かの乙女の頭上には、もう伝説と化した三人の天使が眩い光を放ちながら、舞っていた。


          ◇


 サーリアは自分の頭上を見上げる。

 三人の天使は背にある純白の翼をはためかせ、己が身体から光を放つ。


 だが不思議と驚愕の思いは訪れなかった。


「来てくれた……」


 なぜだろう。

 自分自身が信じていなかったこの天使たちを、知っているようなそんな気がした。懐かしいとすら、思えた。


 光に包まれた天使たちの表情は見えないのに、サーリアには微笑んだように感じられた。

 そして三人の天使は、舞い、歌う。伝説と同じように。


『何人もかの乙女に手を触れてはならぬと、神は申された』

『集え、歌え、祝福せよ。神に愛でられし乙女がこの世に生誕したことを』

『我らのこの白い翼に忠誠を誓え。かの乙女を傷つける者には天誅を』


 その夢のような光景に、エルフィ国民はもちろんのこと、信心深いとは言い難いオルラーフ兵までがひれ伏した。


 人々は言葉を無くし、ただ頭を垂れることしか知らないかのごとく。

 ああ、それはなんと美しく幻想的な光景であることか。


           ◇


 すうっと天使たちの姿が消える。

 人々は幻を見たのではないかと目を擦り、たった今天使たちが消えた空間を呆然として見つめていた。

 それから疑心暗鬼で互いに今の光景を見たかと確認しあった。

 現実と夢との境目で人々は右往左往しているようであった。


 そうして間もなく。

 人々の頬を濡らすものがある。彼らは頭上を見上げ、心から待ち望み、もう諦めかけていた希望がやって来たことを知る。


「雨……」

「雨だ!」


 たった今見た夢の世界が嘘であるかのように、天使たちが放っていた神々しい光は消え去り、重苦しい空から大粒の雨が降り出した。

 それはみるみるうちに、そこかしこに水溜りを作っていく。


「天使たちが雨をもたらしてくださった!」

「雨が止まぬうちに武器を棄てろ! 天誅が下されるぞ!」


 立て続けに起きる奇跡に、人々は戦を忘れた。

 平原は歓喜に包まれ、ガシャガシャと剣や弓が落とされる音と、兵士たちの嬉々とした声が響き渡る。


 しかしオルラーフ軍は静まりかえったままであった。

 さきほどの射手は腰を抜かして座り込んでいる。

 将軍やその側近たちも唖然としたままだ。


「将軍……ご覧になりましたか……」

「私ども、とても手を出せる状況では……」


 さきほど見た幻想的な光景を夢だと否定しきれない今、側近たちのうろたえた声を聞けば、決断せざるを得ない。

 いや、自分自身が最も畏怖の念を抱いているのではないかと疑う。

 手足が小刻みに震え、それを止めることができなかった。


「……致し方ない」


 将軍は大きく舌打ちし、叫ぶ。


「退け! 撤退せよ!」


 オルラーフの将軍が苦々しげにそう叫んだのを聞いて、エルフィ国民は自分たちに勝利がもたらされたのを知った。


 他ならぬ、『神に愛でられし乙女』の手によって。

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