第45話 狂気
そのとき、部屋の外からバタバタと幾人もの足音が聞こえた。
バン、と大きな音を立てて扉が開くと、何人かの衛兵がなだれ込んでくる。
セレスの侍女があっという間に床に組み敷かれた。
だがセレスはそれをまったく気にしていないようで、サーリアのほうに向いたままだ。
「セレス」
しかしセレスの背後から声がして、彼女は振り返った。
衛兵たちを掻きわけるようにやってきたのはレーヴィスだ。
「まあ、陛下」
「それをこちらに」
落ち着いた様子で、レーヴィスが手のひらを上に向けて差し出す。
するとセレスは小さく、ふふ、と笑った。
「嫌ですわ」
「セレス」
すると彼女はふと、自分の血がドレスに滴り落ちていることに気付いたようだった。
「まあ、どうしましょう。陛下の御前でこのような汚れたドレスで」
おろおろと戸惑っている。
その様子に皆、動けずにその場に立ちつくした。
「陛下、少々お待ちくださいね。あとで着替えます。先日、新しいものを仕立てましたの。お気に召していただけるといいのですけれど」
照れたようにそう言う。
けれど手に持った懐剣は、握り締めたままだ。
「ああ、そうだわ。これを終わらせたら遠乗りに出掛けましょう。以前、お約束してくださったでしょう? わたくし、楽しみにしておりましたの」
頬を紅潮させて、少女のように笑ってセレスが言う。
「ああ、わかった。では遠乗りに行こう。その前にそれを、こちらに渡してくれないか。馬に乗るには邪魔だろう」
静かな口調でそう言って、レーヴィスはセレスにゆっくりと歩み寄っていく。
セレスは少し考えるような素振りを見せたが、しかし首を横に振った。
「駄目ですわ。わたくし、あの女を殺しておかないと」
「セレス、それは駄目だ」
「どうしてです? あの人、死にたがっているじゃありませんか」
懐剣を持った逆側の手で、セレスはサーリアを指さす。
「どうして……」
サーリアの口からそう零れ出た。
どうしてわかったのだろう。
部屋にいる全員の視線がサーリアに集まった。
「どうして? 嫌だわ、わかると言ったじゃないの」
セレスはくすくすと笑いながら言う。
「さっきから逃げようともしないし、怖がりもしないし、なにより生きる気力を感じないわ。わたくしが殺すのは、むしろ親切だと思うのだけど」
サーリアはそれに応えることもできずに立ちすくむ。
「ね? だから、おとなしく殺されてくださいな」
満面の笑みで、そう言う。彼女の周りだけ違う景色があるような、そんな気がした。
徐々に距離を詰めていたレーヴィスが、彼女の背後から懐剣を持ったほうの手首を握り締めた。
「陛下?」
「さあ、それを」
「嫌だと言ったじゃありませんか。いくら陛下でも」
その返事を聞くと、レーヴィスはそのまま手首を握った手に力を込めた。
きりきりと締め上げられ、彼女の手から懐剣が滑り落ちる。
「まあ、困りますわ、陛下」
セレスはのんびりとそんなことを言う。
衛兵が慌てて駆け寄り、懐剣を拾い上げる。その柄にはセレスの血がべっとりと付いていた。
レーヴィスは握った手首を離すと、セレスの前に回り込み、そして抱き寄せる。
「陛下?」
「すまなかった」
「なにを……」
「そなたを愛してやれなくて」
その言葉に、セレスの瞳に涙が浮かんだ。
セレスの中には彼女が二人いて、そのうちの一人は冷静にこの状況を眺めている。そしてすべてを理解している。
そんな風に感じた。
「どうしてそんなことを言うのです? わたくしの陛下はそんなことを言ったりしない。陛下はいつだって、わたくしに愛の言葉をくれますわ。わたくしの陛下は……」
「私は元々、こういう人間だ。違うと言うなら」
レーヴィスはセレスを抱き締めていた腕を解いて言った。
「その男は、この世界に存在していない」
「なにを……仰っているの……?」
セレスは二、三歩後ずさり、子どもがいやいやをするように、首を振る。
「そんなことはありませんわ。だから言ってくださいな、わたくしを愛しているって」
「嘘にまみれた言葉を聞きたいのではないだろう」
「嘘だっていつかは本当になりますわ。この女がいなくなれば、わたくしを愛するしかなくなるでしょう?」
セレスはサーリアを指さした。
レーヴィスはため息をついて言う。
「残念だ。本当に、残念だよ」
彼が軽く手を上げて前に倒すと、衛兵がセレスに駆け寄り、そして両脇から彼女を抱え込んだ。
セレスは特に抵抗はしなかった。
彼女の空色の瞳から、涙が一筋流れ出る。
「陛下……どうして?」
レーヴィスは、哀れむような瞳でセレスを見つめていた。
それを見た彼女は、ぼろぼろと涙を零す。
「どうして最後まで騙してくださらなかったの? 今さら……今さら……」
「最後まで騙されていて欲しかったよ。だがもう、見過ごせない」
セレスはしばらくレーヴィスをじっと見つめていたが、ふいに笑い出した。
「ふ……ふふ……あはははは!」
耳を覆いたくなるような笑いだった。そしてそれは止むことを知らなかった。
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