第52話 出陣

 王室に入ると、レーヴィスは悠然と机の向こうの椅子に腰掛けていた。

 そして彼も将軍と同じように、甲冑を着込んでいる。


「やれやれ、通すなと……避難させよとあれほど言ったのに、誰も役に立たないな」


 言いながら、彼はどこか愉快そうだった。


「私を笑いに来たか。女一人懐柔させることもできない王と」

「……いいえ」

「ならば、なんだ? エルフィにそなたを帰さなかったことでも非難しに来たか?」

「いいえ」


 サーリアは首を横に振った。

 なぜだか、無性に泣きたくなった。


「ああ、そうか。エルフィに侵攻したときからの、すべてが許せるはずがないものな」


 それから小さく笑った。自分自身に向けての嘲笑のようだった。


「それは申し訳ない。私に王の器がなかっただけという話だ」


 そう言って軽く肩をすくめる。


「甘かった。私は本当に甘かったよ。ここまで自分の甘さを呪ったことはない」


 彼は肘を机の上に乗せ、両手で顔を覆った。


「セレスもその侍女たちも、全員、殺しておくべきだった。その道があることは知っていたのに。甘すぎたその結果が、これだ。たった四人を殺すことをためらったがために、いったい何人死ぬことになるのか」


 そして大きく息を吐いた。

 必死で自分自身を落ち着かせようとしているが、それが上手くできていないように、サーリアには見えた。

 レーヴィスはぱっと顔を上げると、机上に拳を叩きつける。


「おかげで、私一人の首で済む話ではなくなった!」


 彼の身体が震えている。それは、恐怖からのものではないのがわかった。

 怒っている。自分自身に。


 サーリアは対して、静かな声音で言った。


「あなたの甘さは、それだけではありません」


 その言葉に、レーヴィスはゆっくりとサーリアのほうに顔を向けた。


「なんだ」

「私を殺しておかなかったこと」


 その言葉に虚を突かれたように何度か目を瞬かせたあと、彼はなにも言わずに首を小さく横に振った。

 サーリアは構わず続ける。


「今からでも遅くはありません」

「そなた……なにをしにきた」

「私は、あなたに契約を果たしてもらいに」

「契約?」


 レーヴィスは訝しげに眉根を寄せる。

 しかし思い至ると、両の手を上に向け、肩をすくめた。


「残念ながら、そなたが契約を果たしていない。世継ぎを産むことが条件だっただろう」

「でも、あなたしかいなくて」


 サーリアはレーヴィスを見つめて言った。

 最後まで、言わなくてはならない。泣き出しそうな自分を心の中で叱咤しながら、彼女は続けた。


「もう、わかったでしょう。私を愛しているのは神ではありません。私はいないほうがいい。お世継ぎは……他の方に。どうぞあなたの手ですべてを終わらせて」


 サーリアの言葉を聞き終えると、レーヴィスはゆっくりと立ち上がり、彼女に歩み寄った。

 そして前に立つと、じっと目を見つめてくる。


「今、死を願うと?」

「ええ」


 サーリアは彼の瞳に魅入った。その瞳の中に自分自身が映されているのが見える。

 自分自身の身体が震えるのを感じた。それは決して死への恐怖からくるものではない。


 もしやこれは歓喜に打ち震えているのだろうか?

 自分自身でも理解できない感情が身体の奥底から湧いてくる。そのことに彼女自身が驚愕した。


 殺されるなら、あなたの手で。その、剣で。

 一度失うはずだった命をもう一度あなたに委ねたい。

 ああ、それはなんと甘美な誘惑であることか。


 彼はサーリアの想いを知ってか知らずか、銀の髪を愛しそうに撫でた。

 何度も何度も、優しく、労わるように。


 そしてふと、一瞬だけ自分の唇を彼女の唇に触れさせた。それは今までのような、すべてを奪うような口づけではなかった。

 サーリアは目を瞬かせ、彼を見つめる。彼は優しく微笑んでいた。


「残念だが、それはできない」

「まだお世継ぎを産んでいないから?」

「いや、もしもう産んでいたとしても、それだけはできない」

「なぜ?」

「愚問だな」


 そう言って小さく笑う。


 サーリアは両腕を伸ばして、レーヴィスの頬を両手で包み込んだ。

 彼は少し驚いたように、こちらを見つめ返してくる。

 サーリアは背を伸ばし、手に力を込めて、顔を近付ける。

 そして彼の唇に自分の唇を触れさせた。

 するとレーヴィスが腰を抱いてきたから、サーリアも首に腕を回して、お互いにむさぼるように唇を合わせた。


 唇が離れたとき、レーヴィスは不思議そうに言った。


「なにも持っていないのか」


 その言葉の意味がわからなくて、首を傾げる。


「いや、わからないのなら、いい」


 苦笑しながらそう言うと、ゆっくりと身体を離す。

 今まで確かに腕の中にあった温もりがなくなって、急に心もとない気持ちになる。


 ふと彼が、思いついたように言った。


「私からも一つお願いがあるのだが」

「……なんでしょう?」


 サーリアは首を傾げて彼の言葉を待った。

 彼は笑う。こんな場面に似合わない笑顔だ。


「そなたの微笑みが見たい」

「え?」

「今、ここで」

「今?」

「そう」


 戸惑う彼女の肩に彼はそっと手を置く。


「見るすべての者を幸せにするというその笑顔が見たいと、最期にそれくらいを願っても罰は当たらないと思うが」

「……最期」


 その言葉を口の中で小さくつぶやく。


「もし我が国が敗れ去るようなことがあれば、私の首はここへは帰ってこないから」


 彼はまるで他人ごとのようにそう言ってのける。

 おぞましい想像がサーリアを襲った。そうだ、彼女の亡き父と同じ。敗戦国の王の末路。

 そう、父も言った。微笑んでくれないか、と。

 彼女はその想像を打ち消すように、二、三度首を横に振る。


「ずいぶんと弱気なことを仰いますのね」

「そうか? ……いや、そうかもしれない」


 でも、と彼は続けた。


「我が国の敗北はエルフィにとって願ってもないことだろう?」


 サーリアはその言葉に弾かれたように顔を上げる。彼は口の端を上げて言った。


「もちろん、負けてやる気はさらさらないが。全国民の一生が掛かっている」


 なんと言っていいのか、わからなかった。

 なぜ、こんなことになってしまったのか。もうなにもかもがわからなくなってきてしまった。


「私の、最後になるかもしれない願いを聞いては貰えないか」

「……こんなときに」


 笑えるはずがない。

 サーリアは目を伏せる。もう、限界だと思った。

 生きてはいけない。やはり殺して貰わなければ。

 そう思ったとき。


「無理か」


 彼は短くそう言うと、彼女から離れて歩き出した。


「どこへ?」


 サーリアが慌ててその背中に声を掛けると、レーヴィスは首だけ振り返って言った。


「どこへ、とはこれは異なことを……大きな戦になる。出陣するに決まっているだろう。そなたの微笑みを見ることができなかったのは心残りだが」


 そう言うと、背を向けて片手を上げ、今度こそ部屋を出て行った。

 部屋の外で出兵の準備をしていたであろう、将軍や衛兵の声が聞こえ、そして遠ざかっていく。


 一人部屋に取り残され、サーリアはその場にへたりと座り込んでしまう。

 そのとき、胸の傷跡がずきずきと痛むのを感じた。

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